長編

□20
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煙草に火を点けて、吸い込んで吐き出した。空を仰ぐと、鬱陶しくなるほどの晴天だった。並ぶ入道雲、照りつける太陽に目を細め、どこからともなく鳴き響く蝉の声が一層、暑さを増長させる。寒暖の差に特に興味はないけれど、夏はやはり暑い。それ以外はない。凭れているガードレールも熱くて、真上からは太陽の熱、下からはアスファルトの熱気で、どっか入って待つか、とも考えていた所だった。
今日は横浜に来ていた。三井さんが昨夜「オレも横浜に連れてけ」と言ったからだった。「も」って何だ、だから覚えてねえって言っただろ。そう返したところで、彼が横浜に行くのは決めていたらしい。ローマ字が羅列した名前の洋服屋に行くと言うのだった。仕事用のスーツとTシャツが何枚か欲しいと。へえ、と心底どうでも良さそうに返答すると、ふん、と鼻で笑われた。苛ついたから、電車で行けば?と言うと、ふざけんなてめえ!と何故かキレられる。彼の理不尽な怒りに付き合うのが面倒で、はいはい分かりました、と了承した。
俺は元々、彼の買い物に付き合う予定はなかった。しかも目的地がルミネ横浜。その場所に俺が自ら予定を立てることは、まあまず無い。用が無い。だから東口地下駐車場に車を停め、別行動で過ごしている。JRを使った方が確実に利便性は高かった。自分でも分かっているだろうに、時々彼は、俺を無理矢理連れ出す。湘南や鎌倉以外の場所に連れて行く。それで最後に、ちょっと洒落た店を選んで食事をするのだった。俺は選ばない。言うまでもなく選ぶのは三井さんだった。それで満足して帰宅する。あの人は、誰もが喜びそうな定番の行動が好きだった。普通の人だと、確認するまでもなく思う。
買い物が終わるまで街をぶらついているとパチンコ屋が見えたので、暇潰しに入店した。負け戦はしない主義だ。負けそうだと予測出来ればすぐに止める。しかし、勝負には勝った。お見事としか言いようがなかった。その内三井さんから、五時に東口集合、と連絡が来た。大勝ちした所で早めに手を打ち、パチンコ屋を後にした。換金した残りの端金はポテトチップスに変え、それが入った茶色い紙袋を持ちながら、熱のこもったガードレールに凭れている。携帯で時間を確認すると、四時四十五分だった。あの人が五時を過ぎる可能性は高い。短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けながら、やはりどこかに入ろうか、そう考えていた時だった。どこかで見掛けた男性と、その人と手を繋いで歩く小さな女の子が俺を横切った。あ、と思った。ただ、あ、と。その直後、男性が振り返る。そしてまた、あ、と思ったのだった。
「洋平……、くん」
「どうも。こんにちは」
そう言うと、隣で男性と手を繋いでいた女の子がこちらを見た。長い髪を二つ結びにしたその女の子は、見知らぬ俺を見て少しだけ警戒しているのか男性の足に縋る。目線を下げ、彼女にも、こんにちは、と言うと、警戒を解いたのかにこりと笑って、こんにちは、と返してくれる。釣られて笑うと、彼女もまたにこにことした。
「久し振りだね、覚えてる?」
「はい。そちらもよく覚えてましたね、たった一回会っただけなのに」
「……忘れないよ」
男性とは一度、母親の店で会っていた。一杯ご馳走になったあの日から、もう三年近く経っている。少しだけ俯いて、あの日を思い出した。今とは真逆の季節で、冬だった。雪がちらついて寒くて、ただ会いたくて携帯の文字と数字を眺めていた。そうだった。自分はやはり砂なのかもしれない、と。
「娘さんですか?」
「あ、うん。あー……、そうなんだ。えっと、六歳になるんだよ」
この男性も良い歳だ。普通に結婚して子供が居ても何もおかしくはない。
「可愛いですね」
そう言うと女の子は、はにかむように少しだけ俯いた。そのいわけない様子を、素直に可愛く思う。そして彼女は背伸びして、男性の耳に近付こうとした。彼は屈んで、女の子の背に合わせる。そして小さな声で、男性に耳打ちするように声を出した。耳打ちになっていないその言葉はしっかり俺にも聞こえていて、それに気付いたのか、男性は目を左右に動かした。覚束ないその様子に、俺は目を逸らすしか出来なかった。
「あの、これから時間ある?」
「え?」
「お茶でもどうかな、暑いし」
「いえ、待ち合わせしてんですよ」
「……そう」
少しの間沈黙が流れる。その空気は妙だった。ゆっくりでもあれば早くもあって、暑さだけが酷く強調されていた。蝉の鳴き声が遠くからぼんやりと聞こえて、夢か現実か、その境目を何故か曖昧に感じる。その時、携帯が鳴った。その機械音が、目を覚まさせてくれた気がした。すみません、そう言ってそれに出る。
