かはたれの背中

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何の変哲の無い朝だと思っていた。少なくとも今は。この日は土曜日で、三井は午後からホームでゲームがある。水戸はというと、いつものように朝食を作り、珍しく少しだけ早起きした三井と一緒に朝食を摂っていた。水戸は今日、休日だった。それでも毎日同じ時間に目が覚める。彼がいつも過ごす休日のように満足するまで眠っていたいと思わなくもなかったけれど、いつも普段通りには目が覚めてしまう。深く眠るという感覚が、あまりなかった。三井もまた、別段変わりなくいつも通りだった。数日前のことなど、まるでないものとして扱われながら日々は過ぎている。水戸もそれ以上聞くことはなかったし、追求しようと考えることもなかった。性格上、深く踏み込むことは未だに苦手だ。かといって寄り添うことも出来なかった。むしろ三井は、寄り添われることを拒絶しそうだと水戸はそう思っている。
今朝も三井は、普段通り喋っていた。今日は京都のチームが来る、この間一敗してるから勝たねえと、とバスケットの話をしていたかと思ったら急に、今度飯食いに行かねえ?美味いとこ聞いてさ、いつにする?次は簡単に別の話題に切り替わるのだ。彼はいつも、自分の言いたいことだけを話している。水戸はその声に、目を伏せて笑った。何?三井は聞いた。水戸はかぶりを振った。何でもない、と示した。彼の声は、よく聞こえるラジオのようだった。耳障りのいい、綺麗に通る声だ。水戸が窓の外を眺めていても、何の違和感なく自然と耳に入って来る。内容があるかと問われたら答えは否だ。聞いても聞かなくても、水戸の生活にはあまり関わりのない話ばかりだった。それを水戸は、ここで三井と過ごす中で、三井の声が聞こえる時間はいつも聞いていた。ああ、と、うん、しか答えないし、水戸は三井を見ていなかった。いつも窓の方を見ていたり、目を伏せていたりする。目を合わせて会話をするのは、得意な方ではなかった。
「今日はラッキーな日だ」
「何が?」
三井が言うので、水戸はようやく彼を見た。きちんと目が合ったのは、今日に至っては今が初めてのことのように思う。
「赤いウィンナー」
「ああ、何となく」
焼いた、水戸はそう付け加えて、目の前に置いてある皿に目を落とした。今日の朝食は卵とベーコンではなく、卵とウィンナーにしたのだ。目玉焼きの横に、赤くて着色料がふんだんに使ってあると思しきウィンナー。たまたま昨日、ある電話を受けてから無性に食べたくなった赤いウィンナー。手頃で無難で美味い、だから頻繁に買っている。冷蔵庫にも常に常備してあり、ほぼ毎朝焼いていた。三井と暮らすようになってからも然り。ただ、朝食に出すことは多くなかった。水戸の昼食の弁当用に焼くことが主だからだ。もっとも、時々それが余ったりベーコンを買い忘れると焼いて皿に盛ることもあったのだけれど。
三井は初め、このウィンナーを見た時、あれはまだ同居もしていない頃だった。たまたま出した朝食で、たまたまウィンナーが一個残ったから三井の皿に盛った時のことだった。それを見て彼は、何だこれ、と言ったのだ。ウィンナーだろどう見ても、そう返すと、赤いだろ、と言うのだ。聞けば三井は、生まれてこのかた茶色のウィンナーしか食べたことがないと言う。更には着色料だの何だの懇々と言い始めたから、文句あるなら食うな、とさらりと返すと三井は口に放り込んだ。それから一言美味い、そう言ったのだった。それからというもの、三井に赤いウィンナーを出すと喜んだ。ラッキー、と笑っていた。彼からしたら当たりを引いたような感覚なのかもしれない。安価で不健康な赤いウィンナーが。あの頃は今のように、一緒に朝過ごすことが当然になるだなんて思っても考えてもいなかった。朝起きたら、おはよう、があることも。勿論無い時もある。ただいまもおかえりも、すぐそこの目の前に落ちていることを、水戸は知らなかった。
