かはたれの背中

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水戸が三井の母親から指定されたカフェに出向いたのは、午後一時四十分だった。彼の実家から少しだけ離れた場所にあったそこに水戸が着いた時、まだ彼女は居なかった。約束の時間まであと二十分ある。早めに着いて良かったと、ただ思った。オープンガラスの見栄えの良いそこは、三井を彷彿とさせる。趣味が良く似てる、そう思った。
その日は酷く天気の良い日で、冬とは思えないほど暖かかった。カフェのスタッフに待ち合わせであることを告げると、少しだけ広めの席に案内された。窓際のそこは、大きな窓から入る太陽光と暖房が相俟って一層暖かい。水戸はダウンジャケットを脱ぎ、隣の椅子に置いた。頬杖を付き、窓の向こう側を眺めた。様々な人達が水戸の左側のオープンガラスを挟んで横切る。会話は勿論聞こえなかった。一人で歩く人、二人で歩く人、それぞれが何かしらどこかに向かって歩いている。ぼんやりと眺めながら、暖かい日差しをガラス越しに受ける。こちら側と向こう側が、酷く曖昧に思えた。きらきらと反射して眩しくて、それはどこか遠い。すると、スタッフから注文を聞かれた。水戸の斜め右側には氷の入ったグラスが置かれる。光が反射して、それさえも眩しい気がした。お決まりですか?柔らかく問われ、水戸は、待ち合わせなので少し待って貰ってもいいですか?と、答えた。スタッフは軽く会釈して、踵を返した。
三井の母親からは、極稀に連絡がある。あの子連絡も寄越さなくて、元気?水戸くんは元気?体調どう?凡そ五分程度のそれは、他人を介して息子を思う母親でしかなかった。水戸はそれに対し、連絡くらいしろって言っときます、元気です、俺のことまでありがとうございます、そういったテンプレートのような言葉で、罪悪感をひた隠して返していた。同居当初は普通だった。それが二回目三回目と続くと、極稀の連絡だったとしても言いようのない何かが触れた。ごめんなさい、それを自分が言うのではないかと、怖かった。
急にごめんなさい。午後から予定ある?それを彼女から聞かれた時、水戸は断る術を持たなかった。いえ、そう言うしか出来なかった。彼の母親が自分に何を言うのか、それを予測しようと思えば出来た。けれどしなかった。三井の様子の些細な変化も含め。窓の向こうは変わらずに眩しかった。頬杖を付いたまま横目でグラスを見ても、やはりきらきらと光が反射している。目を開けていられなくて、そのままゆっくりと瞼を下ろした。
それから何分経ったのか、それとも数秒しか経っていないのかは分からない。近くで足音がして、それが女性らしい様子だったので目を開ける。
「お待たせしちゃってごめんなさい」
水戸は顔を上げ、声の方向を見た。相変わらず可愛らしい人だと、思わず目元が緩んだ。
「いえ、さっき来た所なんです」
三井の母親も、同じように目元を緩めて微笑んだ。彼女が席に座ると、スタッフが注文を聞いた。ミルクティーください、そう言ったので、水戸はコーヒーを頼んだ。水戸の時と同じように会釈し、少々お待ちください、と言ってから踵を返した。
「洗濯物」
「え?」
「今日はよく乾きそうね」
「ああ、そうですね」
話しづらいのかな、そう思った。内容は未だに掴めない。が、掴むことも自ら進めるよう施すこともしなかった。ただ水戸は、彼女の綺麗に整った顔と髪型を見ていた。彼女はいつも前髪が短かった。顎の辺りによく手入れされていそうな髪の毛が軽く揺れる。幾つくらいなんだろう、きっと五十代、それでも若く見える、水戸は的外れにもそんなことを考えていた。
「寿は家事をしてるの?」
「え?あ、いや、時々」
「してないのね」
そう言うと、彼女はまた緩く笑う。その時、お待たせしました、と同じスタッフが順に置いた。ミルクティー、コーヒー、その順で。互いに一口飲み、ソーサーにカップを置いた。
「一度、寿が帰って来たことがあったでしょ?一週間くらい」
ああ、あの時。水戸は思い出した。俺が出て行くのも嫌、終わらせるのも嫌、それならあんたが実家に帰れ、そう言った時確か三井は、一週間ほど自宅に戻っていた。それを思い出した。
「あの時ずっと様子がおかしくてね、お父さんは気付いてもなかったし放っておけって言ってたんだけど。やっぱり声掛けちゃって。毎日見てて、この子きっと、誰かに恋してるんだわって」
思った。彼女は水戸を真っ直ぐに見据え、そう言った。水戸は彼女から目が離せず、思わず唾を飲み込む。一瞬、きんと耳鳴りがした。辺りは騒ついていた。二人の会話に耳を傾ける人は誰も居ない。それほど周囲は別の会話で溢れていた。その筈なのに、この一角だけが別の空気を纏っているようだった。
「そしたら急に、マンションに帰るって言ったの」
水戸は誰にも気付かれないように、ゆっくり息を吸って吐いた。
「あなたの所に」
一瞬目を伏せ、水戸はまたコーヒーカップに手を伸ばした。口を付けて飲み込むと、苦味が口の中に広がった。ただ、それしか分からなかった。
「この間、寿を呼び出したんだけど、うるさい違う放っとけってそれしか言わなくて」
「……そうですか」
「卑怯でしょう?あなたにこんな話をして」