「はい」
『オレ。どこ?』
「あんた東口っつったろ?」
『そのどの辺?分かんねーよ』
「ガードレールの……、あーもう、うろちょろすんなよ?そっち行くから。近くに何かある?」
そう言うと彼は、えーっと、と言いながら歩いているようだった。コンクリートの擦れる音も微かに拾ったから、うろちょろすんなっつってんのに、と心の中で悪態を吐いた。そして辺りを見渡した。すると少し離れた場所からひょっこり、すらりと背の高いあの人の姿が目に入る。
「三井さん」
大きめの声を出すと、多少は聞こえたのか彼は俺の方向を見た。それで気付いたのか携帯を切る様子が垣間見れる。俺も通話を切り、デニムのポケットに携帯を戻した。それから男性に目を戻し、行きます、と言って軽く会釈した。
「また、どっかで」
そう言った彼に向けて、俺はかぶりを振った。
「もう会いませんよ、きっと」
男性は俯き、女の子の手を強く握ったのかもしれない。彼女は、パパ?と不思議そうに見上げていた。
「あ、これあげる」
俺は屈んで、女の子に茶色い紙袋を見せる。彼女はまた不思議そうにして、男性の手を離して紙袋を手に取った。
「ポテトチップスなんだけど、好き?」
「うん」
またにこりと笑う彼女が無性に可愛くて、頭を撫でた。女の子は少し照れ臭そうに、軽く俯く。
「ばいばい」
そう言ってから立ち上がると女の子は俺を見上げて、ありがとう、と小さな声で言ってくれる。
「ばいばい、お兄ちゃん」
発せられた言葉に意味はなかった。けれどそれに俺は、上手く返すことが出来なかった。隣の男性は、ただ口を噤むだけで何も言わない。
「じゃあ、お元気で」
踵を返し、三井さんが待っている方向に足を進めようとした。何故か頭痛はしなくて、暑さだけがその場に残る不思議な感覚だった。
「……洋平、くん!」
振り返ると、そこには顔を歪めたその人が何かを言いたげに俺を見つめている。
「君は今幸せですか?」
立ち止まり、少しの間考えた。
「そう思います」
もう一度会釈して、今度は振り返らなかった。蝉の鳴き声が、酷く近くに聞こえる。目の前の現実は、目の前にしかなかった。小走りして三井さんに近寄ると、彼は手に荷物を二袋ほどぶら下げている。その紙袋には、ローマ字が羅列していた。
「お待たせ」
「誰?」
足を進めて、荷物を一度置くだろうと駐車場に向かった。その先どうするのか、それを俺は知らない。
「ああ、仕事のお客さん。車の修理したんだよ、この前」
顔色変えず、すらすらと流れ出て来る嘘に、あの女の子が男性に耳打ちしていた言葉を思い出した。このお兄ちゃん少しだけパパに似てるね、そう言った。あの人も上手く嘘を吐き続けて欲しい、女の子の為にも。それを切に願った。
「お前はガキまで口説くのが上手いんだな」
「子供にまで嫉妬とかやめなよ、みっともない」
「ちっげーよ!オレはお前の女に対するスキルに引いてんの!」
「あっそ」
地下駐車場に向かう間、三井さんはルミネ横浜の話をした。スーツが良かった、だの、Tシャツも目星を付けといたやつがあっただの、俺が全く興味のない話を延々としている。合わねえなぁ、そう思うのに、今の空気が酷く心地良かった。
未だに大合唱している蝉の鳴き声はずっと、耳の奥に残っている。
「あんたが散財してる間、俺ぼろ勝ちしたからね」
「え、まじか」
「まじだよ」
「幾ら?」
「俺の家賃分くらい」
そう言うと、三井さんはぎょっとした顔をする。そして、自分が手にしている紙袋を持ち上げて、凝視するのだった。
「晩メシ奢れ」
「どうすっかなぁ」
はは、と笑うと彼は未だに、奢れ奢れと繰り返している。
君は今幸せですか?
「幸せ、ね……」
俺はこの人と出会って、寂しさを知った。失うことの怖さを知った。ただいまとおかえりを知った。明るい部屋の暖かさを知った。一人と孤独はイコールではないことを知った。そして、自分は砂じゃない、それを強く思い知った。
「幸せですよ、凄く」
「あ、ぼろ勝ちがそんなに嬉しいのかよ!くそ!奢れバカ!」
「はいはい分かりました」
目線は真っ直ぐのまま言うと、上の辺りから上機嫌の声がする。どこ行く?と聞かれたので、任せることを告げると、また上機嫌になる。どこに連れて行こうとしているのかは知らないけれど、俺が選ばない場所であることに間違いはない。でもきっと、その食事の味を、俺は美味いと思うだろう。
蝉の鳴き声がこのまま聞こえていますように、それを少しの間だけ、願った。






終わり。

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