かはたれの背中

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母親から急に呼び出された。
三井が水戸にそう言ったのは、朝食を食べている最中だった。昨夜電話が掛かって来たらしい。明日か明後日か、とにかく早い所で顔を見せなさい、と。三井自身が面倒だったようで、今日行っちまう、と水戸に言った。それに対し水戸は、分かった、と返すだけだった。飯は食って帰るんだろ?そう聞くと彼は、うん、と目を伏せて言った。それ以外はいつも通りで、水戸は変わらず三井の話す言葉に、ああ、と、うん、しか言わなかった。声にも色にもならない綻びを抱えたまま、一ヶ月以上過ぎている。互いにやり過ごし、言葉にすることは一切なかった。冗談を言って笑い合う日々も勿論あって、三井が遠征に行く朝に必ず作る朝食も変わらなかった。彼はバスケットの話もするし、趣味の話や新しく出来た店の話もした。今度行こうな、と笑う表情を見ていると、このまま上手くやり過ごせるのではないかと水戸は思った。ただ、本人のことは知らない。三井がどう思っているのか何を考えているのか、それは水戸の知り得る部分ではなかった。それでも、彼が迷っていることだけは容易に分かった。水戸と三井は、おかしな部分で分かり合えて共有していると、水戸は思う。
その日の夜、水戸は残業をしていた。今日は三井も居ないし、夕食も一人だ。何を作ろうかと考えなくても済んだ。思えば、彼が遠征以外で他所で夕食を済ますことは多くない。変な感じ、水戸はただそう思った。しばらくの間、パソコンのキーボードを叩く音だけが鼓膜を通り過ぎる。それ以外は無音で、誰も居ないし気配もない。こういう瞬間に水戸は、帰宅した所で今日は一人なのだと知るのだった。一人きりは慣れていた。過去を遡っても、その時間の方が確実に多かった。それなのに水戸は、彼と過ごす時間が今は、当然のようになっている。不意に指輪に触れたくなった。チェーンに通して首にぶら下げている先の指輪を、水戸は作業着の上から探して形を確かめた。ある日を境に、指輪を着けることを忘れなくなっている。三井が酷く憂いた表情を見せて指輪を見下ろしていたことがあった翌日から、水戸はこれを忘れなくなった。むしろ忘れることがあると何処かが所在無くなる。だから必ず、首からぶら下げるようにしていた。まさか自分が、こんな風に扱うとは考えてもみなかった。あの日この指輪を受け取った時はあんなにも面倒だと思ったのに。
作業着の上からなぞるのを止め、仕事を再開した。ある程度目処が付いた所で、パソコンのスイッチを落とす。一つ息を吐いて、水戸は自席から立ち上がった。荷物を手に取り、帰ろうと更衣室に向かった。そこは酷く冷えていた。古びた床のリノリウムに金属製のロッカー、ひと気の無い空気、きんとした硬い空気が一層、十二月も半ばの気温の低さを感じさせる。水戸は手早く着替え、チェーンから指輪を外した。面倒だと思っていたのに、今日は無性に着けていたかった。右手の中指に丁度良く収まっているそれを眺めていると、また三井が忘れられた指輪を見下ろしていた日のことを思い出した。あの日着け忘れたのは、特に理由はなかった。ただ忘れていた。元々アクセサリーなど着けないし、習慣がなかった。部屋を出て車に乗った時、水戸は指輪を忘れたことに気付いていた。けれどもわざわざ取りに帰ることはしなかった。逆にこれで、忘れるのが当然だと三井が感じてくれればいいのにとすら思ったのだ。しかし違った。帰宅して指輪を見下ろしてから彼は、水戸に縋った。その癖、何が正解で何が間違っているのか分からない、と言ったのだ。俺も分かんねえよ、水戸はそう思った。分からないけれど、互いに離れることもままならないからこうして今も尚日々を過ごしていた。探ればすぐ、正解なんて出て来るのに。これも結局、互いに探らないだけだった。
指輪を眺めてから、手を下ろした。更衣室から出て、ポケットから携帯を取り出した。着信が何件かあった。三井さん?確認してみると、履歴には大楠の名前が並んでいる。どうせ飲みの誘いだ、水戸は口元を緩め、煙草を取り出した。車に乗るまでに火を点け、吸い込んで吐き出した。肺の中に染みるようなそれは、水戸を少しだけ安堵させる。着信履歴から電話を掛けると、彼はすぐに電話に出た。
『よう、何やってたのお前』
「仕事だよ。残業」
『へえー、お疲れさん。忙しい?』
「いや、こんなもんだろ」
『あのさー、忠と飲んでんの。来ねえ?』
水戸は少しだけ黙り、車に乗る。エンジンを掛け、窓を少しだけ開けた。白い煙が糸のように、窓の外に抜ける。
「行くよ。いつものとこ?」
『そうそう。じゃあ後でな』
水戸も返事を返し、通話を切った。三井からは何の連絡もなかった。案外に遅くなるのかもしれない。実家でゆっくりするのはいいことだ、水戸はそう思った。とりあえずマンションに向かい、車を置いてから彼等と合流しようと決めた。
