かはたれの背中

□4
2ページ/2ページ


「今、何て?」
「出て行く。飽きた」
「いや、ちょ、え?意味、分かんねえ、んだけど。は?」
水戸はキッチンを出て、いつも仕事に持って行くトートバッグを手に持った。一応もう一度中身を確認する。メガネケース、弁当箱、着替え、歯ブラシ、歯磨き粉、とりあえずこれだけあれば事足りる。今日はビジネスホテルに泊まれば済むし、大きい荷物は三井が居ない間に運んでしまえば終わる話だった。元々荷物も少ないし、食器類は多ければ彼が適当に処分するだろう。そこまで面倒を見るつもりはなかった。
リビングを出ようと、三井の顔を見ることも、今何をしているのか確認もしないでドアの方向に向かった。その時、左手が引っ張られる。足が止まり、動けなくなる。
「だから何でだよ!どこ行くんだよ!説明しろ!」
「飽きた。それだけ」
「何で!」
答えることもせず、水戸は三井の手を払った。振り返ることもしないで、そのまま進んだ。ドアを開けると廊下は冷え冷えとしていて、フローリングの冷たさが足の裏を伝う。早く出て行かないと、それだけしか考えられなかった。
「どこ行くの、お前」
出て行く人間にこの人は、何を聞いているんだろう。水戸は思った。答えたら意味ねえだろ、と。歩くのを止めない水戸に、また三井はその左手を掴んだ。思わず息を吐いた。掴まれた手首がじりじりと痛む。痛くて痛くて引き千切れてしまいそうだった。
「なあ、なあって。水戸、ちょっと待てって。置いてくの?置いて行くなよ、頼むから。飽きたって何で?オレ何かした?毎日朝飯作らせるから?晩飯も?何でもお前にやらせるから?だったら直すから。洗濯も掃除もする、メシも作るし頼りっぱなしにしない。自分勝手なのが嫌ならそれも直す、うるさいなら黙ってる、お前の話もちゃんと聞くし嫌な所があるなら今言えよ、全部直すから。だから頼むから。飽きたって何で……」
掴まれた手首が痛んで、千切れてしまう前にもう一度振り払った。二度目はもっと強く払って、三井の言葉も聞こえないようにただ、前だけを見据えた。もう一度歩き出して、玄関でスニーカーを履いた。三井が随分と前にくれた、黒のローカットのコンバースだ。履き潰すまで履こうと足を入れてから、もう何年経ったか覚えていない。くたくたになったそれは、靴紐も黒ずんでいる。もう捨てなきゃ、そう思いながらまた、足を入れた。
キーケースから外された鍵の束を持った。昔使っていた、何の変哲のないリングに鍵を付け直した。三井からプレゼントされたキーケースは、寝室のサイドテーブルに置いておいた。指輪も同じように、同じ場所に置いてある。彼がいつ気付くかは知らない。それも水戸の知ることではなかった。玄関を開けようとした。今度は肩を掴まれた。向き直させようとしているのだろう、それも水戸は振り払った。
「顔も見たくない」
そう言って水戸は玄関を開け、二人で住んでいた部屋から外に出た。寒さも気にならないほど、何の気配も匂いも感じなかった。何もなかった。ただ夜だった。街灯が灯っていて、周辺はまだ車の動きもあった。それだけしかない。何もない。左手首には掴まれた感触も残っていないし、痛みも消えた。引き攣るような皮膚の違和感もなくて、ただそこに居るだけだった。歩いているだけだった。
三井の言葉は、あまり聞かないようにしていた。そこに引き摺られても困るからと、意識を玄関の向こう側に持って行っていた。自分勝手なのが嫌ならそれも直す、うるさいなら黙ってる、お前の話もちゃんと聞く、違う違う違う、全部違う。去り際に初めて知った。あんな風に他人に縋り付くあの人を見るのは初めてだった。
水戸は一つだけ、三井の記憶を持って来た。ホームゲームを観に行った時に売店から貰って来たフリーペーパーだ。これがあれば、水戸にはいつまでも現実が残る。バスケットをしている、そこに生きているきらきらと輝いたあの人が、水戸の中に残る。
顔も見たくない。水戸は自分が言った言葉を思い出した。本心だった。こんなもの、持ち歩きたくもなかった。二度と会いたくないし、顔も見たくない、本当は。縋られただけでも厄介なのに、夢に出て来られても困る。そこだけでも会いたくなる。
あんな格好悪い三井さん初めて見た。思わず緩みそうになる口元を結んだ。
さよなら。





5へ続く


前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