かはたれの背中

□3
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川崎市にあるサンダースのホームグラウンドで水戸が三井を待っていたのは、数える程度しかない。
あれから三井は普段通りスーツに着替え、仕事に行った。とりあえず一通り文句は言っていたように思う。ごめん、と謝罪したものの、口から出ていただけの言葉に特に意味はなかった。その後のことは流れ作業のように事が進んで、特に会話をすることもなかった。行って来ます、と言って寝室を出て行く三井の後ろ姿を水戸は見送り、いってらっしゃい、とぼそりと声を出した。フローリングに座り、ベッド脇に体を預け、ただ声を出した。そのまま何もしない時間が過ぎて、ひたすらぼんやりしていると何となく三井が仕事をしている姿が見たくなった。ホームゲームだからちょうどいいと、水戸はゆっくりと立ち上がった。下半身が妙に怠くて、三井と行為に及んだからだと今更知った。最低だ、頭を掻いて浴室に向かった。浴室の中は冷え冷えとしていて、硬い空気が充満しているように感じた。レバーを上げ、しばらくの間ヘッドから出て来る液体を眺めた。湯気が立つのを見届けてから、頭から被る。何やってんだろ、俺。ただ、そう思った。
十六時からのゲームだから、一時間前には会場入りしようと車を走らせた。アリーナには既に大勢の観客と思しき人達がたむろしていて、水戸は辺りを見回した。当日券を購入し、グッズ販売の箇所を何の気なしに遠目から覗く。買うつもりはないのだけれど、ただ眺めた。様々な年齢層の男女が、サンダースのクラブカラーである朱色の商品を眺めている。その中に数種類のフリーペーパーがあった。家で見たようなそうでないような、ローテーブルの上に投げてあったようなそうでないような、酷く曖昧な記憶を探るけれど答えは出なかった。憶測するに、数日間は投げてあって、その後三井がどこかへ片付けたのだと思う。九月、十一月、月齢が少しだけ前のもので、これにサンダースの情報が載っているのだと分かった。いただいていいですか?売り子の女性に問うと彼女はにこやかに、どうぞ、と答えた。一部ずつ手に取り、そこを後にした。この後帰宅してどこかを探せば必ずあるのに、水戸はその時これを手に取らずにはいられなかった。
会場に入ると、もうホームの選手達はコートでウォーミングアップをしていた。バスケットシューズの擦れる音、ボールの突く音、響く声、それが重なり合って混ざり合うと心地いいことを今更のように知る。席に座り、持ち歩いていたケースから眼鏡を取り出した。掛けると裸眼より幾らも良く見え、車に置いておかなくて良かったと思った。各選手達を眺めながら、三井はまだ会場には来ていないことを知った。しばらくの間、反響する音を聞いて、選手達の軽やかな動きやプレイを眺める。それから、手に持っていたフリーペーパーを見た。選手達のインタビュー、仲が良さそうに笑い合う姿、三井は最後、一人で椅子に座り、インタビューを受けているようだった。綺麗な顔してんなあ、二重瞼で顎に傷がある、ちょっと唇が厚くて、頬は触ると柔らかい、水戸は彼の喋っただろう文字を眺めながら、紙媒体からでも容易に感じられる彼の見栄えの良さを改めて知った。スーツ似合ってる、意外と足長い、初めてでもないのに、それさえも今ようやく知ったように思う。耳にはずっと、アリーナに響く音と声があった。水戸は不意に、三井が高校生だった頃を思い出した。熱くプレイをする割に、特別声を上げていたこともなかった。巧みで頭脳的で、ちょっとした瞬間に相手チームの選手の目線を遮り自チームの選手を助けていた。彼はそういう、自分が活躍することは勿論のこと、人を助ける為に動ける選手でもあった。その彼は今、違う形で自分のチームを纏め、違う姿でプレイしている。長年着ていたユニホームを脱いで、窮屈だろうスーツを着て。水戸は目を閉じた。今の三井はあの頃とは違う筈なのにそれでも、瞼の裏に浮かぶのは昔の彼だった。赤と白のユニホームを着て、サポーターを着けて、綺麗なシュートフォームで跳んで、高い弧を描くシュートを打つ姿が。
