かはたれの背中

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日曜の夜の居酒屋は、少しだけ静かだった。元々全室個室の店だからか、或いは日曜日だからか、それは三井には分からなかった。横浜駅前にあるそこを選んだのは、友人の菅田だった。彼が東京へ帰る際の利便性を考えれば悪くないと思った。今日飲まねえ?と誘われたのは、東京でアルバルクとゲームをした二週間後のことだった。ちょうどサンダースがホームゲームだった日を狙っていたのだと思う。菅田が、肉が食いたい、と言って、前にコンパで使ったら良かったから、と続けていた。何でわざわざ横浜?と聞くと、横浜の女の子達だったから、とのことだった。相手の女性のことを第一に考える菅田らしいと思った。が、そのコンパでは撃沈したらしい。運命の出会いはなかった、と彼は言った。三井は彼の沸いた思考に吹いた。店の予約は彼に任せ、三井は横浜駅に向かった。
全席個室のそこは、内装は多少小煩く見えたけれど、悪くない雰囲気だった。四人掛けのテーブル席に二人で座り、まずはビールを頼んだ。お疲れ、と言ってそれを飲み、今日どうだった?と互いのチームの話をする。サンダースは今日、接戦の末に勝った。インタビューを受けながらいつも通り答えて頭を下げ、上げた瞬間に水戸の姿を探した。ホームゲームを観に来た、あの姿を。だけれど当然、あの時の水戸は居なかった。もっとも、今日コートに入った時、既に分かった話だったのだけれど。水戸は居ない。彼があのマンションを出て行ってから、もうすぐ二ヶ月になる。もう二月の半ばだった。
「意外と勝ってんのな」
「どういう意味だよこら」
アルバルクは東地区の現在は三位だ。サンダースは中地区の二位の位置にいる。ただ、今後の勝敗でどうなるかは分からない。勝率はアルバルクの方が高かった。癪に触り、三井な舌打ちをした。
「いや、そうじゃなくて、お前大丈夫なの?」
「何の話?」
「この間立川来た時、顔酷かったよ」
三井はぎょっとした。今まで誰にも気付かれなかったからだ。特に仕事関係者には。普段通りに、いやそれ以上に仕事に打ち込んでいたつもりだった。だからチームの選手達は三井に、何の違和感も感じていなかったと思う。むしろ逆だった。三井コーチは気合い入ってる、そう言われたものだった。だから驚いた。と同時に、積み上げられたものが崩れ落ちた気がした。
失礼します、そう言って年若い店のスタッフが、ステーキや生ハムやピザを置いて行く。ステーキはポテトも添えられていて、ソースや塩も三種類ほど置かれた。野菜っ気ねえな、と考えながら三井は、また水戸のことを考えた。最後に食べた唐揚げの味が、忘れられなかった。多分醤油ベースでにんにくが効いている。しばらく漬け込んで、粉を付けて揚げているだろう。あれからずっと、唐揚げだけは食べられなかった。ごゆっくりどうぞ、出て行ったスタッフを見やり、三井はポテトを一本手に取った。口の中に入れて咀嚼すると、じゅわりと油が広がる。唐揚げの味が今何故か、口の中に広がった。
「オレ、今回は結構参ってる」
「だと思ったんだよね」
菅田はそう言って、ビールに口を付けた。そして、美味そう、と言って取り皿に切られた小さなステーキを三枚ほど取る。
「……水戸が、出て行って」
三井は今日、触れられなければ言う気もなかった。それなのに、はっきりと見透かされたと感じた瞬間、口に出していた。出したらもう、実感せざるを得ないのに。
「は?」
ステーキを口に入れようとしたのと声を出したのが同時だったのか、菅田の口はあんぐりと開いていた。一度閉じてから、やはり箸で掴んでいたステーキを口に入れる。動く口元を見ながら、眉間に皺が寄るのも同時に見た。動揺した様子はなかった。彼はそれを飲み込み、柔らけ、と感想を述べた。今それどうでもいいだろ、と三井は思った。
「え、何で?喧嘩?いつから?」
「順番に答えると、喧嘩はしてない。飽きたって言われた。でもそれは愛情だの何だのってあいつのダチは言ってて、もう二ヶ月近くになる」
「え?更に意味が分かんねえんだけど」
「オレにも分かんねえよ、だから参ってんの!だから今日はやめろよな正論叩き付けんのは!」
