長編

□19
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水戸との生活を初めて、三ヶ月近く過ぎた。また暑くなってきて、今年もまたこの季節がやって来たのだと実感する。
今はオフシーズンで、チーム練習が始まる直前だ。現在土曜日の午後三時。オレはパソコンを開いて練習メニューの見直しをしていた。各選手の弱点やプレイスタイルを頭の中で羅列して、順に打ち込んだ。他にも仕事はあった。元ヤン正コーチはオレに全てを任せているからだ。奴はとうとう、メディアの方へ足を進めている。「三井、後頼むぞ」と景気良く笑う姿は、大学の監督とよく似ていた。はあ、と苦笑すると、「しけたツラしてんなよ」と背中を叩くのだった。こういうキャラはメディアで重宝されるんだろうな、とプロバスケを面白く且つ分かりやすく解説するあの人の姿が今から眼に浮かぶ。職場に行けば、雑用はある。でも今日は土曜日だから、何となく家で仕事をしようと決めた。雑用は月曜日で良いや、と。だから、エアコンをがんがん効かせて、座り心地が抜群のソファに身を委ねながら前屈みでパソコンを睨んでいる。
どことなく怠惰な気分が抜けなくて窓の外を眺めると、夏ならではの入道雲が並ぶ見事なまでの晴天だった。明日も晴れるから、水戸も休みなことだし出不精の奴を連れて出掛けるか、そう思った。ソファのスプリングが心地良くて、少し休もうと決めた。思えば年が明けてから、酷く慌ただしかった。シーズン中に加えて、引っ越しもした上に、家具選びまで奔走したからだ。何故なら、水戸が使っていたものをそのまま使うと奴がぬかしたから。おいおい水戸くん、それは合わねえよ間違いなく。切実に説明しようとも、それを分かるセンスを奴は兼ね備えている筈もなく、オレは一人、嫌味でも何でもなく酷く楽しく家具を選んだ。お陰で、インテリアショップの兄ちゃんと親しくなった。モデルルームだの何だの文句を並べた割に、水戸はこのソファは気に入っているようだった。よくここに座っている。
暮らし始めて思ったことは、変わらない、ということだった。水戸もオレも、自分のペースを全く崩さない。休みが重なることがあっても別々に過ごすこともあれば、何するでもなく一緒に居ることもある。ただ、掃除洗濯は、オレがすると文句を散々言われるので、いちいちそこで喧嘩をするのも面倒だからやることをやめた。でも今日は、休みだからオレがした。きっとあいつは帰宅後、小姑のように文句を垂れるに違いない。ざまあみろ、その地味な嫌がらせをした自分が誇らしくて鼻で笑いながら、それとは別に、今夜は何を作ろうか、と考えた。
ソファに凭れていたのを横になることに変更した。寝れそう、と目を閉じながら、夕食は何を作るかなんて実家に居た時は考えなかったと今更思った。実家を出ることを母親と、何故かそこに居た姉に報告したことを思い出した。
「水戸くんと暮らすの?!えー!ずるいあんたばっかり!」
この姉が言うことは、昔っから意味が分からない。ずるいって何だ知るか。オレは噛み付くようにそう思った。人の話を全く聞いていない。
「最初に言ったろ?引っ越そうと思った時期がたまたま重なったからって。家賃も安上がりだし、何がずるいだ。お前みたいな我儘には真似出来ねえルームシェアだ、ルームシェア」
「絶対行くからね」
「お前にはぜっってえ教えねーよ!」
思いっ切り力を込めて言うと姉は、バスケしか特技がないくせに、と吐き出した。すると母親が追い打ちを掛ける。
「確かにね、バスケ以外出来ることないのに、水戸くんに迷惑だわ」
「そこおかしいだろ!息子の心配せずに水戸かよ!」
「だって、ねえ?」
そう言って、母と姉は顔を見合わせた。水戸とやり直してから、オレの実家には奴は何度か来ていた。というのも、父親が乗っている車がある日の朝急に動かなくなり、JAFよりも水戸が早いだろうとオレが連絡したのだ。そうすると水戸は、マイ工具的な物を持参し、父親と会話を交わしながら、それはそれは見事に修理した。その日は仕事があるからとすぐに帰ったのだけれど、後日礼を兼ねて母親自ら自宅に招待したのだ。オレには何も言わず、水戸の職場に電話を掛けたらしい。どんだけ好きなんだ。だから帰宅して水戸が実家に居た時は、驚きを通り越して絶句した。しかもいつもは居ない父親まで居た。更に付け加えると、オレとは用がなければ喋ることもしない父親が、水戸とは饒舌に喋っていたのだ。しかも飲みながら。
