長編

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「引っ越そうと思ってさ」
「そうなの?」
「うん、三月のどっかに」
「そう」
俺が座っているカウンターの向こう側には、ばあちゃんが居た。今は「ゆきの」に一人で来ている。引っ越すことを報告する為と、最近顔を出していないからそれも兼ねてだった。ばあちゃんは、あまり顔を出さないと時々連絡をしてくる。もうガキじゃねえんだけどな、と思いながらも酷く心配性のばあちゃんを安心させられるなら別に良かった。
今日の「ゆきの」はそこそこ空いていた。平日ということもあるのかもしれない。彼女と話す時間もある程度あった。
「三井さんとね、暮らそうと思って」
「そうなの?」
あまり驚かないばあちゃんを見て一瞬不思議にも感じたけれど、何かあったのかもなぁ、とも思った。あの人は時々、俺の想像をはるかに超えたことをするからだ。だからと言って、当人が話さない限りは聞くつもりもないけれど。
「あの人もちょうど引っ越したいって言ってたし、家賃も折半したら安上がりかなって」
「楽しそうね、あの子が一緒なら」
「そうだね、気も使わないし面白い人だよ」
笑いながら言うと、ばあちゃんも柔く笑った。この人にはいつも心配ばかり掛けていた。昔からずっと。俺が小さな頃から。三井さんに昔話をしてからあまり時間は経っていなかった。だから余計に、彼女の顔を見ると郷愁を誘った。そして、酷い罪悪感も一緒に連れて来る。喋らないガキでごめん。飯と一緒に置いてあったメモを捨ててごめん。中学の頃嘘ばかりついてごめん。それが脳裏に浮かびながら、今は笑って彼女と話していた。
急に居たたまれなくなって、そろそろ帰ることを告げると、もう?と寂しげな表情をする。それを見て、歳を重ねても可愛い人だと心底思った。
「幾ら?」
「要らないわよ」
「そういう訳にもいかないだろ?」
「あんな思いをするのは、あの時だけで十分」
あんな思い、というのは多分、三井さんと一緒に来た時のことだと思う。彼女はいつも、毎回同じことを言うのだった。もう十年近く経っていることを未だに。
「ばあちゃん、俺もうガキじゃねえんだから」
「まだまだガキよ。わたしに比べたら」
そう言われたら、返す言葉がなかった。小さく息を吐いて、仕方なく出していた財布をポケットに戻した。
「あのさ」
「何?」
「俺もう大丈夫だから。今まで心配掛けてごめん」
いつもそう思っていたのに、口に出して言うのは初めてだった。すると急に彼女は、口を噤んで顔を歪める。あ、やべ、そう思ったけれど、既に吐き出された言葉はなかったことにはならない。
「心配くらいさせてよ。あんたはずっと、わたしの中では子供なの」
「はは、勘弁してよ」
じゃあね、そう言って立ち上がり、店の入口に向かった。後ろから足音がして、見送ってくれるのだと単純に思う。
「洋平」
「ん?」
入口の辺りで振り返り、彼女を見下ろした。不意に思う。いつの間にか、見下ろすほど俺は、歳を重ねたのだと。見上げていたあの頃とは違うのだと。
「引っ越すこと、あの子に言うの?」
「いや」
あの子、というのは母親のことだと思う。まさかばあちゃんからあの人の話が出るとは思わず、多少驚きはした。二人の間に何があったか、それを俺は聞くつもりはなかった。きっとこの先もずっと。
「わたしとあの子は上手くいかなかったけど、洋平は違うのよ?まだ許せない?」
「許せないって思ったことはない。ただ接し方が分かんねえだけで」
「似てるのね、きっと」
同族嫌悪、いつだったか、三井さんにも言われたことがあった。あの頃は、終わりを考えたことはしょっちゅうあれど、こんな風に続くと思ったことは一度もなかった。
「同族嫌悪」
「何、急に」
「三井さんに言われたことあんだよね、笑えるだろ?」
ばあちゃんはまた、柔く笑う。それを見てもう一度、じゃあね、そう言って店を去った。一月終わりの冬は冷える。店内と屋外の差異を頬に感じながら、鎌倉駅まで歩いた。
引っ越しを決めてすぐ、大楠に連絡をした。仕事の昼休みを使って携帯に連絡し、引っ越したいことを言うと、彼は喜んだ。三井さんは、風呂が広い方が良いと言った。風呂が広いだとか、正直俺はどうでも良かった。合わねえ、そう思いながら大楠にその旨を伝える。返って来た言葉は「不埒な!」だった。「不埒なのはてめえだ」俺は即答して、どうでも良いから早く見付けて欲しいことを伝え、すぐに携帯を切った。彼の仕事は早かった。何軒か見繕ろってその日の夕方すぐに俺の職場までコピーを持って来たのだった。「引っ越しは手伝うからよ」と大楠は言って、すぐに彼は職場まで戻って行く。