水戸はかぶりを振った。やっぱり可愛らしいなあ、と、また的外れなことを考えている。言われる言葉を、予測していなくはなかった。ただ、実際に言うのは相当な覚悟だ。そう思った。心で考えているのと、言葉にするのは全く違う。凄い人だと、ただ思った。詰るでも怒りを露わにするでもなく、言葉を伝えようとする。端的に、決定的なことは決して言わない。敵わない、と隅の辺りに落ちて来る。
「でも私は、母親だから。ごめんなさい」
母親だから。彼女の言葉に、全てがあった気がした。それを言われたらもう俺にはどうしようもない。水戸は口元を緩め、カップを置いた。
「お母さん……って俺が言うのもおかしいんですけど」
「ふふ、そうかな」
「三井さんの仕事、見たことありますか?」
「え?」
彼女は瞬きをしている。それから首を傾げた。
「あの人がコーチをしてる姿、見たことありますか?」
それでようやく理解したのか、彼女はかぶりを振った。
「一度ホームの試合、観に行ってみてください。出来ればお父さんも一緒に。あの人格好いいんですよ、本当に。あの場所に立って、あそこで仕事してると凄く生き生きしてる。毎日ね、ほんとだらしないんですよ。何度言っても靴は揃えないし、お母さんの予想通り、家事はしない。朝もよほど早起きしなきゃなんねえ時以外は起きても来ない。でも遠征しなきゃいけない日は必ず起きるし、すっげえいい顔して行くんです。帰って来たら、人の話なんて聞かないでバスケの話ばっかりしてて。子供みたいに嬉しそうに話してくれるんです。毎日同じような話しかしてないんですけど多分、あの人が喋らないとすっげえ静かで、昔は静かなのが当たり前だったのに、今は静かだと違和感あって。俺はそれを聞いてんのが結構好きで、好きだったんです。相槌くらいしかしてなかったけど、楽しかった。楽しかったです、本当に」
水戸はつい昨日観た、ホームゲームを思い出した。静かで的確でクレバーで、普段と全く違う三井を、水戸は思い出した。その姿に尊敬もしたし、誇らしくもあった。好きだった。とても好きでいた。と、同時に、彼と家で過ごすだらしなくて面倒な一面も、同じように同じ感覚で同じ人間として好きだった。三井がただ、好きだったのだ。そして、三井も水戸を好きで、互いに同じだった。それでも同じ路線にあるはずの現実が、こうも掛け離れている。なんて違和感だらけの世界だ。
「俺と三井さんは、お母さんが想像してるような関係じゃなくて、でもそう見えたんだとしたら俺の責任です。すみませんでした」
「え?」
「俺の我儘に、三井さんを付き合わせました」
彼女は何も言わず、けれども物言いたげに水戸を見ていた。口をぱくりと開けては閉じ、それを繰り返した。その様子に水戸は、目を伏せて笑った。
「母親って……」
水戸はぼそりと声を出した。彼女は、何?と聞いた。凄えよなあ、それは心の中で言っただけだった。お話になんねえよ、そう思った。
「いや、俺の母親は、俺を十六で産んだんです」
「そうなの?」
「だから母親っつーかガキで、ずっと放ったらかしだったんですよね。俺を育ててくれたのは祖母で、あの人料理なんてしたことあんのかな」
水戸は窓の向こう側を眺めた。何故こんなにも饒舌になれるのか、自分でも分からなかった。三井の母親に話しているのか、ただ声を出しているのか、それとも自分に話しているのか、何も分からなかった。ただ、未だに陽射しが強くて暖かくて、目を細めなければ向こう側など臨めない気がしたのだ。きらきらと眩しい向こう側の世界は、酷く遠かった。辛うじて、水の入ったグラスだけがこちらに居る。それでももう結露してテーブルは濡れて、みっともないことは確かだ。きらきらしていた筈のグラスが、ずぶ濡れだ。
「でも一度、ウィンナー焼いてくれたんです。たった一度だけ。真っ赤なウィンナーなんですけど、安くてそれしか買えなくて。でも、焼いてくれた」
何を喋っているんだろう、そう思った。思っているのに、止めることをしなかった。
「それを俺は、忘れたって言ったんです。覚えてないって。突き放したことをまだ後悔してて、でもそんな思い出しかないんですよ。俺にとっての母親って」
水戸は彼女を見た。三井と同じ二重瞼で、短い前髪がよく似合っていた。酷く可愛らしい女性だった。この人から産まれて、愛されて愛情しかないまま育ったのがあの人だった。愛情なんてものは、近過ぎて跳ね除けたくなるほど重いものなのかそれとも全て委ねたいと思えるほど側にあるのが当然であるものなのか、そのどちらも感覚すら分からない水戸にはもう、術がなかった。でも私は母親だから、またあの言葉が脳裏を過ぎる。
「だから正直、羨ましい」
全部持ってるあの人が。水戸はまた目を伏せて笑った。全部持ってるあの人から俺は奪うことしか出来ない。きらきらとした向こう側の世界を持ったあの人。そこに居るべき存在のあの人。透明のガラスの内側から見ているだけで美しかった世界。触れた体。唇。掌。指先。頬。柔らかい髪の毛。二重瞼。お母さんから貰ったもの。冷えたガラスに一瞬だけ触れて、その感触を確かめた。あまりに無機質過ぎて、ぞっとした。




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