長編

□17
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「お久し振りです。忙しい時に急に連絡してすみません」
「いいのよ。どうぞ」
電話に出た水戸のばあちゃんは、名乗るとすぐに分かってくれた。元気?から始まり、少しの間世間話をした後で店に伺いたい旨を伝えると、多少驚かれはしたものの、拒否されることはなかった。店内は、木の香りと惣菜の香りが混ざっている。仕込みの最中だったのだろう。彼女は今日も着物を着て髪を纏めて、立ち振る舞いが全て流れるように綺麗だった。カウンターに座ると、木の香りが強く鼻を掠める。それからすぐに、お茶の香りに掻き消された。どうぞ、と目の前に置かれた湯呑みを眺めながら、趣味いいなぁ、と的外れなことを考える。
「三井さん、神奈川のサンダースのコーチなんですってね」
「ああ、はい。まだ副コーチですけど」
まだまだです、と続けると、ばあちゃんは柔く笑った。
「お話って?洋平のこと?」
その名前を出され、聞こうとしていることを頭に並べながら、不思議と緊張していない自分に逆に驚いていた。
「水戸に……、あ、いや、洋平?に聞きました。今までのこと、子供の頃からの、話を大体。あと、自分が父親似だってことと、一度も会ったことがないことも」
彼女は少しだけ目を開いた。驚いているのだと思う。
「そう。驚いたでしょ?」
「驚いたっていうか、まだよく分かりません。すみません」
「三井さん、ご家族は?」
「父と母と姉が居ます」
「洋平に同情したの?」
「同情……、とは少し違う気がします。人の人生に同情出来るほど長く生きてるわけじゃないし、ただ何であの時」
側に居たのがオレじゃなかったのかって。それは考えた。でもそうじゃない。そんな一時の、その瞬間の感情じゃあ駄目だ。
「あなたが水戸を引き取らなかったのは理由があるんですか?」
カウンターから彼女を見上げて言うと、特に表情の変化は伺えなかった。ある程度、分かっていたのかもしれない。
「……どういう意味?」
「人ん家の家庭の事情に首突っ込むのがどういうことなのかは分かってます。ただ、水戸から話を聞いても何かが引っ掛かって、それを解決しなきゃ多分ダメなんです」
「誰が駄目なの?」
「すみません、オレです」
ばつが悪くなり俯くと、軽く笑う声が聞こえる。何やってんだろう、今更自分の瞬発力には呆れてしまう。
「糸口が、あなたしか見付かりませんでした。すみません」
「三井さん、あなた本当に強い人ね」
そうだろうか。よく分からなかったからかぶりを振る。
「だからと言って、わたしはあなたを信用していいの?会ったのも二度目で、洋平の先輩ということしか知らない。でも花道達と違うことは分かる。あなたのただの自己満足に付き合う価値はあるのかしら」
「すみません。分かりません。ただ、決めたいんです」
「何を?」
「……覚悟を」
顔を上げ、彼女を見据えた。頭が小さくて小柄なその人は、とてもばあちゃんと呼ばれるような人とは思えなかった。そう、その人が祖母なのだ。水戸の祖母。そしてもっと若く見えるあの人が水戸の母親。きっとオレの姉と、さほど年齢は変わらないだろうあの人が。
目を逸らさないままで居ると、彼女は一度大きく息を吐いた。そしてオレに、何かつまみますか?と聞く。あ、はい、と何も考えずに口から飛び出たような答え方をすると、また彼女は薄く笑う。こういうちょっとした仕草が、酷く水戸と似通っている気がした。
彼女は小皿を取り出すと、そこに惣菜を入れて、オレの目の前に置いた。元から並べてある箸置きの上に箸が既に並べてあり、それを見遣りながら彼女は、どうぞ、と言った。いただきます、と言って箸を付けると、それは味がよく染みた美味い里芋の煮付けだった。思わず、うま、と声を出すと、また彼女は笑う。
「どこから話せばいいかな」
「お任せします」
「そうね……」





ありがとうございました、そう言って頭を下げて店から出た時には、外は既に暗かった。時刻はもう午後六時近くて、息を吐くと白い。昼間は太陽が当たって冬とはいえ多少暖かかったけれど、日が沈めば冷えるのは当然だった。暖かい店内とは寒暖の差が激しくて、自然と身震いする。
