かはたれの背中

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それから一週間、毎日待った。仕事が終われば早々に帰宅し、自炊をした。朝もきちんと起きて洗濯をして、また自炊をした。洗い物もして、洗濯物も畳んだ。水戸がいつ帰って来てもいいように、自分が出来ることは全てした。ただ、連絡だけは出来なかった。携帯を手に持ち、水戸の名前を出しては消した。一日に何度も確認して、着信を待った。掛かって来ない電話に、それでも期待をした。今日は帰って来る、明日は帰って来る、遠征先でも、帰宅したら水戸が居るのかもしれない。信じていた。しかし、遠征先から帰宅して知ったのは、呆気ない現実だった。水戸の痕跡が消えた。カラーボックスが無くなった。水戸が使っていた物が消えた。テレビの横に飾っていたバイクの模型も、仕事用の車の雑誌も、水戸の物が入っていた収納の箇所も、そこはもぬけの殻だった。何もない。匂いすら残さない。元々誰も居なかったように。広いリビングを歩き、三井は性懲りも無くまだ何か残していないかと探した。けれど何も無かった。窓の向こう側を探して見るものの、そこにも何も無かった。ベランダのタイルに置いてある灰皿さえ。
三井は歯を食い縛った。ベランダを眺めていると、真っ暗な空と転々と灯る灯りがぼんやりと見えた。帰宅した三井を見付けた水戸はよく、ベランダから手を挙げていた。咥え煙草で特に笑うこともなく、右手を上げるだけだった。その仕草が好きで、三井はすぐに追い掛けた。ただいま、そう言うと柔く笑って彼は、おかえり、と言った。バスケットの話をすると、水戸は相槌を打つだけだった。勝ったよ、と言うと、だと思った、と返って来る。敗けた、と言っても、だと思った、と返って来た。適当だと詰ることもあった。でもそうじゃない。水戸は三井の口調も表情も、全部見て知っていたからだ。時々笑って、煙草に口を付けて、白く緩い煙を吐いた。舞う煙を眺めながら、毎日香る水戸の匂いを確認した。今日も三井はベランダに出た。その匂いはない。煙草もない。
「水戸、ただいま。今日勝ったよ。笑えるだろ?」
おかえりもない、だと思ったもない、何もない。水戸はもう居ない。