はあ、菅田は息を吐くように声を出すと、頭を掻いた。そういえば髪切ってる、そんな的外れなことを考えた。しばらく三井が黙っていると、とりあえず経緯を説明してください、と言いながら菅田はピザを手に取った。大口を開けて放り込むのを眺めながら、単純に美味そうだと思った。人は腹が減る。眠くもなるし、自炊して食えば洗い物もしなくてはいけない。着替えたら洗濯もしなくてはいけないし、それが終われば干さなければならない。その中で働く。生活をしないと、生きていけないのだ。例え誰かを失っても、日常は否応なく続く。朝起きて、そこに水戸が居なくとも。おはよう、おやすみ、ただいま、おかえり、それが無くなっても。
三井は口を開いて、ゆっくりと淡々と説明をした。もっとも説明をするとはいえ、出て行く飽きたの理由が分からない、それだけだった。毎朝毎晩帰って来ているかもしれないと考えながら朝起きて外に出て帰宅をして、そうしていくうちに段々と、大楠が言っていた「分かってやれよ、その愛情の深さを」の意味が分からなくなる。離れて行くのが愛情なのか、それとも水戸の本心から飽きたのか。その差異が測れなくなるのだ。どちらに真意があるのか。三井は水戸の愛情が自らが消えることならそれを受け入れるべきなのかと、しばらくの間考えた。それでも苛ついて焦燥して、夜になると携帯を見て水戸の名前を出した。こんな自分勝手な愛情受け入れられるかふざけんな!そう言って怒鳴り散らしてやろうと何度も考えた。だけれど頭のどこかで、飽きたという三文字が本心だったらと考えたら途方に暮れるのだった。それにきっと、そのどちらにしても水戸は、三井からの着信には出ない気がした。
三井は菅田に、それらを断片的にぽつりぽつりと話した。彼は、うん、うん、と相槌だけを打った。その間に目の前のピザは減って行き、冷めていく。三井は思わず、オレの分も残しとけよ!と途中で彼の食欲を止めた。菅田はへらへらと笑いながら、ようやく手を止める。
「話は分かった」
菅田は親指をぺろりと舐める。それから、うーん、と唸るような声を出した。
「やっぱりオレ、愛情があるからこそ離れるとか意味分かんねえんだけど。飽きたなら話は別だけど」
今度は三井が、ピザを手に取った。冷めたそれは、早くもチーズが固まっている。
「で、何?どっちが本心なのか分かんねえから止まってんの?洋平のダチは多分居所教えてくれねえし、お前から連絡する勇気はない。本当に飽きたって言われるのが怖いから。それなら愛情があるから離れたって思ってた方がいいって話?どっちにしろダメじゃん」
「だからさあ、正論叩き付けんのやめろよ」
「別にオレ、戦いを放棄するのはいいと思うよ。それも戦略の一つだし、終わるなら終わるでアリだろ。でも、敗ける試合って分かってても放棄するようなやつだったっけ?」
三井は菅田を見た。彼は三井を見ておらず、メニューを見ている。小さく、次何飲もうかな、と呟いていた。
「敗けが分かってる相手に対する挑み方、お前知らねえの三井コーチ。相手は誰だ。よく知ってるやつだろ?見知らぬ人間じゃあるまいし」
「え、慰められてんの?オレ」
「まさか。そんなわけねえじゃん。お、厳選ワインだってよ。飲もうぜ、なあ?」
菅田はボトルで頼む気なのか、三井にどれがいいかを一応聞いた。手頃な金額の赤ワインに決め、スタッフを呼ぶ。ついでにアラカルトを何品か一緒に注文をした。会釈するスタッフを横目に、菅田は次に生ハムに手を付ける。
「しかしまあ、離れたくなるほど好かれてんの。お前が。信じらんねえ。つーか、離れる意味がやっぱり分かんねえ」
「オレは分かる気がする」
「そっか?」
「お前はさあ、運命の相手だの何だの頭お花畑かよ」
個室をノックして入って来るスタッフを、三井はまたちらりと見遣った。置かれるグラスと赤ワインのボトル、アラカルトで頼んだナッツ類はすぐに用意出来たのかテーブルに置かれた。また順に、運ばれて来るのだろう。最初の一杯は、スタッフがグラスに注いだ。照明が電球色で、ワインの色は凡そ赤には見えなかった。もっと薄暗い気がして、妙に思った。おかしいことなど、何一つないのに。出て行くスタッフに軽く会釈をすると、三井はグラスを手に取った。飲みやすいそれは、どんどん口に入りそうだった。
「逆に冷めてんのかも」
「え?」
「オレらって毎シーズン勝敗気にして、いつクビ切られるかって必死で練習してプレイして、頭の中そんなんじゃん。だから恋愛くらいは頭沸いててもいいんじゃねえのって思うんだけど、どっか冷静っつーか。お前はオレより、よっぽど情熱的だと思うけどね」
