かはたれの背中

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「三井さん」
何?水戸?帰って来たの?耳の手前辺りで毎朝のように聞いていた声が聞こえ、三井は薄目を開けて確認したかった。けれども出来なかった。もう少しだけ、その声に浸っていたかったからだ。
「三井さん、ごめんね」
もういい。何でもいい。だってもうここに居るんだろ?側に居るんだろ?飽きたって言ったことも出て行くって言ったことも忘れる。全部忘れるからオレも悪かったから。目を閉じたまま、三井は言葉に出来ない感情の渦を伝えたいと思った。その内、眠っている所を抱き締められ、何度も何度も水戸は、ごめんね、と繰り返した。飽きたなんて言ってごめん、嘘だった、全部嘘だった、好きだよ、三井の耳元で囁くようにゆっくりと告げるそれに、三井の目は閉じたまま潤んだように感じた。水戸の身体を抱き締め返し、ぎゅっと強く力を込める。どこにも行かないように、消えないように、昨夜顔すら見てくれなかったあの瞬間を思い出し、消えてしまうと本気で考えた一瞬を消し去るように、思い切り力を込める。けれどもその体は、酷く不自然だった。耳元で囁かれているのに耳の辺りは騒つかないし、抱き締めているのに水戸の匂いもしなかった。髪の毛から香る煙草の残り香もなく、よれたパーカーから綿の柔らかな感触もなかった。実態がなくて何もなくて、空気も気配もない何も抱き締めていないような。いや、元々居ないのではないか。水戸が居ない水戸が居ない水戸が居ない。
「水戸!」
閉じていた目を慌てて開けてベッドから起き上がると、水戸は居なかった。寝室には勿論居なくて、ベッドから降りてカーテンを開ける。ベランダにも水戸は居ない。寝室から出てリビングを見渡しても、そこには気配すらなかった。小走りしてリビングのドアを開け、短い廊下を見渡した。しんと静まり返ったそこは、閉鎖されているからか薄暗く、フローリングの床が冷た過ぎて足の裏が冷えた。ひたひたと歩き、玄関を見る。水戸がいつも履いているコンバースも無いし、鍵を置いている場所は彼の鍵の束が丸ごと消えていた。愕然としたのかそうでないのか、三井には分からなかった。リビングに戻り、ドアが開けっ放しの寝室に戻り、ベッドの横にあるサイドテーブルを見た。そこにはキーケースと指輪が置いてあり、昨夜の出来事が夢でも何でもなく、三井の体を強く抱き締めてくれた水戸そのものが夢だったのだと知った。ごめんね、そんな風に謝った水戸は、三井の都合のいい幻でしかなかった。
一晩放置された二つの物は、触れると酷く冷えていた。金属はただのシルバーの筒状のものでしかなく、三井はその冷たさを感じた瞬間に、初めて愕然とした。水戸が出て行ってから三井は、あれを言われたことも自分が何を言ったかも、よく思い出せなかった。ただ、食器を片付けないと、と思ったのだ。自分が食事を終えたかも分からない皿を見詰めると、唐揚げが未だに残っていた。まだ生温かいそれは、ころんと一つだけ転がっていた。残しちゃいけない、的外れなことを考えた三井は、それを口の中に放り込んだ。一度噛んだ時は何も味がしなかった。それを何度か繰り返した。何度も咀嚼してようやく、水戸が作るいつもの唐揚げの味がした。それが口内に染み渡り、何でこんな日に限って唐揚げなんだと思った。食べ終えた皿をシンクに持って行くと、そこには水戸が食べ終えた皿が、水に浸っている。三井もその上に置き、レバーを上げた。淡々と変わることなく流れ続ける水を眺めながら、そのレバーを下ろすことをしなかった。しばらくの間、上から流れ落ちる水を見て、ずっと眺め、何かを待った。
勿体ねえな早く止めろ、その声は聞こえなかった。うるせえな分かってるよ小姑が、言い返すことも出来なかった。水戸が居ないと三井は、喋ることも不自由だ。三井は水を止め、その場に崩れ落ちた。水戸が居なくなった。それを知った。それでもその日の晩は、明日の朝になれば水戸は居ると信じていた。だって水戸は、何があっても一晩居なくなることはなかったからだ。が、三井がサイドテーブルに放置された指輪の冷たさに触れた時にようやく、水戸が居なくなったことを突き付けられた気がした。水戸が居ない。居なくなった。三井はその場に座り、ベッドに顔を埋めた。水戸の匂いがしないのは、水戸がいつもいる側ではなかったからだ。けれども今はとても、その匂いを確認する気にはならなかった。