翌日、三井は有給を取った。働き過ぎだったし、疲れたのだ。失恋休暇、自分で考えると笑うしかなかった。昼頃まで寝ていると、水戸の匂いが時々した。枕だった。そこに顔を埋めても、不思議なことに涙も出なかった。その時だった。携帯が鳴り、三井は飛び起きた。しかし、名前を見て項垂れる。が、こいつなら何か、と急に焦った。
「もしもし」
『ミッチー?久し振り』
電話の相手は大楠だった。内容は、このマンションの契約の件で渡したい書類があるとのことだった。営業マンだからどこでも行くよ、彼がそう言ったので三井は、今日は休みで動きたくないことを告げると、この部屋まで来ると彼は言う。三井も彼と話したかったので了承すると、三十分後に行ってもいいかと聞かれたので、そこにも了承した。ベッドから起き上がった三井は着替え、顔を洗って歯も磨いた。水戸が居なくとも過ぎる時間は一緒で、三井は一瞬だけ大学時代を思い出した。ただ今日は違った。大楠からの電話は、何かを予兆させるものだった。
コーヒーの準備をしていた頃、インターホンが鳴った。はい、と返事をすると、画面には大楠が映っていた。三井は玄関に向かい、鍵を開ける。
「どうも」
「よう、上がれよ」
「お邪魔します」
彼がスーツを着ているからか口調か、いつもより若干堅苦しく見える。それでもいつも大楠は、愛想良く笑う男だった。仕事柄?とも思ったけれど、いや性格だな、と思い直した。短い廊下を歩き、リビングに通した。真昼間のリビングは明るく、けれども今日は曇りで、薄暗さもあった。照明を点けると、ぱっと明るくなる。
「お前コーヒーでいい?」
「あーお構いなく。っつっても入れてくれんなら遠慮なくいただきます」
「金取るかんな」
「勘弁してよー」
大楠は笑うと、ダイニングチェアに腰掛け、仕事用に持ち歩いていると思しき鞄を開ける。何枚か書類を出していて、三井はそれを覗き見ながら、コーヒーを入れた。カップを二つ持ち、テーブルまで歩いた。大楠の前に置くと、どうも、と彼は言う。三井も大楠の前に座った。そういえば、今彼が座っている場所には、水戸が座っていたのだ。つい一週間前までは。
「今日はね、契約者様変更ってことで再契約の書類を書いてもらいたくて」
さらりと声を出す大楠に、三井は耳を疑った。事情がまるで飲み込めなかった。
「え?ちょ、どういう意味?」
「簡単に言うと、契約者が洋平からミッチーに変わるってこと。で、そうすると再契約・新規契約の形になんの。敷金はそのまま移行って形にして、手数料やらは洋平から預かってるから……」
「おいおいおい待て!話が全く見えねえ!」
ぎょっとして割と大きな声を出すと大楠は、ゆっくりと息を吐いた。三井はもっと、何か違う話を予想していたのだ。何か糸口が見付かるのではないかと。予想外の展開もいい所だ。
「オレはね、洋平からマンションを出たことと、契約者を変更して欲しいって言われただけだ。本当は同時に印鑑貰わなきゃなんねえの、こういうのって。でもそれは無理だって言われた。もうあんたに会わないからだって。仕方ねえからそこはオレがどうにかしてる。手数料が掛かるっつったら、それも今朝かな?会社に振り込まれてた。だから今日ここに来てる。公共料金はあんたが支払ってるって聞いたから大丈夫か。ここは家賃も高いし、解約してもいい。書類も準備してる」
淡々と話す大楠を見た三井は、頭を鈍器か何か、とにかく硬い何かでぶん殴られた気分になった。がつんと思い切り激しい衝撃を感じて、目の前がちらちらと揺れた。瞬きを何度もしても治らず、いずれ真っ暗になる。沈黙したままの大楠の姿もぼんやりとしか見えなくなり、瞬きすら面倒になる。一度閉じて、今目の前に座っている人間が水戸ではないことを思い知る。これが現実だ。三井はゆっくりと深呼吸をした。深く息を吸って、深く吐いた。そして目を開けると、目の前にあるのは契約書と、水戸ではない水戸の親友。
「はは、もうまじで笑える」
「え?何?どうしたミッチー」
「もう、ほんと容赦ねえな、あいつ」
思わず笑うと、大楠は眉を顰めた。そして湯気の立っているコーヒーに、ようやく手を付ける。小さく、いただきます、と聞こえた。どうぞ、と言うと彼は、ずず、とまた小さく音を立てる。コーヒーを啜る音が、酷く耳に残った。
「ミッチーよ」
「何だよ」
「オレはさ、あんたより洋平とは付き合い長えし、あいつのこと知ってるつもりだよ」
「そうだな」
「だから言うよ」
大楠はコーヒーをテーブルに置いた。こつん、と木の音がする。
「正直、この終わり方は正解だと思ってる。あんたのこと知らねえ人間は多分神奈川には居ないし、このまま続けてたってろくなことねえよ。高校の頃はさ、こんなに長続きするなんて思わなかったし、洋平が凄えいい顔してて、こんなん初めてだったから嬉しかったしあいつ何も言わねえけどオレ達全員、何も聞かねえし言わねえけど喜んでた。すっげえ……、嬉しかった」
ゆっくりと息を吸う音が聞こえた。それから大楠は、窓の外を見た。やはり今日は、曇り空だ。灰色の、雲のない空が広がっている。
「大人になってからまた始めるって何となく知った時、あいつ言わねえからさ。もう雰囲気?分かっちゃうんだよね。あんたと何つーの?そういう関係になると、もう雰囲気が違えんだ。引っ越すって話した時も平気で好きだって言っちゃうし、あんたのことをだよ?一緒に飲んでる時もそう言った。あいつさ、今までどんな綺麗なおねーちゃんと付き合ってても可愛い子でも、好きだなんて言ったことねえんだよ。こいつ恋愛感情とかねえの?って思ってたのにあんたは違う。簡単に言っちゃうんだ、好きだって。ここでいつだったか、あんたが遠征中に鍋してさ、電話掛かって来たんだあんたから。それに出た時の洋平の顔、見せてやりたかった。今のミッチーに」
何それ、そう思った。知らねえよ、と。だってもう、あいつ居ねえじゃん。ここに居ない。帰っても来ない。一晩じゃなくて、もう一週間居ない。そしてきっと、この先も、居ない。居ないんだ、口を開くと三井は、要らぬ感情と共に目元が熱くなりそうだったから、口を噤んだままでいた。
「どんな理由かは知らねえよ?聞いてねえし聞く気もねえ。オレはこれが正解だと思ってっからさ。あんたは名前が知れてる。光が当たった場所で生きてる。それくらい自分が一番分かってるだろ?それを洋平が知らねえはずねえんだって。あいつが一度懐に入れた人間を放棄するみたいに放り投げるなんてやり方、例え自分が死んでもやらねえんだ。本来なら。それを今やってんの、あんたの為に。分かってやれよ、その愛情の深さを」
でも飽きたって。出て行くって。でもそれが愛情の裏返しなら?そんな自分勝手な愛情あってたまるか聞いたことねえよ、現に水戸は帰って来ないし何も聞けない。こうすることが正解か不正解か、そんなの誰もがきっと正解だと言うだろう。誰が一番知っているかなんて、自分が一番知っていた。ずっと前からだ。今じゃない、愕然とした昨夜よりずっと、もっと前から。
三井も窓の向こう側を見た。ベランダに水戸は居ない。灰皿もない。曇り空の向こう側は果たして晴天かそれとも雨か、そんなの誰も知らない。
「なあ」
「ん?」
「正解なんて分かってるのに、何でこんなにムカついてイラついて、しょうがねえんだろ」
「そんなん、惚れてるからじゃねえの?」
三井は最後に見た水戸の背中を思い出した。何も語らず、顔すら見せなかった背中だった。
あれは誰か、分からない背中を。





6へ続く


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