長編

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四年生に進級した頃、派手な髪の色の男が水戸のクラスに転校して来た。彼は髪の色のことを生徒からしょっ中聞かれていて、その都度「地毛だ」と大きな声で喋っていた。何度も聞かれるとその内、彼も「うるせえなぁ」と煙たがるようになる。たかが髪の色のことであいつもめんどくせえだろうな、水戸はその転校生に対し、そんなことを思った。水戸はその頃、暴力を振るわれることは減っていた。噂が噂を呼び、絡まれること自体が減ったのだ。減ったとはいえ、無くなることはない。ただ、相手が変わった。小学校高学年から中学生へと変わる。けれどもそうなると、問題が増える。警察沙汰になる場合もある。すると必然的に、教師達から疎まれる。あんな家庭だから、あんな母親だから、呟くように言われることも多々ある中で、目で語られる場合もある。ちょうど今の担任の教師はそのタイプだった。事あるごとに水戸に難癖を付けて来るのだ。笑顔で、にこやかに言う。どうして水戸くんはそうなのかな?と。どうして水戸くんは、どうして水戸くんは、同じことを延々と言われるのだった。何を喋った所で同じ言葉が返ってくるのだから、いっそのこと口を開くことすらやめた。先生も暇なんだろうな、そう思っていた。
水戸は毎日、学校では外を眺めていた。その頃はちょうど窓際の席で、変わらない景色を眺めた。ある日の終礼時に体操服を入れる手提げ袋の話になった。皆母親に作って貰っているような袋を持ち歩いていた。けれども水戸は、袋など持っていない。だからそれをネタに、担任は水戸を非難したかったのだ。
「水戸くんは何で手提げ袋がいつもビニール袋なの?お母さんに作ってもらってね」
また同じような、貼り付けたような笑みを浮かべながらそう言った。水戸の席に近付き、顔を見て、仮面がにこりと笑った。同時に、生徒達も小さく笑い出した。ぼそぼそと話し声も聞こえる。もういいだろ、そう思った。
「先生も大変だね」
見上げて水戸も笑うと、担任の笑みもぴたりと止まる。
「あの人に何か言われた?それがムカついて俺に八つ当たりしてんだろ。分かってるでしょ、あんたが一番」
あの人は作らねえんだよって。水戸はそう言うと椅子から立ち上がり、ランドセルと体操服の入ったビニール袋を持った。歩いて静かに教室から出ると、引き戸の噛む音がする。しばらくして後ろから教師ではない誰か水戸を追い掛ける足音が聞こえたけれど、特に振り返ることはしなかった。
昇降口を出ても未だに後方から同じ足音は続いた。巻くことはしなかった。真意が掴めなかったからだ。自宅方向に向かって歩く途中、あいつもこっち方面?と考えた。うーん、と頭を掻いてから振り返ると、彼は特に驚いた様子もなく水戸を見つめている。
「桜木はどこまで付いてくんの?」
「どこだろ、分かんねー」
ははは、と桜木は笑った。方向違うんじゃねえか、水戸は溜息を吐いた。
「お前、オレの名前知ってたんだ」
すると彼は、的外れなことを言う。思えば、同じクラスの生徒と喋るのは初めてだった。
「知ってるよ。お前目立つもん」
「そーかね」
「変な奴」
返答が面白くて、水戸は思わず笑った。すると彼は、距離を近付ける。隣に並ぶと、桜木は水戸よりも身長が高いことが分かった。ガタイいいなぁ、水戸はただそう思った。すると前方から、もっと体躯の大きな連中が四人ほど現れた。最近はなかったのに、そう思ったけれど、まあどうでもいいとも思った。無視で構わない、と。
「水戸ー。お前の母ちゃん、しょっちゅう違う男のとこ行ってんだってな」
「かわいそー。母ちゃんに捨てられちゃって」
どうすっかなぁ桜木居るしなぁ、水戸は思案しながら、前を見た。巻き込みたくねえなぁ、水戸が今考えていたのは、それだけだった。どうにか避けられないかと。
「何とか言えよ、水戸」
何とか言えって言われても何とかって返したらまためんどくせえし桜木居るし参ったな、水戸は息を吐いた。すると隣から足音がする。え?そう思って彼を見ると、思い切り好戦的だった。おいおいちょっと待てよ何でお前がキレてんの。と考えているのも束の間、桜木は連中に近付いて行く。
「てめーらよー、母ちゃん居ねーのがそんなにおもしれーのかよ、あ?そんならオレん家も居ねーよ!」
ふざけんな!桜木は最後、道に響き渡るほど大きな声を上げ、笑っていた一人を殴った。桜木の力が強過ぎたのか、相手は思い切り吹っ飛ぶ。すると一人が水戸に向かって来る。ああもうまじで勘弁して、そう考えた所で後の祭りだ。既に慣れてしまった体は、勝手に動いた。後方に回られて一度だけ殴られたけれど、大したことはない。むしろ桜木の方が怪我をしていた。服を手で払っていると、それを彼はじっと見ている。何で俺のことで、そう思った。
「お前何やってんの?」
「え?」
「お前が先に殴ってどうすんの。別にほっときゃ良かったろ?ああいうのは黙ってたらどっか行くんだよ」
「だってよー、母ちゃん居ねーことは笑われることじゃねーだろ?」