その時、近くから声がした。高いそれは女性のもので、三井コーチ出て来た、そう言った。水戸は目を開け、コートに目をやる。すらりとした体躯の男性が、黒のスーツを着てコートに入ると一礼した。頭を上げて歩き出す姿を見た水戸は、家での姿とはまるで別人のように思えた。三井コーチかっこいい、前に座る女性二人組が顔を見合わせながら言って、水戸はそれが、誰か別の人間に対して言っているような気がしてならなかった。水戸が見ている三井は、だらしがなくて靴も揃えない、テレビを見ながら適当に歯を磨き、朝も起きるのが遅い。水戸ー腹減ったー、そんなことを言う彼が、コートに一礼してから歩き、定位置に立っている。三井コーチかっこいい、そう言われているのだ。それでも、彼女達から見える三井はそれで、水戸の目に映る今の三井は、会場に居る全員が見ている同じ現実だった。ここで生きてる人、水戸は彼を見て、そう思った。
水戸がホームゲームを観に来る時、いつもはゲームを観ている。三井の姿を特別見ていることはしなかった。けれども今日は違った。水戸は常に、三井を見ていた。彼は椅子に座り、声を上げることはしない。足を組んでそこに肘を付き、手の甲で唇をとんとんとゆっくり、軽く叩きながらじっとゲームを観ていた。時々控えの選手に声を掛け、何かを喋っている。稀に、コート上を走る選手に声を掛けた。それ以外に彼は、タイムアウト以外では声を出すことをしなかった。水戸の目には三井が、酷く冷静に見えた。それは昔からそうだった。彼はバスケに関することはいつも、クレバーで鮮やかなのに静かだ。勝敗について後から喜びや悔しさを語ることはあれど、ゲームの最中は常に平常心を保っている。頭の中でいつも彼は、コートに立ってゲームをしている。水戸にはそう見えた。
ゲームには勝った。MVPの発表があった後、ヘッドコーチである三井がコートに立った。挨拶をするのだろう。深々と頭を下げた後、本日はありがとうございました、と観客達を見上げた。一瞬、目が合ったような気がして、水戸は瞬きをする。まさか、と思った。
「今日は絶対に勝ちたくて。だから良かった。素直に嬉しいです。まあ、この間二敗したってのもあるんだけど」
そう言って三井は周囲を見て、酷く幼い表情で笑った。さながら少年のようだった。すると選手達も観客からも、笑い声が起きる。
「とにかくまあ、勝てて良かった。今日観に来てくださったこと、感謝します。本当にありがとうございました」
軽く会釈をすると三井はマイクを戻し、また深々と頭を下げる。観客からは拍手が起こり、コートに立っている選手達は全員笑っていた。水戸は立ち上がり、会場を抜けた。ここで生きて行く人だ、水戸はそう思った。
車の中で適当に時間を潰した後、水戸は携帯を手に取った。履歴から三井の名前を出し、通話ボタンを押した。出なければまた、時間を潰そうと思った。けれどもすぐ、三井の声が聞こえる。
「あ、出た」
『出るよ』
「今さ、サンダースのゲーム観てた。アリーナで」
『知ってる』
「え?」
まさか、と思ったのだ。あの時。三井は気付いていた。
『勝ちたかったっつったじゃん』
「私情挟みすぎじゃねえの?」
『勝てたからいいだろ別に』
ばつが悪そうに言うのが可笑しくて笑うと、彼も笑った。帰れるなら待っとくよ、そう言うと、ラッキー、と言ってまた三井は笑った。きっと今はまた、少年のような顔をしていると、水戸は思った。
しばらくすると、三井が関係者入り口から出て来る。近くに車を停めていて、水戸は外で煙草を吸っていた。三井は水戸に気付いたようで小走りになる。同時に水戸は、吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し付け、右手を上げた。
「お疲れさん」
「どうよ、すげえだろ」
「何が?」
「オレが気付いてるなんて知らなかったろ、お前」
水戸は運転席を開け、車に乗った。三井も助手席のドアを開け、シートに座る。シートベルトを着けるのを横目で見ながら、いつもの三井だと思った。
「うん、まあ。見えてるとは思わなかった」
ふん、と鼻で笑う三井を見て、水戸は舌打ちをする。そこでようやく、エンジンを掛けた。何か食いに行く?と聞くと、勝ったから奢れ、と上機嫌だった。はいはい、と呆れると、また三井は笑った。車を走らせながら、水戸は今ここに居るこの人と、仕事をしていたあの人が、未だに結び付かないことが突然可笑しくなる。急に笑ったからか、三井は水戸を見た。それが目の端に映る。
「何笑ってんの?」
「いや、あんたいつもだらしねえのに、コートに立つと別人みたいにかっこ良くなるんだよな。それが全然結び付かない、今でも」
「褒めてんの?それ」
「褒めてるよ。三井コーチやっぱり凄えなって話してんの」
