長編

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「おーい、水戸ー」
鍵の開いた音がしたかと思ったら、足音と共に声がした。聞き慣れた声に振り返ると、今日は現れないだろうと思っていた人がずかずかと我が家に足を進めている。彼の身長は人よりも高い。よって足も長い。水戸が振り返ってその姿を確認した頃には既に、六畳の部屋に入り込んでいた。
「お、やってんじゃねーか」
「あんた何しに来たの?」
「お前がちゃんと荷造りしてんのか見に来てやったんだよ」
「そりゃご苦労なこった」
呆れて言う水戸に、三井は、ふん、と鼻を鳴らして何故だかしたり顔になる。彼が横柄なのはいつものことだった。三井は胡座を掻いて、水戸の作業を手伝うつもりなのかそうでないのかは不明なままフローリングに置いてある段ボールの中を覗き込んでいる。水戸は今、荷造りをしていた。引っ越す為だった。三月半ばに水戸は、三井と生活をする為にこの部屋を引き払うことに決めた。今夜はその荷造りの最中で、元々荷物も少ないから、今日明日で終わる算段で事を進めていた。が、予定外の邪魔者が乱入した。何が見に来てやっただ、水戸は呆れた。
「三井さんメシは?」
それでも聞く俺って何なの、水戸は自分自身にも呆れる。
「食って来た。あと寝るだけ」
ふーん、と水戸が返事をした直後、三井は水戸のベッドに横になる。あー気持ちー、と間延びした声が聞こえ、水戸は思わずベッドを見た。
「おい、帰って寝ろよ」
「相変わらず冷えなぁ、お前は」
「見てわかんねえの?普通帰るだろ、この状況」
水戸が言うと、三井は無視をしてベッドの上で伸びをしている。めんどくせえ人、そうは思ったけれどそれは言わず、水戸はまた荷造りを再開する。意外と仕事関連の雑誌や書類等が多いことに今更ながら気付いた。ファイルに綴じて保管してあったけれど、それは何冊もあった。纏めて取り出すとずしりと重い。処分しても良い物なら処分した方が後が楽だから、そのファイルを開いて確認していた。すると背後から気配がして、その後肩が重くなる。
「今度は何!」
「なあなあ」
「だから何だよ、めんどくせえこと言ったら放り出すからな」
「アルバムってねーの?」
「めんどくせえ、やっぱり放り出す。今決めた」
「なあなあ、ねーのかよ」
「あーうるせえ!ねえよ黙ってろ!」
語句を強めて言うと三井は、つまんねえ奴、と呟いた。そしてまたベッドに転がった。アルバムなんて見たことねえよ、水戸はそう思った。そしてまた作業を再開してしばらくすると、ベッドが軋む音がする。それに眉間に皺を寄せながら振り返ると、三井は胡座を掻いてベッドに座っていた。
「お前の子供時代って想像出来ないんだよね、赤ん坊の頃ってあったの?」
「何言ってんの、そりゃあるだろ」
「だよなぁ」
三井はそう言うと、またベッドに寝転がる。この人は何しに来たんだ、水戸はそう思った。するとその数分後、規則的な寝息が聞こえ、驚いて振り返ると三井は大の字で眠っていた。でかい体目一杯使いやがって、水戸はそう思った。直後、彼も忙しいのだろう、とも思った。シーズン真っ只中の最中に引越しを決め、更に彼は、家具などは全て自分が引き受けると言ったのだ。お疲れさん、水戸は小さく言って、また荷造りを再開する。
水戸もまた、忙しくないことはなかった。年度末でもあるし、やる仕事は山のようにあった。それでもこの時期だと決めたのも二人だった。自分にしては勢いも良かったし、思い切った行動だとも思った。あの時なぜあんな言葉を自ら発したのか、水戸にはその真意を未だに測りかねている。これまでの経緯を思い返せば、他人と暮らすなど予想だにしなかった展開だ。それなのに。水戸はもう一度三井を見た。彼はよく眠っていた。風邪を引いてはいけないと、三井の下に敷かれている布団を無理矢理引っ張り、彼の体に掛けた。それでも起きる気配はなかったので、彼も相当疲れているのだと知る。三井の頭を軽く撫で、水戸はまた、ファイルされている書類と向き合った。
捨てる、捨てない、黙々とその作業を繰り返していた頃、三冊目のファイルが終わりに差し掛かった辺りで、一枚の紙切れが目に入った。そこには、片仮名で三文字の苗字と思われる文字と、数字の羅列があった。電話番号と思われる文字だった。捨てる捨てない、その名前と数字を数秒眺め、結局捨てないことを決める。この名前を見たのは、以前ここに引っ越した以来だった。市営アパートを出て行く時にも同じように荷造りし、同じようにこの紙切れを眺めた。その時も、少しの間眺め、結局捨てられないままファイルに挟み、この部屋に持って来ている。この名前は、酷く郷愁を誘った。
アルバムってねーの?お前の子供時代って想像出来ないんだよね、赤ん坊の頃ってあったの?