そうだろ?そうなんだよ。桜木はそう言って笑った。水戸はその時、何かが可笑しくて堪らなかった。なんて単純、そう思ったのかもしれない。声を上げて笑うと、桜木も笑っていた。とりあえず彼の手当をしなければならない、だから自宅に連れて行こうと歩き出した。桜木はきっと付いて来る気がしたからだ。すると彼は、今自分がしている遊びを話し出した。そして、一緒にやろーな、そう言って屈託無く笑う。彼は人を明るくする、水戸は偽りなくそう思った。
しばらく歩き、自宅の前で立ち止まる。俺ん家、そう言った。続けて、お前ケガしてるから、そう言った。祖母は居るだろうか、怪我をして帰った日は毎回思う。彼女には迷惑を掛けてばかりだ。玄関を開けると、いつもは居ないか台所に居る祖母が、なぜか目の前に立っている。その上、既に憤慨している様子だった。
「ばあちゃん」
そう言うと、隣に居た桜木は、え?!とまた大きな声を出した。無駄に声でけえな、そう思った。
「洋平!さっき学校から電話あったよ。何で手提げ袋のこと言わなかったの!」
「ばあちゃん忙しいだろ?店もあるし」
「子供が気ぃ使うんじゃないっていつも言ってるでしょ」
「……悪いから」
だってそうだろ?喧嘩したら怪我をさせた子供の家に謝罪しに行き、その上仕事もある。更に手提げ袋なんてどうでもいいだろ、水戸はそう思っていたのだ。袋などビニール袋で事足りる。必ずしも手作りでなければならない理由などない。
「今度そんなこと言ったら殴るよ」
上がりな。祖母はまた、妙な顔をした。怒りもあるけれどそれ以上に酷く悲愴な表情を見せる。贖罪、罪悪感、彼女にとっての水戸は、それの対象でしかないのかもしれない。だから見捨てることも出来ない。ごめん、謝りたいのに言葉も出てこない。そんな対象である自分が申し訳ないと思うのに。
そのまま立っていると、祖母の目線が動いた。水戸の隣に立っている桜木に移る。
「あんた、洋平の友達?」
単なるクラスメイト、水戸はそう言いかけた。けれどもそれは、簡単に遮られる。
「友達。さっき洋平と友達になった」
水戸は目を開いた。友達?何それ、そう思った。
「な?洋平」
何お前普通に笑ってんの?水戸はそう言いたかった。けれども何も言葉が出て来ない。瞼が熱くなった。目の前が霞んでぼやけた。そして思い出した。担任の言葉を。
水戸くんは何で手提げ袋がいつもビニール袋なの?お母さんに作ってもらってね。
クラスの連中は全員知っている。水戸がビニール袋を持っている理由を。桜木だけが知らなかった。転校生だからだ。そして水戸を追い掛けて喧嘩をして怪我までした。彼はそこできっと、ビニール袋の理由を知っただろう。けれども何も問わなかった。晒し者にした理由も何も。水戸は彼のように、誰かの為に何かを成し遂げる人を、彼以外知らなかった。優しさを力に変える人が存在することを今日初めて知った。そしてその人は、水戸を友達だと言う。水戸は決めた。この時決めたのだった。何に代えても、彼だけは守ると決めた。真に強いこの人を、自分がこの手で守る強さが欲しいと切に思った。
翌朝、学校へ行く支度をしていると、玄関が開く音がする。そして、よーへー!と家中に響き渡る声が聞こえた。ぎょっとして慌てて玄関に行くと、朝がよく似合う太陽のような笑みを浮かべる桜木が立っていた。声でけえよ、そう言うと、どこ居ても聞こえるだろ?とまた笑う。そして水戸が手に持っている手提げ袋にすかさず目を向けた。そしてまた、大きな声を上げる。
「かっけー!何それ!」
「着物の端切れで作ったって。ばあちゃんが」
「かっけーよ、洋平。赤いし桜だし!」
「お前みたい」
「え?」
「花道」
あの手提げ袋は未だに、分かる場所に保管してある。小学校を卒業して中学生になっても高校生になっても、そして社会人になっても。使わなくとも捨てることはなく、引っ越す度に必ず眺めていた。あれを見る度に、水戸は桜木と初めて並んで歩いたあの日を思い出す。
「花道……」
「三井です」
「は?!」
「三井です。すみませんね、桜木じゃなくて」
「え、何で」
「何でじゃねえよ、もう朝だっつーの。あーあ、よく寝たのに寝覚めは最悪だ」
どうやら、荷造りしながらそのまま眠っていたらしい。妙な寝方をしたのか、起き上がると体が痛かった。かくいう三井は、しっかりと水戸のベッドで眠っていて、その上よく分からないことをぼやいている。というより、若干機嫌が悪い。
「変な夢見た」
「あっそ、どんな?」
「忘れた」
「けっ!すみませんね、オレで」
「さっきから何言ってんの?」
「うっせーんだよ!味噌汁飲ませろ!」
「はいはい」
水戸は立ち上がり、体をぐるりと回した。そしてもう一度、変な夢、と思う。仕事から帰宅したら、また荷造りを再開しなければならない。今日はあの、手提げ袋を梱包することを決めた。
「赤に桜」
「何?」
「いや、何でも」
窓の外を眺めても、まだ桜は咲いていない。あの時の決意は、何年経とうが変わることはなかった。それはこの人と居ても変わらず。嫉妬の場所間違ってるだろ、水戸は一人俯いて笑った。






3へ続く


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