それから小一時間後、彼等と同じ居酒屋に居て、水戸はビールを飲んでいた。親友達と飲む時は大概ここで、いつもは大人数だからか個室なのだけれど、今日はテーブル席だった。暖簾が掛かっていて、向こう側はぼんやりとしている。ただ、平日でもそれなりに繁盛しているようで、周囲は騒ついていた。その変わらない風景と、親友二人が変わらずくだらないことを喋っているのを聞いていることが、今の水戸を酷く穏やかにさせた。マンションに帰りたくない訳じゃなかった。三井に会いたくない訳じゃなかった。側に居たかった。そこに居て、普段と変わらない日々を過ごしたかった。今まで何を話してたっけ?水戸は不意に、そう考えることがあった。頬杖を付いて、目を閉じた。思い出そうとしても、中指の冷たいシルバーの指輪の感触が頬に当たり、水戸の思考を止める。躊躇させる。何を?知らない振りをしながら分かっているくせに、だから躊躇する。よく分かっていた。
「洋平よー」
「ん?」
大楠に声を掛けられ、水戸は目を開けた。頬杖を付いたまま、彼の方を見る。
「触れたくはないが、オレの性格上触れなきゃ気が済まねえ辺りが厄介だ」
「雄二お前、はっきり言えよ。その指輪は何ですか?って」
野間は相変わらず遠慮がない。水戸は頬杖を止め、ああ、と言った。着けっ放しだった、と思った。
「貰った」
「だ、誰に……?」
「え、雄二お前バカなの分かるだろうがよ聞かなくてもよ!」
「それでも聞きたくなんだろ?!確認作業だよ、オレのこと好き?みたいなもんだろ!」
「お前いちいち聞いてんの?!はは!意外と乙女だな雄二、気持ちわり」
「うるせえんだよ!話ズレてんだろ?!」
彼等の遣り取りを聞いて水戸は笑った。笑うと二人は、水戸を見た。二人は優しい。そう思った。水戸は思うのだ。この二人を含め、いつも連む彼等が居なければ今ここに自分が居たかどうか、それさえも分からない。学生時代に悪さをしていたとしても、彼等はいつも優しかった。口元を緩め、水戸は目を伏せた。そして、虫除けだと言って渡した三井を思い出した。
「ミッチー」
「え?」
「ミッチーだよ」
そう言うと、二人は沈黙した。変なこと言ったっけ?一瞬そう考えたのだけれど、思わず自嘲する。可笑しいだろどう考えても。笑うしかない。
「なあ、洋平」
「雄二!」
「洋平、お前さあ、どうすんのこの先。この先もずっとミッチーと居んの?前も言ったけど話したけど、オレ別に納得した訳じゃねえよ。ミッチーのことオレ嫌いじゃねえよ好きだよ、でも違うだろ?なあ、違うよな?そういうんじゃなくて、オレらもうガキじゃねえじゃん。将来とか未来とか色んなこと考える時期だろ?なあ。なあって」
大楠は必死だった。水戸はその言葉に、喉が詰まる。その正論は常に頭にあって、何度も何度も考えていた。それでもどうにか言い包め合って最後には放って見ない振りをして、好きだから大切だから側に居たいから居て欲しいから、だから全部奥底に閉じ込めた。水戸は大楠に手を伸ばした。中学の頃、五人で何するでもなく川辺りで寝転がって脈絡の無い話を繰り返したり、水戸が暮らしていた市営アパートで鍋を囲んでふざけ合ったのを思い出した。俺はあの頃、あれがあれば満足だった。こいつらさえ居てくれたら他に何も要らないとさえ思っていた。それを水戸は今思い出した。伸ばした手を大楠の頭の上に置いて、そのまま撫でた。唖然とする彼を見て、水戸は笑う。
「何で撫でる」
「いや何となく。お前優しいから」
「優しいのお前だよ。どうすんのほんとに」
「さあ、どうすんだろなあ」
そこで野間が、飲んでいたビールを吹いた。
「つーか気持ちわりーだろ、お互いに優しいとか言ってんの」
「はは、だな」
水戸は大楠から手を離し、煙草に火を点けた。
「雄二の言いたいことは分からんでもないけどな」
「だろ?」
「まあ、好きになるやつは選んで決める訳じゃない。ただ、何かあってもお前の骨くらいは拾えるだろ。周りに誰が居ると思ってんだ?五人で居りゃ出来ねえこた何もねえんだよ」
「……初めて忠がカッコ良く見えた」
「アホか!俺は毎日カッコいいんだっつーの!」
「んな訳ねえだろ一年365日×うん十年お前と居るけど今日が初めてだよ!」
「見る目ねえな、雄二は」
水戸は心底思った。自分は何て浅はかでそれでいて子供なのだと。過去に望んだものは、彼等との日々だった。それだけで良かった。その筈なのに今では、三井と過ごす日々が続けばいいと、そんな欲深さを持っている。他人との生活など、相手の心が無ければ成立しないのに。それを求めることは何て浅はかで、強欲で、子供だ。
「お前は大人だね、昔から」
「見てくれから既におっさんだもん」
「カッコいいだろ、髭」
全員笑った。面白かった訳じゃない。ただ何となく。それだけだった。
「お前はまず、話し相手が間違ってるよ」
「俺もそう思うよ」
話し方が分からない。行き先が分からない。愛し方が分からない。結局俺は高校生の頃のまま時間が止まってる。水戸は煙草を灰皿に押し付け、そう思った。




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