水戸は普通に、「三井さん、おかえり。お邪魔してます」と、にこやかに言った。あの野郎、確信犯だ。オレはそう思った。という経緯もあり、我が家の連中は全員水戸の味方だ。こいつらは、水戸の本性を知らない。あいつが小姑なのも知らない。姉が一緒に生活でもしたら、間違いなく半月持たない。自信を持って言える。
実家には戻るつもりもなかったから、全ての荷物を梱包した。部屋の中を空にしたかったからだ。ベッドも処分して、気に入っていたローテーブルだけは持って行くことにした。仕事を始めてから、オレが自分で買った物だった。これなら、あの部屋にも合いそうだと思った。引っ越し当日は日曜日だったけれど、その日は試合がなかった。だからその日しかなかった。けれど、チームの選手がシュートフォームを見て欲しいと言ってきた。荷物自体は業者に頼むつもりだったし、どうするかと水戸に言うと、人手は足りてるから大丈夫、そう言った。奴はその頃多分、オレの荷物の量を知らない。ざまあみろ、その時もそう思った。水戸に地味な嫌がらせをするとオレは、地味に喜ぶ癖があることを最近知った。
オレは母親に言わなければならないことがあった。引っ越し当日で良いやと、先送りにしていた。じゃあ行くわ、と言うと母親は、「水戸くんによろしくね」と、東京に行く時と同じような声を出した。でもこの人は知らない。あの時と一緒じゃないことを知らない。オレがもう、この家には顔を見せる程度にしか帰らないことを、きっと知らない。
「母さん」
「何?」
玄関でスニーカーを履いて、母親を見下ろした。この人小さいんだよなぁ、と今更のように思う。
「オレ、この先結婚しないと思う」
「何よ、急に」
「だから、父さんと母さんの望むようなことは出来ない。ごめん」
「そんなにバスケが楽しいの?」
「そう思っといて」
母親は、諦めたように深い溜息を吐いた。この人は昔から、最後はオレの好きにさせてくれる。バスケを一度辞めた時も、また始めた時も、進学の時もコーチになると決めた時も。でも違う。そうじゃない。そうじゃなかった。今まで好きに出来たと思っていたけれど、そうじゃなかった。させてくれていた。見守ることは容易じゃない。それは分かっていた。でもオレは、もう決めた。
「じゃあ」
「たまには顔見せてよね」
手を上げて答えた代わりにして、実家の玄関を開けた。空は晴天で、気温も高くもなく低くもなく、絶好の引っ越し日和だ。今頃水戸は、オレの地味な嫌がらせに呆気に取られているだろう。それを想像してほくそ笑んだ。





あ、寝てた。
色々思い出していた所で眠っていた。そこで急に、親子丼が食いたくなる。夜は親子丼に決めた。時計を見ると、午後五時を回った所だった。もう仕事も面倒になり、パソコンも閉じる。携帯を手に取ると、水戸から一件メールが着ていた。「早く帰れそうです」その端的なメールを見て、あいつは本当にオレには愛想がないと心底思った。それでも一緒に生活をするようになってから、こういう業務連絡は寄越すようになった。親子丼はオレが作るべきか水戸に作らせるべきか、悩んだ所で水戸に頼むことに決めた。何故なら、今日オレが食べたかったのは、奴が作る親子丼だったからだ。
とりあえずサラダだけは準備しようと、ソファから立ち上がって体を伸ばす。
もう飲んで良いかな、そう思って冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。窓の外は未だに明るくて、プルタブの開く小気味良い音を聞きながら、明るい内から飲むビールの素晴らしさを知る。飲み込むと、炭酸の効いたアルコールは酷く喉に染みた。ビールを一度カウンターに置き、もう一度冷蔵庫を開ける。レタス、きゅうり、トマト、ちゃんと揃っていた。水戸は抜かりなく揃えている。一週間分きちんと。その辺りマメだ。というより基本的に水戸はマメだ。冷蔵庫の中から三種類の野菜を取り出し、ステンレスの上に並べる。手を洗ってから、いつもサラダを入れる皿を取り出した。それを並べ、レタスを洗って適当な大きさにちぎる。それからトマトときゅうりを洗って、まな板の上に置いた。トマトを切って、それを早速口の中に放り込む。酸味が効いて美味くて、カウンターに置いていたビールにまた口を付けた。
