長編

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水戸が初めて手にした本は、ルーミス著「内臓位置図」だった。それは、自宅近所にある古本屋にあった。そこはあらゆる本が無作為に積まれていて、古紙の匂いで充満している場所だ。その頃の水戸は小学二年の春休みに入ったばかりで、自宅から凡そ十分程度離れた場所にあるその古本屋に通うことは日課になっていた。水戸がその古本屋に入る際、店主はいつも昼寝をしていた。レジの裏にある心地好さそうな椅子に凭れ、毎日船を漕いでいた。髭を生やし恰幅の良い、もう老人に近いその男性と水戸は、一度も話したことはない。だからどんな人間かも分からない。何故ならいつも昼寝をしているからだ。それを盗み見ることなく水戸は、毎日その古本屋で立ち読みを繰り返していた。その甲斐あってか、人体位置図は全て記憶した。次は人体の急所と攻撃の仕方を覚えようと調べた。一番手っ取り早いのは、空手の入門書とボクシングの基礎だった。水戸には型などは必要なかった。知りたいのは急所と体の使い方だ。どれくらいの力でどの箇所を攻撃すれば相手が倒れるか、それだけを記憶して、あとは実戦で覚えればいい、そう思った。
水戸が立ち読みする時間は、凡そ十五分程度と決めている。自分が集中して物事を記憶する最適の時間は、自分が一番良く知っている。だから毎日水戸は、十五分ほど古本屋に立ち寄っていた。客は誰一人居ない。薄暗く昼寝しやすい気温が保たれた室内に居るのはいつも、店主と水戸の二人だった。毎日十五分、その日々が続いても、二人が会話することはなかった。入口のドアは硝子と古びた木で出来た引き戸だった。それはいつも、砂を噛むような絡んだ音がする。古本屋に入ると水戸は、世界から一人になる。ぱっと切り取られた場所に入り込み、するすると本を選んで眺める。硝子戸からは少しだけ陽が入った。足元が暖かくなる。本の位置を少しだけずらし、陽に当てる。そうすると上手く文字が見える。脳内で写真を撮るように記憶出来る脳味噌を便利だと、その時初めて知る。小学校でテストの点数がいいことなど何の役にも立たないのに。人体位置図と空手の入門書とボクシングの基礎を全て記憶した時、水戸は初めて人を殴ることを経験した。
水戸が初めて人から殴られたのは、小学校二年の終わりだった。お前んとこの母ちゃん父ちゃん以外の男のとこに居るんだって?帰り道の途中で待ち構えていた相手は数人居て、その中の一人がそう言った。見たことのない人間だった。それが何?言われなくても知ってる、そう思った。だから無視をして歩みを止めず進んだ。すると今度は、無視すんじゃねーよ、そう言った。肩を掴まれた。めんどくせえなぁ何が言いたいんだろう暇なのかな、そう思った。一応立ち止まって振り返ったものの、また無視をした。彼等は水戸よりも背が高かった。多分上級生だ。けれども何年なのかは知らない。というよりもそれ以前に、水戸は同級生の顔もよく知らない。そして沈黙を続けていると、続け様に二発殴られた。相手は酷く楽しそうで、その様子をしばらく眺めていた。中心に居た一人だけでなく、周りに居た連中も続くように水戸を暴行した。見ていると未だに楽しそうで、少しだけ羨ましくなる。そして、暴行というのは楽しいものなのかと純粋に疑問を感じた。彼等は、お前の目が気に入らない、そう言った。よく分からないと水戸は思った。その暴行が何分に及んだのか、はたまた秒で済んだのか、それもよく分からないまま連中は去った。水戸は起き上がり、砂埃を払った。そしてまた、家路を辿った。
今日祖母は居るだろうか、居なければ良いと水戸は思う。見付かると厄介だ、そう思った。どうしたの?何があったの?と事細かに矢継ぎ早に尋ねる祖母の姿が簡単に想像出来た。そこには要らぬ心配も加わっている。詮索されることが酷く億劫だった。帰宅すると、祖母がいつも履いているヒールが玄関にあった。水戸はそれを見て舌打ちを一つした。この家は、台所を通らないと自室には入れない。この時間に祖母が居るということは、十中八九台所に居る。水戸は祖母が面倒だった。小学校のことや、友達は出来たのかと聞いてくる祖母が酷く苦手だった。夕食が一緒に食べられない日に残してある書き置きにも苛ついた。祖母が自分に対して世話を焼くのは、母親が居ないことの贖罪の意味なのではないのかと思うと、水戸の口数を減らさせた。
玄関でスニーカーを脱ぎ、廊下を歩いた。古い日本家屋のこの家は、木の軋む音が響く。祖母はきっと、水戸が帰宅したことをもう分かっている。引き戸を開けると、祖母はやはり台所に立っていた。夕食の支度をしているに違いないと思った。
「洋平、おかえり」
「……ただいま」
顔を見られる前に部屋に入る、そう考えてはいたものの、当然そう上手くはいかない。目を合わせる前に祖母の足音がする。
「それどうしたの?」
それ、と言われても実際には見ていないから現状が分からない。水戸は祖母の目を見なかった。
「転んだ」
「嘘だね」