「三井さん、次は洋平と来てね。待ってるから」
「はい。今日はありがとうございました」
もう一度会釈して、歩き出した。振り返ると、彼女は未だに見送ってくれていた。立ち止まって会釈すると、彼女も頭を下げていた。顔を上げると手を挙げ、店の中に入ったのを見届けてから、オレは駅の方向に足を進めた。鎌倉駅に着くと、ちょうど電車が着いた所だった。それに乗るとちょうど空いていて、座り放題だった。あまり人が居ない場所を探して、腰を下ろす。柔らかくて弾力のあるクッションが、酷く心地良かった。どの駅で降りるのか、自分の中を模索するには、この電車の揺れはちょうどいい。
『娘の妊娠が分かったのは、高一の夏だった。相手は二つ上のあの子の先輩だったわ。わたしはすぐに堕ろしなさいと言ったけれど、何を言っても聞かなかった。その内相手の親も出て来てね、その親御さんはちょっと有名な会社の社長だったの。だから息子の不祥事はどうしても消したかったのね、だから大分積まれてね。え?何ってお金よ。三井さん、ほんとに可愛いのね。わたしはそれを受け取ったわ。娘の目の前で。そうしたら分かるでしょ?自分がどれだけ子供で、お金でしか解決出来ない対象だっていうことが。お金を受け取るってことは、子供を必ず堕ろすことと、二度と会わないことを約束するってこと。娘は愕然とした。もう会えないことと、わたしがお金を受け取ったことをね。もちろん責めた。わたしを。どうして?って。でもあの子は子供なの。ただでさえ子供を育てるって大変なのに、あの子は子供過ぎた。子供が子供を育てるのよ?考えられなかった。わたしも出産が早かったから、シングルマザーだし、娘には辛い思いはして欲しくなかったの。だから、堕ろして終わりになるならその方がよほど良いって。娘も納得して、一度は堕ろすって言ったわ。病院にも行った。でもね、お腹が大きくなるの。わたしびっくりして、どうして?って。堕ろしたんじゃないの?って。そしたらあの子、言ったのよ。この子が居たらあの人を繋ぎ止めておけるって。それに男の子だったって。あの人に似てるかもしれないって。嬉しそうに言ったわ。わたしぞっとしてね、母性も何もない本当に子供なのよ。何でこんな子になっちゃったんだろうって自分を責めたわ。子供を道具にするような子にしてしまったって。それからはもう、口も聞かなくなって目も合わせなくなった。娘は自分で働いてお金を稼いで、それで勝手に出産してたわ。それで産まれたのが洋平。わたしも可愛くてね、洋平が可愛くて仕方なくて、どうにかこの子には幸せになって欲しいって思ったの。親の道具になんかさせないって、そう思った。その内娘はしょっちゅう居なくなってね、まだ小さかった洋平が泣くのよ。お母さんは?お母さんは居ないの?お母さんが居ないのは僕を嫌いだから?邪魔だから?って泣いてね。わたし堪らなくなって抱き締めて、この子を守りたいってそれだけだった。その後の話は聞いたかもしれないわね。だから花道が居てくれて本当に救われたの。洋平だけじゃない。わたしも一緒よ。しばらくして洋平が中学に上がる時、急に出て行くって娘が言い出してね。店を出せるからって。わたしきっと、あの子は洋平ときちんと暮らすつもりでいるんだと思った。だからしばらくして、アパートに電話したの。そうしたら出たのは洋平で、あの人は居ないって言うのよ。もう店に行ったの?って聞いたら、ずっと居ないって。そう言った。もう慌てて飛んで行ったわ、やっぱり洋平を手放すんじゃなかったって。そしたらあの子傷だらけで、きっと喧嘩したのよ。でもね、大丈夫って笑うの。その顔が大人みたいで、何で中一になったばかりの子がこんな顔するんだろうって。わたしすぐに電話したわ、娘に。どうして洋平を放っておくの?って。何でこんなに酷いことが出来るの?って。あの子ね、言うのよ。最初に酷いことしたのはあんたでしょ?洋平を一回殺してる。そう言ったわ。何のことか分からなくてね、聞いたのよ。そうしたら、堕ろせ堕ろせってそれしか言わなかった人殺しが今更良い人ぶらないでって。わたしもう、自分が許せなかった。だから引き取るなんてとても出来なくて、その代わり洋平に生きる術を教えたの。今思えば、それも自己満足でしかないんだけどね。……三井さん?大丈夫?あなたが決める覚悟が何かは知らないけど、生半可な同情やさっきの話で情に絆されただけなら手を引きなさい。自分のことは自分しか分からないの。決めるのはあなたよ』