かっこ良かったよ、水戸が言うと、三井は舌打ちをする。何で舌打ち?と聞くと、別に、と返された。照れてんのかな、と単純に思った。いつもだったら、そうだろ?だとか、オレはかっこいいんだよ当たり前だろ、だとかそういう自画自賛する言葉を返すだろうに、今は何故か言わなかった。車内は静かで、いつもなら聞こえる筈の、三井特有のラジオもなかった。ゲームには勝ったのに、試合の話もしなかった。何食う?そう聞こうとした。その時だった。
「なあ」
「ん?何」
何食うか決めた?そう聞いた。けれど彼はかぶりを振った。
「じゃなくて、お前気にしてんの?」
「は?何の話?」
「今朝のこと」
「え?」
「お前がデリカシーゼロなのはいつものことじゃん」
急に水戸の耳に、今朝浴びたシャワーの音が聞こえる。頭から浴びた雑音が、ノイズのように残った。
「中で出すのなんてさあ、いつものことだろ」
ぎょっとして一瞬三井を見た。それからまた、笑ってしまった。
「はは、そうだね」
「そうだねじゃねえんだよ、このデリカシーゼロめ」
今朝水戸は、自分を責めた。最低だと愕然としたのだ。性欲処理のように扱いながらも、優しく好きだと言った自分は感情の欠片もない人の形をした単なる塊のようだと。砂の塊。それを彼は、デリカシーゼロで済ませた。水戸は三井が愛しかった。それしかなかった。彼にあげられるものは何だろう、それがいつまでも、脳裏に残る。
その日の夜、水戸がいつものように横向きで眠っていると、温かい何かが触れた。三井の体温だった。彼はいつも温かく、体温が高かった。後ろから抱き枕のように抱き締められて、この温かさに喉が詰まった。どうしたの?と聞いても、彼は何も言わなかった。何も言わないから水戸も黙ったまま、三井の体温を受け入れた。このままこうしてずっと居ることが出来たら、水戸は自嘲するように息を吐いて、目を閉じた。そうでもしなければ、子供のように駄々をこねそうな気がしたからだ。もっとも、そのやり方は昔からずっと知らないままだ。幼い頃から、ずっと。
翌日の朝も、三井は同じように家を出た。今日は来ねえの?と聞かれたけれど、毎日行かねえよ、と答えた。つまんねーのー!と口を尖らせる彼を見て、水戸は笑った。行ってらっしゃい、そう言うと三井も笑った。行って来ます、背中を向けた彼を見送り、水戸はベランダに向かった。日曜日の午前中にはあまり鳴らない水戸の携帯が鳴ったのは、それから十分後のことだった。着信の相手は三井の母親で、水戸はその時、この電話を出ることを反射的に躊躇った自分に、嫌気が差した。
一度出掛けた水戸が帰宅した時、時間はもう夕方近かった。日も沈んでいて、三井が帰宅するのはまだだろうけれど夕飯の支度をしなければならなかった。その前に水戸は、寝室に向かった。いつも三井が眠る右側のベッドに横になり、その匂いを嗅いだ。枕に顔を埋め、ただ一言、三井さん、と言う。それが引き金となり、水戸は自分でベルトを外した。目を閉じて、自分に組み敷かれる三井のことを考えた。口付けるとすぐに応える唇を思った。耳元に寄せると簡単に反応して、息を吐くことも同じように。舐めてから噛むとすぐに声を上げる。辛抱が効かないあの人は、早く触ってとすぐに言う。水戸は自分の下で喘ぐ三井を想像して、自分の性器に触れた。上下に擦ると、呼吸が荒いだ。三井さん三井さん、頭の中で名前を呼んで、同じように呼ばれることも考えた。水戸、水戸、三井はすぐにそう言う。欲しいとすぐに、三井は水戸を呼ぶ。抉るように突くと、体を捩らせる。背中に腕を回して、力を入れる。途中で何度も口付けて舌を入れて掻き回して、その中でくぐもった声を出す。それが余計に水戸を煽る。三井は自分の性欲に対して、酷く忠実な人だった。嫌がることをしなかった。それは相手が水戸だったからだ。プライドの高いあの人が、本来なら男に組み敷かれるなど有り得ないのだ。それが、相手が水戸だとどうだ。欲望に忠実で、もっともっとと急かす。あの人がこうなるのは俺だけ、水戸はそう思った。ああもう出そう、上がる呼吸を抑えることもせず、水戸はそこにある三井の匂いを嗅いだ。頭の中に叩き込むように吸い込んだ。その直後、水戸の掌に、自分の精液が絡み付いた。弾けた後に冷静になった目で、その体液を凝視する。くっだらねえ、そう思った。俺ってこんなもんなの、と。三井は昨日、あのコートの上で颯爽と歩いて賞賛の拍手を浴びていた。きらきらと眩しいほど輝く姿は誇らしかった。静かに声を出して最後は選手達と笑い、そこで生きて行く人だった。違う、この先もずっとそうして生きる人だ。気が付くと笑っていて、その後硬く唇を結んだ。目の前が滲んで、もう十分だとただ思った。




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