三井の言葉も相俟ってか、遠い過去の記憶が脳裏を過ぎる。アルバムなんか見たことねえよ、水戸はまた、同じことを思った。煙草に火を点け、吸い込んで吐き出した。飲みかけのビールに口を付け、一息吐く。赤ん坊、ねえ。水戸はぼやくように小さく呟いた。赤ん坊の頃のことなど覚えている筈もなく、あの母親から産まれたことさえ疑問に感じることがある。ただ名前の由来を聞いたことがあるというだけだ。むしろそれだけが現実で、それ以外は彼女との関係が酷く曖昧だった。幽霊のように時々現れては八割方消えているその人と水戸を唯一繋ぐものがあるとしたら、自分の名前しかなかった。
産まれた場所は海が見える病院だと聞いた。体重は2880グラム。それが大きいのか小さいのか水戸には分からない。中学の頃、金を探す為に母親の部屋に入り、鏡台の中を漁った時に見付かった、母子手帳と書いてある小さなノートに書いてあった数字がそれだったのだ。ただの数字だ。くだらねえこれしかないのか、水戸がそれを見て感じたのは、ただ数字の羅列だとそれだけしかなく、金を諦めて母親の部屋から出た。それ以来、その部屋には入っていない。中学一年の時に越して来た市営アパートには、収納は余るほどあった。ただ、その中に通帳や金の類は一切なかった。水戸はそこでようやく、自分が食べて行く為には金が必要なのだと目の当たりにした。母親が万札を数枚置いて居なくなった三週間後のことだった。
彼女が消えるのは分かっていた。何故なら、水戸が幼い頃から数える程度しか会っていないからだ。物心ついた時から母親は居なかった。保育園に迎えに来るのはいつも祖母で、けれどもそれは閉園ぎりぎりの時間だった。洋平遅くなってごめんね、祖母はいつもそう言った。その頃祖母は、自分の店を鎌倉に持ち始めた所で、当時昼間は定食屋でもあった。そして、夜の仕込みを終えて少しの間厨房に立ってから迎えに来ていたのだった。幼稚園には年中から入園した。祖母が小学校に上がる前には幼稚園に行くべきだと言ったからだ。その頃もまた、母親は居なかった。だから彼女は、水戸が今保育園に居るのか幼稚園に居るのか、それすら知らなかったのではないかと思う。
彼女は、時々ふらりと帰って来た。けれども昼間は水戸が居なかったので、顔を合わせることはほぼなかった。顔を合わせたかと思えば、すぐに帰って来るからね、そう言って居なくなった。水戸は彼女のことを、消える存在だと思った。むしろ存在していないのではないかと疑問を感じていたこともあった。最初の頃は、彼女の言葉を信じていた。すぐに帰って来るからね、それを幾度となく頭の中で繰り返しながら、彼女の帰宅を待った。今日の夜には帰って来るのかもしれない。帰って来なければ明日かもしれない。明日でなければ明後日かもしれない。だから毎日待った。けれども彼女が帰って来ることはなかった。消える人、水戸はいつしか彼女のことを、朧気にそう思うようになった。
それを真っ向から現実として認識するようになったのは、幼稚園の運動会のことだった。水戸は元々、運動会は元より、幼稚園という場所に意味を見出していなかった。揃って歌を歌い、揃って工作をし、揃って外で遊ぶ。それの何が楽しくて何かの意味があるのか、一通り考えてはみたもののまるで検討がつかなかった。祖母が小学校に上がる前には幼稚園に通わなければいけない、そう言ったからそのようにしているのだと、水戸は結局その結論に至った。彼女を困らせたくない、そう思っていたからだった。