飯食わないと、でも食いたくない、顔洗わないと、でも動きたくない、何でこんなことになったんだろう、何で。三井は言葉にならない嗚咽を時々漏らしながら、現実を探そうとした。今日は午後から練習、それまでにはどうにかしないと。そうやってどうにか自我を保とうとした。飽きた出て行く、その短い言葉が、何かを探ろうとする度に脳裏を過った。何で飽きたの何で。見付からない答えは結局そのままで、三井は携帯を探した。枕元にあったそれを手に取った。何で飽きたの何で、幾ら思考を巡らせても何も出て来なくて、三井は水戸の名前を携帯の着信履歴から探した。今日は月曜日水戸は仕事中、三井は過ぎ去る時間に唖然とする。どう考えても、あれから一晩経っているのだ。何で帰って来ないの何で。時間を確認すると九時だった。何も知らせていない携帯の画面を眺めながら、嫌気が差して持っていた携帯を放り投げた。ぼすんと衣擦れの音がしてそちらを見ると、ちょうど水戸が寝ている側に投げられていた。とてもそれを取ろうとは思えず、三井は水戸が眠っている姿を想像して、抱き締められた夢を思い出して、瞼を滲ませる。
水戸とこの部屋に住むようになってから、彼は例え一晩でも空けることをしなかった。朝は必ず居た。三井が起きる頃には、この部屋で眠っていることもあれば、リビングに居ることもあった。ベランダに居る時もある。どれだけ鬱屈とした空間が佇んでいても、その空気に紛れ込むように水戸は必ず居るのだった。考えてみなくとも、ここの所ずっと、もう一ヶ月近く、自分は勿論水戸の様子にも変化があった。些細なことだけれどそれは、確実にあった。目を合わせて食事をしないのはいつも通りだけれど、全てに於いて彼は、どこか遠かった。ふと意識を手放すことが増えた。そういう時水戸は必ず、窓の向こう側を見る。そっち側に行ってしまうように。それでも三井は聞くことをしなかった。この生活を続けることを優先させた。踏み込めば壊れると分かっていたからだ。そんなのお互いそうだろ?と見ない振りをした。オレだけじゃないあいつだって同じ、と水戸に責任を押し付けたのだ。そして終いには、「オレの手を離さないで」と高額な保険を掛けたのだ。こう言えば水戸は、ぎりぎりの所でも離さないだろ?と。打算的なことを考えた。
母親から呼び出されたことも決定打に近かった。最初は普通に食事をしていた。夜だったからか豪華で、彼女と二人だったけれど、三井が過去に好物だった食事を用意していた。グラタンにサラダに後はよく覚えていない。彼女は洋食を作るのが好きで、水戸とは正反対だと思った。飲まない?と聞かれたので少しだけワインを飲んだ。高そう、と思いながらも美味くて、普通に会話をした。水戸は今頃何を食べているんだろう、そんなことを考えていた。その時は、彼が他所で親友と食事をしていることは知らなかったからだ。だから、一人かな、と。早く帰りてえな、と。そんなことを、あの母親の前でそれをひた隠しながら会話をしていた。その時だった。
「あなた、水戸くんが好きなの?」
それを聞いて、一気に覚めた。この女は何を言っているのかと、三井は凡そ怒りすら覚えたのだ。あんたに何が分かるのか、そう思ったのだ。何が「好きなの?」だ。お気楽に聞いてんじゃねえよ、と。
「は?何言ってんの?」
だけれど抑えなければならないから、三井は必死に耐えた。
「あなたね、分かってるよね?顔も名前も知られてるのよ?世間はそれなりにあなたの顔も名前も知ってるの。分かってる?」
「うるせえな元から違う。放っとけよ」
帰る。三井は立ち上がった。ワイン勿体ねえ、ちらりと見えた赤い液体が酷く所在無く見え、三井はグラスを手に取った。喉を逸らして思い切り呷り、強めにグラスを置いた。急に歩き出したので、頭が多少揺れる。飲み過ぎたかな、そんなことを考えながら、玄関まで歩いた。靴を履きながら、水戸から初めてプレゼントされた腕時計が見えた。それを軽く左手でなぞり、靴を履き直した。後ろからはまだ、甲高い声がしているけれど、三井には聞こえなかった。いや、聞こえてはいるけれど内容は定かではなかった。要は、あなた分かってる?世間体を考えなさい、そういう内容だった。玄関を出ようとする直前、三井は振り返った。彼女は酷く動揺した様子で、三井は一瞬罪悪感が過ぎる。下ろしていた掌を思わず握った。それでようやく気付いた。酷く冷えているのに、汗を掻いていた。悟られたくなくて、三井は何度も、掌を握ったり開いたりする。そして最後、ぐっと握った。