そこで玄関の開く音がする。あ、まじで早い。反射的に時計を見ると、五時半を回った所だった。水戸はいつも、洗面所で手を洗ってから、リビングのドアを開ける。
「おかえり」
「ただいま。あー、涼し」
おかえり、その言葉はどれだけ喧嘩をしていても、オレが居る時は必ず使っていた。水戸は最初の頃、ここでオレがその言葉を使うと、妙な顔をしていた。言葉にするのも難しい、それこそ妙な気分だったのだと思う。
「早かったな」
「早く帰るっつったろ?」
水戸は荷物をソファの上に置いて、首をぐるりと回すとベランダに行った。一服するつもりなのだろう、帰宅後は必ずベランダに向かう。それが一種のルーティンのようなものだった。オレはトマトを切ることを再開し、きゅうりを切り終えた時には、トマトは半分以下になっていた。半分以上は既にオレの胃袋の中に収まっている。サラダが完成した所で、水戸はベランダから戻って来た。それからキッチンに来て、冷蔵庫を開けビールを取り出す。
「何か作った?」
その言葉と同時に、プルタブの開く音がした。
「あとはお前の係だ」
「は?」
「親子丼食わせろ」
「働かすね、ほんと」
水戸はビールを一気に呷り、カウンターにそれを置きながら、あー、と親父さながらの声を上げる。
「別にいいけど、親子丼が好きなのは変わんねえんだな」
少しだけ俯いて笑って、水戸はまた冷蔵庫を開けた。ちょうど鶏肉も解凍してあり、それを取り出した。下拵えをする所をキッチンの壁に凭れながら、ただ眺めている。
「あ、そうだ。お前、もうちょっと愛想良いメール寄越せよ。何だあの業務連絡は」
「あのね、今更愛想良くしてどうすんの。俺が急に絵文字使い出したら気持ち悪いっしょ」
「え、使ったことあんの?」
「ねえよ。めんどくせえ」
「確かにな、お前が急に絵文字使い出したら真っ先に浮気疑うわ」
「あーもう、はいはい」
高みの見物のように、ははは、と笑いながら壁に凭れ、ビールを飲む。水戸は決して、あっちに行け、とは言わないことをオレは知っている。
「でも気を付けろよ?メールから人が読み取る感情は、送った相手が本当に考える3%なんだからな」
「え、何それ」
言った後、あ、と思った。不意に思い出した。オレが送った「もう来んな」あのメールを。あれがあったから、連絡手段はなるべくメールは避けるようにしていた。
「大学の教授から聞いたんだよ。雑談好きな人で、授業が終わる前の五分は必ず何か話してたな」
「へえ、面白そうだね」
「つっても、それしか覚えてねーけど」
「ダメじゃんそれ、あんた大学に何しに行ってたの」
「……バスケだよ」
そう言うと、水戸は笑った。一度だけ水戸がオレを見て、また調理を再開する。雑談をしている内に、親子丼は完成した。はい持って行って、水戸に言われ壁に凭れていた体を起こした。ステンレスに並べられた親子丼を二つ、手に取ってテーブルに運ぶ。それからサラダを運び、最後はビールを手に持った。
あのメール、「もう来んな」それを読んでどう思ったのか、それは結局聞けないままでいた。でも、それで良いとも思った。聞いた所で多分、上手くはぐらかされるだけだ。
いただきます、と手を合わせて親子丼に箸を付けた。美味い、と一言言うと、作り甲斐あるなぁ、と水戸は言った。ああそうか、と思った。だからだ、と。だから文句も言わず作るんだ、とそんな単純なことに今更気付いた。
「今日何してた?」
「選手の練習メニュー作ったり」
「うん」
「……昼寝」
そこでまた、水戸は吹き出して笑う。
「幸せな土曜日だったね」
俯いて目を細め、今度は堪えるように笑った。
幸せだよ、幸せで悪いか。食いたいもんが食えてエアコンが効いて涼しくて、明るい内からビールを飲んで、ただいまがあっておかえりがある。それはお前にも当たり前にある幸せだよ。それをこの先、存分に思い知れ。
「明日買い物行きてーんだけど」
「何?車出せってこと?」
「その通りです」
「頼むから12600円のTシャツは買わないでください」
「裏返してネットに入れりゃいいんだよ」
「だからてめえで洗濯しろって言ってんの」
オレも今、存分に思い知っている。






20話へ続く

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