かはたれの背中

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帰宅すると、三井はもう帰って来た後だった。玄関にスニーカーがある。勿論揃えていなかった。水戸は呆れながらも、何度言っても直んねえ、と苦笑してしまう。リビングには灯りが灯っていて、それにも安堵した。多少アルコールが効いているからか、頭の中の気分は悪くなかった。ドアを開けると暖かく、エアコンを点けているのだと分かる。三井はソファに座っていて、テレビを見ていた。もっとも、見ているかどうかは定かではない。目が違う、そう思った。
「おかえり」
「ただいま」
「どこ行ってた」
「あいつらと飲んでて」
「そっか」
ソファから立ち上がった三井は、何も言わず水戸に近付いた。彼は腕を伸ばし、水戸の体を掬うように抱き締める。ローテーブルには、水戸が贈った時計が置いてあった。珍しい、水戸はそう思った。彼はプライベート以外でこの時計を着けることはしない。それを水戸は、よく知っていた。
「どうした?珍しいね、あの時計着けてるの」
「うん」
「何かあった?」
三井はかぶりを振った。もっとも、水戸の肩の辺りに顔を埋め、額を擦っていたからそう感じただけだけれど。
「何も言わずにオレを慰めろ」
「え?」
「いいから」
何のことやら、水戸には分からなかった。分からなかったけれど、彼が実家に帰ったことがきっかけなのだということは感じた。だけれど水戸は、それを聞く術を持たなかった。何も言わず、三井はそう言った。そこを聞くべきなのか聞かざるべきか、水戸には分からなかった。お前は話す相手が間違ってるよ、水戸は野間の言葉を思い出した。俺もそう思うよ。同じように、水戸は今も尚思っている。だから三井の体を少しだけ離し、水戸は手を伸ばした。そして揺らぐ目で見詰める三井の頭を撫でた。どうしたの?何でそんな目をするの?口を開いてただ言葉を繋げれば済む話だ。それなのに水戸は、何も言わずただ三井の頭を撫で、よしよし、と言った。それから頬を撫で、同じように言った。
「慰めろって言われても、これくらいしか思い付かねえよ」
「キスとか、他にあるじゃん」
「何が欲しい?」
「離さないで欲しい」
水戸は目を開いた。何度か瞬きして、三井を見た。彼の目は未だに揺らいでいて、その奥に何があって何を映しているのか、水戸には分からなくなる。
「オレの手を離さないで」
だから何も言わずに、三井の手を握り締めた。水戸の腕に掛かっていた手を離し、その手を握った。強く握り過ぎて砕けてしまわないように、ただ握るしか出来なかった。
「今日何食った?」
「揚げ出し豆腐と唐揚げと枝豆、あと何だっけ」
「レモンかける奴居んの?」
「居るけどあんたみたいに勝手にはかけねえな」
「はは!」
足りないのは言葉だった。水戸と三井に圧倒的に足りないのは言葉で、こうしてくだらない話をしてまた遣り過すしか出来なかった。
三井は原色で出来ていると水戸は思っていた。突拍子も無い言葉も我儘も、全て許される眩しい原色。だけれど彼は、水戸と居るとその色が曖昧でぼやけていく。きらきらとした輝きで視界に迷い込むほど強い原色の色が、曖昧で漂う何色か分からないものに変わっていく。それを見る度に水戸は、彼を手離したくなくなる。それは自分にしか出来ないからだった。だから抱きたくなって側に置いておきたくて他所にやるのを躊躇う。
何でもあげる。水戸は思う。三井が望むなら水戸は、腕でも足でも内臓でも、躊躇することなく渡すだろう。でも今もしも、普通の幸せをください、そう言われたらどうするのだろう。
「なあ」
「ん?」
「海、見に行きてえな。夜明けの海。お前の色」
「そうだね、あんたの仕事が落ち着いたら」
「うん」
水戸は三井の手を握ったまま、触れるだけのキスをした。彼は瞬きし、少しだけ驚いている。
「あんたが言ったんだろ?キスしろって」
「しろとは言ってねえよ」
「じゃあしない」
「うそうそ!言った!」
「はは、じゃあもう一回」
そう言って水戸は、もう一度キスをする。一度終わると、何度も同じように角度を変えて、触れ方を変えて口付けた。ただキスをするだけなのに、何故こんなにも愛しいと思えるのか水戸には分からなかった。ただ愛しかった。だけれどその表現の仕方が、心で繋げるのかいつものように体で繋ぐのか、答えは出ない。水戸はまた、指輪の形を確かめたくなる。彼が寄越した面倒だと思っていた指輪に、触れたくなる。まだ指に嵌っているから確かめようもないけれど、その無機質な温度が指に触れているだけで今は良かった。
海を見に行くのが明日なのか明後日なのかその日は来るのか来ないのか、水戸にも多分三井にも、先のことが見えない。
ただ今この時間の間だけでも、三井が幸福を感じていればいいと水戸は思った。揺れる目も戸惑う唇も。





2へ続く


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