運動会の日、祖母は重箱にたくさんの料理を詰めて持って来た。おにぎりの種類も幾つかあって、お菜の量もとても食べ切れないほどあった。洋平はどれが好き?どれが食べたい?祖母はそう聞いた。笑顔で、とても嬉しそうで、水戸は祖母を困らせたくなかった。彼女の哀感した表情を見たくなかった。だから、これ、と言って、唐揚げとおにぎりを食べた。口の中にそれらを入れながら周囲を見渡すと、水戸以外の園児達は母親と思われる女性や、もしくは父親と母親が揃った家族と弁当を食べていた。そこには笑顔が溢れていて、笑い声や時々、遊んでないでちゃんと食べなさい、と子供を注意する声もあった。母親というのはこうして、時には叱責する存在であるものだと知った。それは決して、消える人ではないのだと、喜怒哀楽を持って側に居るものなのだとその時初めて知った。
美味しい?祖母は水戸に聞いた。水戸はそれに、うん、と答えた。水戸はその時、唐揚げの味もおにぎりの味も、よく分からなかった。噛んで飲み込むしか出来ず、味わうことなど全く出来なかった。
その帰り道祖母と歩きながら水戸は空を見上げた。鱗雲が並んだ秋の空だった。母親がまた消えてから、もう何ヶ月か経っていた。顔を見たのは何時だったか、それも曖昧だった。表情もよく思い出せない。ただ、言葉だけは覚えていた。洋平、すぐに帰って来るからね。これだけは鮮明に。口調も、声も、昨日言われた言葉のように思い出せた。
「ばあちゃん」
「何?」
「お母さん、来年の運動会は来るかな」
水戸がその時、何故そんなことを言ったのか、自分でよく分かっていた。水戸は母親が、来年の運動会に来ないのは勿論のこと、今日この日が運動会だということすら知らないこともよく知っていた。分かっていた。それを聞いたのは、ただ祖母を困惑させたいだけだった。こんな風に彼女を悲しませたいと思ったことは初めてだった。彼女は知っているからだ。あの母親が運動会があることを知らないことも、来年の運動会も来ないことも、水戸以上に誰よりも知っていることを、水戸はそれこそ、誰よりも分かっていた。それを知った上で、祖母に聞いた。
思った通り、彼女は苦笑した。何も言わなかった。祖母が心を傷ませる必要はない。なぜ自分の代わりに、彼女が痛々しく思うのか、水戸はそれが酷く苛々した。初めてだった。憎たらしい、水戸は祖母に対し、初めてそう思った。だから言った。
「お母さんが帰って来ないのは、僕が嫌いだから?邪魔だから?」
祖母を見上げ、水戸は言った。段々と彼女の顔がぼやけた。滲んで周囲が見え辛くなった。鱗雲も見えない、水戸はそう思った。それが何故なのか、水戸にはその時、分かっていなかった。直後、彼女の体が近付いて、水戸に触れた。その腕が水戸の体を包んだ。痛いほど力強かった。痛くて痛くて堪らなかった。けれどもその痛みがどこから来るのか、どの箇所が痛いのか、水戸には分からなかった。
その時、風が吹き付けた。緩慢で温くも冷たくもない何の特徴もない温度だった。祖母の柔らかい匂いと、家の匂いの入り混じったそれは、水戸を酷く不快にさせた。水戸は祖母が好きだった。彼女を悲しませることだけはしたくないと思っていた。どんな時でも駆け付け、熱が出れば迎えに来て看病をして、彼女が居るから生きて行けるのだと、幼いながらに水戸はそう思っていた。そんな彼女を、水戸は好きだった。けれども今、この匂いが今だけは不快で苛ついて殴りたくて仕方なかった。
秋の風の匂いは死ぬほど嫌いだ。水戸はそう思った。自分の母親だけが幽霊のような存在なのだということを、水戸はこの日に思い知る。





2へ続く

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