三井は、無理矢理仕事に打ち込んだ日々を思い出した。頭の中をバスケットで一杯にして膨らませて、せめて仕事中は水戸のことを考える隙間を減らした。そうでなければ、今すぐにでも水戸の居る職場に足を運んでしまいそうだったからだ。彼の迷惑も省みず。それでも踏み止まれたのは、飽きたという三文字があったからだ。あれが三井の足を酷く重くした。動けなくさせた。
「まあ、最後決めるのはお前だ。どうするにしたって、これが正解なんだって気付くのは何年も先だよ。誰もそうじゃねえ?何なら今際の際まで分かんねえかもしれねえじゃん。だから好きにしろよ。本格的に振られたら、今度は本気で慰めてやっから」
菅田は笑って、無理矢理グラスを合わせた。三井は何も言わず、というより言葉が出なかった。どれが正解で不正解なのか、自分しか知らないからだ。決断したことが合っているのか間違っているのか、それに気付くのは今じゃなかった。ただ、今際の際に水戸を追い掛けなかったことを後悔して逝くのは嫌だと、それだけは思った。顔も見えなかった背中だけが最後であることだけは、どうしても我慢ならなかった。
もう答えなんてとっくに出てる、そう思った。
三井が自宅マンションに着いたのは、日を超えてからだった。菅田に釣られて飲み、足元がふらふらと揺れた。彼は強い方で、けれど更に饒舌で、バスケットの話とコンパで好みの女性が居ないことを延々と語った。雷に打たれるみたいな一目惚れがしたい、そう言っていた。そんな女現れねえよアホか、と言うと、現れるかもしんねえじゃん、と平然と返した。やっぱりこいつ頭沸いてる、そう思った。それでも菅田との会話は楽しくて、鬱屈としていた心情は多少晴れた。ただ、帰宅して水戸が居ないのを知った瞬間、また溜息を吐く。はあ、と大きく息を吐いて、真っ暗の部屋に灯りを点ける。揺れていた足元が、知らない間に冷たくなり、フローリングにしっかりと付いている感覚がある。この部屋に入るといつも三井は、現実を見据える気がする。
水戸はよく、三井が飲み過ぎて帰宅すると、飲む量考えなよ、と呆れたものだった。三井はソファに座り、飲み過ぎた、とか、気持ち悪い、とぼやいた。水戸はそれに対し、知らねえよ自業自得だろ、と言いながらも、グラスに水を入れて持って来た。三井はそれを当然のように受け取り、おかわりと強請ったものだった。彼は面倒そうにしながらも、グラスにまた水を注いで持って来た。めんどくせえなあ、もうしねえよ?そう言って水戸もソファに座った。飲むと人肌が恋しくなって、水戸をぎゅっと抱き締めた。大概風呂上がりだからか、髪の毛からシャンプーの匂いがした。ドラッグストアで買っているだろう安物のシャンプーは、酷く匂いが残っていた。その匂いを今も三井は忘れていないし、浴室には今も尚そのシャンプーは残っている。シャンプーだけじゃなく、ボディソープも歯磨き粉も。好みのタイプの日用品は、全て違ったから二種類置いてあった。買い置きの物は全て、処分もしなくて隠してもいなくて、そこにあった。手を伸ばせばすぐに届く場所に。
三井はソファに寝転がり、右手を天井に伸ばした。左腕で目元を隠して、想像上の姿を探した。目を閉じるといつでも水戸の顔が浮かんで、それは呆れた表情だったり面倒そうに眉を顰めたり目を伏せて笑ったり、最近見せるようになった歯を見せていわけなく笑う表情には何年も一緒に居るのにどきりとしたものだった。まだ全部残ってる、三井は伸ばしていた掌を握る。握った所で、水戸の温もりはない。そんなとこで寝たら風邪引くよ、水戸はよく言っていた。三井がソファで寝転がっているといつもだった。いいよ風邪引いても、三井はそんなことを今思う。だってそしたらお前心配して帰って来るかもしんねえじゃん、そう思った。そして自嘲する。はは、と声を出して笑う。こういうとこが飽きられたんじゃねえの?と。
「会いてえ……」
答えなんて決まっているのにまた決定的なことを言われたら、だから後退る。その先に踏み出せない。正解かどうかなんて今際の際にしか分かんねえ、三井は目元を覆っている腕を外し、目を開けた。その先には白い天井しか見えなくて、三井はまた一人であることを思い知る。




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