「あのさあ、勘違いしてる。最初っから。まじで全然違うし、ほんと勘弁してよ」
じゃあまた、そう言って玄関のドアを開けて、外に出たのだった。寒い筈なのに、それも感じなかった。払拭する為に、また左手で腕時計をなぞった。動揺したのはオレも一緒だった、三井は舌打ちをした。それしか出来なかった自分は、なんて不甲斐ないのかと酷く苛ついた。その日帰宅すると、水戸は居なかった。仕事?それもよく分からなかった。三井はソファに座り、腕時計を外してローテーブルに置いた。疲れた、ただそう思った。そして腕時計を眺め、三井は秒針が進むのを見続けた。静かな部屋で、けれども空気は張り詰めてはいなかった。ただ寒くて、そこでようやくエアコンを点けていないことを知った。ローテーブルに置いてあるリモコンを手に取り、スイッチを押した。電気の音が、唸り声を上げる。そうだ、寒かったのは部屋が冷えていたから、エアコンが点いていなかったから、時々耳鳴りがするのは、静かだから。三井は誰に言うでもない、しなくてもいい言い訳をずらずらと並べる。並べて横に一列にしても、母親の言葉は消えなかった。
顔と名前が知られてるだとか世間体だとかそんなんオレが一番よく知ってる水戸と居ることでオレのバスケ人生がすっ転ぶかもしれないのも知ってる自分勝手なオレが水戸に人生握られたくないのも知ってる上手くいかないのも知ってるそれを無理矢理続けようとしてるのも知ってる全部全部、全部知ってる分かってる。
分かっているのに知っているのに、水戸がここに居る居ないで自分の人生や生きて行く為の呼吸や生きる術の全て変わることの方が大きかった。三井は最初、水戸のことがただ好きなだけだった。だから追い掛け続け、世間体や流れなど考えないままひたすら自分の手の内に納めてしまいたかった。それから随分と時間が過ぎた。時と共に色々なものが積み重なった。年齢もあるし、互いに背負うものも捨てていくものもそれぞれ別のものとしてあった筈だ。それでも、自分の奥底にあったものは、水戸が好きだというそれしかなかった。だけれど、上に積み重なったものを外していく作業というのは覚悟や度胸だけでどうにかなるものじゃなかった。
あなた、水戸くんが好きなの?
母親の言葉を聞いた時、それを顕著に感じた。だから酔いが覚めたのだ。突き付けられた。帰宅して考えながら、オレは狡くて計算高いからそこには保険が必要だ。そう思った。そしてその途端、愕然とした。自分にぞっとしたのだ。水戸さえオレを手離さなければ許される、そんな馬鹿高い保険を考えた時、自分を心底恐ろしく思った。でもやるんだ、オレはそれを平気でやってのける。傷付いた顔をして縋って、助けてって手を伸ばす。だって水戸が帰って来ない方が、よほど怖いから。
三井は今も尚ベッドに縋って動けないまま、あの日のことを思い出した。あれからどれくらい時間が経ったかは知らない。数分か、数十分か。放り投げられた携帯は取る気にもならなかった。やはり水戸の気配は感じなかった。帰って来ない。来ていない。オレが狡いことばかり考えているのがバレたから?そこに飽きた?そこでようやく、昨夜自分が水戸に言った言葉を思い出した。
毎日朝飯作らせるから?晩飯も?何でもお前にやらせるから?だったら直すから。洗濯も掃除もする、メシも作るし頼りっぱなしにしない。自分勝手なのが嫌ならそれも直す、うるさいなら黙ってる、お前の話もちゃんと聞くし嫌な所があるなら今言えよ、全部直すから。
直すから。全部直すから。嫌いでもいい。何でもいい。いっそ好きじゃなくてもいい。飽きたとか無関係にしないで無関心にならないで。三井は顔を上げ、サイドテーブルに置いてある指輪を手に取った。人差し指から順に嵌めながら、嵌る指を探した。知っていた。嵌る指なんてないことを。それでも試した。どの指もすかすかして空洞があった。ひんやりとした金属は熱も何も残していなかった。
何もない。そう思った。こんなに束縛する物を渡したとしても、効力も価値もゼロだ。三井はまた、ベッドに突っ伏した。水戸の匂いさえ探せない。それならいっそ、何も残さないで。

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