こういうの苦手、水戸は溜息を吐いた。答えようとはせず、水戸は足を進める。そのまま部屋に入る、そう思っていた。けれどもそれは、簡単に憚られる。祖母に腕を掴まれたからだ。
「何も言わなくていいからそこに座りなさい」
掴まれたまま、引き摺られるようにして食卓に座らされる。沈黙を通していると祖母は水戸の腕から手を離し、救急箱を用意した。手際良く消毒液をガーゼに染み込ませ、口元を拭く。
「あんたは手を出したの?」
「いや」
「そう」
水戸が怪我をして帰ったのは、ほぼ初めてのことだった。本当に転んで怪我をして帰宅したこともあった。そんな時祖母は、特に何も声は掛けない。転んだの?その程度だ。水戸はその時、帰宅して初めて祖母の顔を見た。彼女は、酷く悲愴な面持ちだった。何であんたが、水戸はそう思った。俺は別に痛くないのに何で、そう思ったのだった。実際、痛みはなかった。麻痺しているのかもしれない、よく分からない。ただ、全く痛みは感じなかった。自分の体は頭陀袋か何かで、その中に砂が入っているのではないかと思った。祖母がこんなに痛ましい表情を見せても、何も感じないし思わない。彼女が何を考えているのかと痛々しく迷走することも、そこに頭を使うことが面倒だった。
「洋平」
「何?」
「わたしなら手を出しちゃうけどね。偉かったね、我慢して」
「どうも」
「夕ご飯食べたい物ある?」
「別に何でも」
「そう」
終わったよ、祖母はそう言って水戸から手を離した。椅子から立ち上がった水戸は、祖母に何も言わずに自室へ向かった。障子を開け、部屋に入った。ランドセルを畳に置き、そのままそこに寝転がる。我慢、ねえ。水戸は祖母に言われた言葉を思い出した。我慢なんてしていない、そう思ったからだ。ただ面倒だっただけ。水戸は目を閉じ、顔に当てられた消毒液の冷たさを思い出した。
要は暇潰しだろ、あれもこれも、無知の振りをした暇潰し。俺もあいつも所詮一人じゃ何も出来ない小学生なんてそんなもんだ。
それから数日、怪我をする日々を送った。毎日毎日怪我をして帰宅する水戸を見て、祖母は次第に言葉を失っていく。終いには、誰にやられた?と聞いてきた。怒ってる、そう思った。けれども水戸は、知らない、と返した。実際知らないのだ。顔も名前も。その内春休みに入り、水戸が怪我をすることも無くなった。その頃から水戸は、相手を黙らせる方法を考えるようになった。自分が暴行を加えられることはどうでも良かった。ただ、厄介なのは祖母だ。彼女はそろそろ、堪忍袋の緒が切れそうになっている。彼女を怒らせることの方が水戸にとっては面倒だった。喧嘩は苦手だ。その後が厄介だからだ。けれどもそうもいかなくなってきた。出来れば長引かせない方が良い。一発で終わりになるようなやり方。水戸は立ち上がり、自宅を出た。
小学三年に上がった頃、また同じようなことが起きた。おい水戸、呼ばれたので振り返ると、また知らない人間が集団で立っている。一、二、三、四、水戸は数をゆっくり数えた。
「何?」
「何、じゃねーよ。サンドバッグが」
「サンドバッグ、ねえ」
あながち間違ってねえかもな、水戸は俯いて笑った。
「試してもいい?」
「あ?何言ってんだてめえ」
一、二、三、四、何分掛かるだろうか。一人一分、それじゃあ多い。三十秒、いや十秒、そうすれば四十秒で終わる。水戸は一度肩を引き上げる。それから力を抜くように下ろして、右手をぶらぶらと振った。まずは一番体格の良いこいつ、中心に居る人物に狙いを定め、頭の中の写真を引き出した。古本屋で毎日眺めた本の中に書いてあった全てが、ばらばらと捲られる。場所はあそこ。真っ直ぐ見据えると、連中は後退った。砂混じりのコンクリートと靴底のゴムの擦れる音が雑音のように耳の中に入って来る。
「逃げるな。試させろよ」
睨んだつもりはなかった。ただ逃げないで欲しかっただけだった。黙らせる方法を確認したいだけだ、そう思った。実際言っていたのかもしれない。彼等は一歩二歩、それ以上後退る。次第にもっと引いて行く。
「逃げんなっつってんだろ!」
そう言うと同時に、水戸はスピードを上げて一歩踏み込んだ。写真を捲る。踏み込みは左足全体で、床を鳴らすくらい強く。踵の浮いた右足を外側に捻り、一緒に腰を回転させる。踵を回転させ、力では打たない。繰り出すスピードと、体を回転させ下半身にある重心を拳に移動させるように意識して打ち込む。左足に力を入れて踏み込み、同時に右拳を鳩尾に叩き込む。水戸は頭の中でそれを思い出し、その通りに打った。するとどうだ、簡単に相手は倒れ、泣き喚いた。連中はぞろぞろと倒れた人間を囲み、騒ぎ出す。もう水戸など目もくれなかった。彼等は焦っていたのだろう、一番強いと思われるA君があっさりと撃沈してしまったのだから。
呆気ない、そう思った。こんなことならもっと早くこうすれば良かった、そう思ったのだった。それからは水戸が怪我をして帰宅することはなくなったのだけれど、今度は祖母が菓子折りを手に持ち、各家庭に謝罪をしに歩くようになった。

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