それを仕事が終わってから三井さんに連絡すると、彼は酷く機嫌よく「今日行く」と言って携帯をすぐに切った。引っ越しがそんなに嬉しいもんかね、そう思いながら大楠から貰ったコピーを眺め、三井さんが選びそうだと思われる二軒の家賃を見てぞっとした。こんな家賃知らねえよ、と思わず溜息を吐いたのだった。その日の夜、三井さんはたくさんのアルコールを持ってやって来た。え、何それ、そう言うと、祝杯だ、と返って来る。何の祝杯だよ、と突っ込みたくなったけれど黙っておいた。意味の分からない祝杯を挙げながら、部屋のコピーを見せると、予想通り三井さんは、俺がぞっとした家賃の物件を気に入った。だと思った、と心の中で呟いてから、「家賃がなぁ……」と微かな望みを掛けて言ってはみるものの、「この二軒だ。大楠に言っとけよ」と酷く偉そうに言うのだった。何で無駄に威張ってんの、とも言わないでおいた。言った所で聞かないからだ。それはずっと前から学んでいた。
見に行く予定の二軒は、新築もしくは築二、三年辺りの綺麗でとにかくリビングが広い部屋ばかりだった。合わねえなぁ、と何度思っただろうか。更に俺と三井さんは休みが合わないから、ホームで試合のある日の夕方を狙った。俺が休みを取れば良かったのだけれど、そうもいかないのが仕事というものだ。だから大楠に、あの人が候補に挙げている二軒を仮予約という形で置いておいて貰っている。
二月に入ったばかりの日曜日だった。その日はホームで試合があって、俺も観に行った。そのまま車で現地に行くことになっていたからだった。試合は勝った。最近、サンダースの調子は良い。一部リーグに参入したてでも、他のチームに引けを取らなかった。すげえな、とそこは素直に尊敬する。試合が終わってから大楠に連絡し、一時間後の午後四時に現地集合ということで話が纏まった。試合に勝って、これまた上機嫌の三井さんを車に乗せ、集合場所に向かう。現地に着くと、大楠は既に待っていた。不動産会社のロゴが入った軽自動車が、駐車場に停まっていた。彼は車のドアに凭れ、俺に手を挙げる。大楠から指定された駐車場に車を停め、二人で車から降りた。すると大楠は、どこかの商売人のような笑顔で言うのだった。
「これはこれは三井様、お待ちしておりました」
「うむ、早く案内しろ」
「……あのさぁ、そういう無駄なコント要らねえから」
二人が揃うとろくなことにならないと踏んで、別の意味で早くしろと施す。すると上機嫌な二人は、ようやく歩き出したのだった。
最初の物件は築二、三年の、俺からしたら綺麗過ぎる部屋だった。まず門構えが違う。オートロックだった。もう勘弁して、そこで既にそう思った。部屋に入ってもそれは続いた。
「三井様、いかがですか?」
「うーん」
三井様は、少し気に入らないようだった。各部屋を見て回り、きっとご注文されていた風呂も見に行っていたと思う。正直俺は三井様のご趣味は最初から気に入らないので、煙草吸いてえ、と壁に持たれながらそれしか考えていなかった。
「ダメだな」
「は?何が?」
「三井様、何がお気に召しませんでしたか?」
「だからそのコントもういいって」
俺が言っても二人は聞かないから、そこもどうでもよくなった。
「収納が少ねえ」
「は?」
ちょ、ちょ、収納なんて十分だろこれで。そう思ったけれど、吃驚とは正にこれで言葉が出て来ない。
「オレ荷物多いんだよね」
「いやいや、あんたどんだけ持って来る気?」
「とにかく次だ。大楠!」
「はっ!参りましょう!」
もう良いってまじで。
そして次。また門構えから以下略だ。しかも新築。もう帰りたい俺の家はあの築二十年くらいの安アパート。それがぐるぐると頭を巡っている。部屋に入るとまた変なコントは続いているし、三井様の目は輝いてきているし、あーあーあーという俺の声にならない嘆きは多分、今言った所で誰にも聞こえないと思う。部屋の開け閉め、収納の確認、それを何度も繰り返す三井様を俺は見る気にもならず、また壁に凭れて、煙草吸いてえ、と考える他なかった。
「ここだ!」
出た出た出た。出たよ俺様三井様。相談しろよ俺に。
「ちょっと、俺の意見も聞こうよ三井様」
「決めた、ここにする」
合わねえなあ、ほんと。大きく溜息を吐いた所で無意味だということは分かっていた。
「家賃知ってる?あのね、毎月払うの。折半とはいえ十二万だよ、あんた知らねえだろうけどそれ以外にもあんの色々。最初に払う金とかその後の生活費とか、ね?分かる?」
「金のことは心配すんな」
あ、この人バカなんだ、そう思った。そして、このバカはもう決めてる、と悟った。もう一度大きく溜息を吐いて、俺は諦めるしかないことを知った。