「そういえば、何で赤いの買ってんの?」
「安いからだろ」
かちゃかちゃと、食器と箸の擦れる小さな音が聞こえる。水戸は未だに、皿に目を向けたままだった。三井と生活を始めてから一年と半年以上。それだけ経っても未だに、食事をしながら会話を楽しむことも、目を見て会話をすることも酷く不得手だった。
「いつから?」
「え?」
三井からの質問に、水戸は顔を上げた。何度か瞬きをして、それから伏せる。水戸は三井と話をする時、食事をする時、彼の顔は見ないことが多い。呼ばれるとそちらを向くのだけれど、普段彼の顔をじっくり見ることはなかったように思う。水戸は瞬きをして、三井から目を逸らした。そして昨晩掛かって来た電話を思い出した。洋平あのね、電話を掛けて来たのは水戸の母親だった。彼女が話した内容が、脳裏を過ぎる。
「えっ……と、何だっけ」
「お前話聞いてる?」
「聞いてなかった」
「聞けよこら」
「はは、ごめん。だってラジオみたいで」
「何それ」
「聞いても聞かなくても耳に勝手に入って来るってこと。ついでに内容はねえなっていう。あんた限定ね、ラジオの人が可哀想だから」
「てんめえ」
三井の百面相のような表情の切り替えに、水戸は思わず笑った。こういう時は、きちんと見られるのだ。だからずっと、彼を見ていない訳ではなかった。
「だーかーら、いつから赤いウィンナー買ってんの?どうでもいいだろうけど」
「あー、うん、どうでもいいけど」
窓に目を向けて話すと、三井が口を尖らせているのが横目に見えた。思わず口元が緩んだ。だけれどまだ、洋平あのね、が消えない。
「中学の頃、安くて」
「ああ、そういう」
「生活かかってたし」
「……うん」
「またあんたは、思った通りの顔するよな」
「悪かったな」
水戸はその時、ようやく三井をしっかりと見た。頬杖を付いて彼をじっと見ると、三井は何度か瞬きをする。何故見ているのか、それを気にしているのかもしれない。彼は実家に呼ばれたあの日を境に、妙に饒舌になった。もっとも、三井は普段から饒舌なのだけれど。つまりよく喋る唇だった。この家では彼が声を出さないと静か過ぎる。バスケットの話、チームの話、くだらない話、理不尽な言葉。それがないと、この部屋は音がしない。生活の音だけになる。けれどそうじゃない、その類ではなかった。同じ話であることに変わりはないけれど、妙な機微が見えた。一歩踏み込まれないように敢えて、水戸が見透かすのを避けているように感じた。もっとも、見透かすも何もあんたダダ漏れだよ、と水戸は思う。
人の詳細な部分に触れるのは苦手だ。昔からそうだった。それでも彼と居ると時々、そうせざるを得ない瞬間があった。何かが動き出す時、始まるにしても終わるにしても、そうせざるを得ない瞬間が必ずあった。だけれど水戸は、それを見ない振りをするのは得意な方だった。
「な、何だよ」
「別に何でも」
「今日……」
「ん?」
「午前中は居るから」
「そう」
くだらねえ、水戸はそう思った。けれどその逆、このくだらない言葉さえ繋げて行けば、日常は過ぎて行くんじゃないか、と思っていた。こうして朝食を食べて、夕食も食べて、彼のラジオのような流れる言葉をただ聞いて、ああ、と、うん、を繰り返して、呼ばれたらその方向を見て、時々三井を見ていればそれで。
水戸は内心愕然としていた。恐ろしいとさえ思った。冷たくて思慮に欠けていて、思考の裏側を放置している。大切にしている人に対する態度ではないことを、水戸はこの時知った。
室内で、またラジオが流れ出す。水戸は三井を見ないように、手早く食べた。水戸は知っていた。彼は何か隠し事をする時、現実を見て勝敗を考えている時、ラジオの音量が大きくなる。何か雑音でも消そうとしてんのかな、水戸はそう考えながらまた、うん、うん、と相槌を打った。それを彼が聞いているかどうかは知らない。

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