「大楠、契約書寄越せ」
「三井様ありがとうございます!」
「待った!持ち帰りで!一旦持ち帰ります!」
「うるせーぞ水戸!」
「うるせーぞ洋平!」
「黙ってろ、すぐ決めんなバカ」
大楠と三井様の舌打ちが聞こえたけれど無視して、一旦帰って後日連絡するということで話は纏まった。というより、無理矢理纏めた。その場は解散になり、三井さんはまた俺の車に乗る。車内でも食事中でも、あそこにする、だの、あそこしかない、だの、一種のサブリミナル効果のように一定の時間を置いてひたすらあの部屋の良さを説明した。もっとも説明というより、良かった良かった、という言葉の連呼で語彙不足以外の何者でもないのだけれど。
帰宅してから、俺はビールを飲んだ。落ち着く、やっぱり俺はこういう安上がりな場所で安上がりな缶ビールを飲むのが一番好きだ。三井さんは未だに、良かったよなぁ、と言っていた。
「あのさぁ、ちょっとは先のこと考えようよ」
「お前は考え過ぎ」
三井さんにも缶ビールを渡すと、彼もプルタブを開ける。
「とにかくあそこにするかんな」
人間、諦めが肝心。引っ越すって言い出したのは俺。腹を括れ。
「……分かった」
「分かりゃ良いんだよ、おっせーんだよ。お前はほんと肝心なとこで肝が小さいっつーか何つーか、変なとこでビビリなんだよな」
はは、と笑う彼を見遣りながら、腹立つなぁ合わねえなぁ、と心底思う。その言葉は飲み込んで、代わりにビールを飲み込んだ。でもどこかで、まあ良いやこの人がそれで良いなら、と間抜けなことを考えているのも確かだった。呆れたように笑いながら、冷えた液体が喉に染みるのを深く感じた。
そして三月某日、無事に引っ越し終了した部屋は、慣れるとは到底思えないモデルルームだった。しかも昨夜は風呂で逆上せるし、後でやり返したけれどあれは散々だった。気分は当分悪いしビールは飲めないし、もう絶対一緒に入らないと決めた。ベランダで煙草を吸っていると、窓が開いたのが分かる。振り返ると、ぼんやりした三井さんが立っている。おはよう、そう言うと、ぼそり呟くように、おはよ、と言った。
「何、どうしたの?早起きだね」
今日午前休みじゃなかったっけ?続けて言うと、彼は黙ったままでいた。寝てればいいのに、そう思ったけれど口には出さなかった。三月とはいえ、朝はまだ冷える。風も冷たくて、まだ冬の気配は消えない。
「お前、ちょっとは手加減しようよ」
「はは、ざまあみろ」
やり返すって決めてたし、そう言うと三井さんは、俺と同じようにベランダに肘を置いて凭れる。そこから見下ろすと、道路がよく見えた。車が走っているのが丸見えで、今日も仕事だと実感する。しばらくの間沈黙が続いて、俺はもう一本吸おうと煙草に火を点ける。咥えて煙を吐き出した所で三井さんが、おい、と低く声を出した。それで彼の方を見ると、妙に真面目な顔をしている。
「洋平」
「え、何急に」
名前を呼ばれてぎょっとして、煙草を落としそうになった。そして彼は、俺の右手首を掴む。その渇いた感触に、何故かどきりとした。
「オレは、お前の名前好きだよ。呼びやすいし普段は呼ばねえけど、だから感謝してる」
「……誰に?」
「お前の母ちゃん」
言葉が出ない。呼吸の仕方がよく分からなくなる。
「オレはもう、手ぇ離さねえからな」
「……はは。もうほんと、何なんだよ」
「笑ってんじゃねーよ!」
この人にはいつも負ける。何かの度に、毎度毎度そう思う。





その日の仕事の昼休み、誰にも邪魔をされたくなかったから、車に一度戻った。そして携帯を取り出し、あの人の名前を出した。通話ボタンを押し、声を待つ間に煙草に火を点ける。寝てるかも、そう思ったけれど、もう掛けてしまったものは仕方ない。すると寝ていなかったらしく、その声はすぐに聞こえた。
『どうしたの?珍しい』
母親に、自分から電話することはほぼない。だから声がいつものような色を秘めたそれではなかった。
「引っ越したから一応報告」
『そう』
「あともう一つ」
『何?』
「名前、洋平にしてくれてありがとう」
あの人は黙った。
「母さん、今まで冷たくしてごめん」
『……わたしもごめん!ほっといてごめん!』
「もういいよ。じゃあまた」
じゃあまた、そんな言葉を使ったことも、母さんと呼んだことも初めてだった。誰のお陰か、本人には絶対に言えない。
ありがと、今ここには居ないあの人に思い出して、ぼそりと呟いた。煙草の煙を吐き出しながら、掴まれた右手首を見る。





19へ続く

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