電車の座席に凭れ、窓の外を眺めながら、あの人が喋っていた言葉を反芻した。何度咀嚼して飲み込んでも、答えは出なかった。ただ、納得はした。そして、水戸に会いたいと思った。単純に今優しくしたいだけ、そう言われたらその通りでしかない。偽善だ、と言われたらごもっともです、と返すだろう。それこそ、一旦手放したくせに良い人ぶらないで、と言われたらその通りです、と頭を下げる。でも会いたい。水戸の側に居たい。大体側に居たいって何?一緒に生活するとか暮らすとか?いやいやあいつしょっちゅうオレと合わないってぬかしてやがるのに了承する訳ない。
最寄駅で電車を降り、また歩いた。息を吐く度に空気が白く揺れる。硬質で冷たいそれなのに、揺れる白は酷く緩慢だった。歩いていると、公園が見える。何気なくそこに入り、誰も座っていないブランコに乗った。オレは多分、母親と公園に来たことがある。ブランコにも乗ったのだろう。帰宅する時は手を繋いで、きっとゆっくり歩いた。鮮明な記憶はないけれど、朧気には脳内の奥の方にあった。ブランコを揺らすと、鉄の軋む音がした。地面からは、土とスニーカーの擦れる音がする。
納得はしていた。出来た。全部繋がって、後はオレが決断するだけだった。
『てめえのことはてめえで決めな』
うるせえな、決めるよ。
溜息を吐いた。深く、深く。すると道から声が聞こえた。子供の声と、母親と思われる人の声だった。詳しい会話は聞こえない。ただ、子供独特の高い声と、優しく相槌を打つ大人の声が、酷く自然に思えた。目を凝らすと手を繋いでいる。そうだ、これが普通で自然で、あるべき親子の姿だ。水戸は違う。あいつは違う。でも。
『俺もガキだからさ、最初は信じるんだよね。いつ帰って来んのかな今日かな明日かなって』
違わねえよ、違わねえだろ、一緒なのにそこになかっただけだ。大学入学の前、オレは部屋で何を思った?守らなきゃって。こいつの手を離しちゃいけないって。それが偽善であろうが何だろうが、握ってなきゃいけないんだよ。いつ帰ってくるのか今日か明日か。オレは今ここに居る。
あの話を聞いて纏めて、頭の中は色んな感情が渦巻いて、正直何が何だか分からない。ただ痛かった。痛くて痛くて堪らなかった。だから会いたかった。それほど自分が過ごしてきた生活とは、場所とは、心の在り方も全部、全てが違ったからだ。子供になれなかった大人が水戸で、大人になれない子供も水戸だった。それを引き受けるなんて傲慢だと、今ようやく気付いた。オレが出来ることは、繋いだ手を離さない。それだけ。
『これから一緒にいる気なら覚悟決めろ。あんたは誰とも結婚しない。俺と居るって決めろ。でもそれが出来ないなら、もう二度と会わないし連絡もしない』
覚悟を決めろ。決めるのは、痛いのを承知で踏み出す覚悟だ。
ブランコから立ち上がり、鉄の軋む音を背後に聞きながら、公園を立ち去った。
その後スーパーへ行き、買い物をした。きっと水戸は帰っていないだろうからだ。連絡が出来ないくらい忙しいのだと思う。鍋が出来るような材料を買い揃え、水戸のアパートへと向かった。自然と寒さは感じなくなっていて、歩いたのが功を奏したのか逆に暖かかった。アパートに着いたけれど勿論水戸の車は停まっていなくて、そのまま鉄階段を上る。かんかんと、少しだけ高い音がした。二階の角部屋まで歩き、貰った合鍵で玄関を開ける。室内は当たり前に真っ暗で冷えていて、思わず、さむ、と声が出た。灯のスイッチを入れ、スニーカーを脱いで部屋に上がる。リビング兼寝室の小さな部屋の灯も点け、エアコンを入れた。水戸の部屋は相変わらず殺風景だった。物が少なくて、物寂しさもありながら片付いているから、水戸はこんなもんだと理解出来た。キッチンに戻り、鍋の準備をする。その前にビール。冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。プルタブを開け呷ると、酷く喉が渇いていたのだと今更のように知る。
簡易ガスコンロを出して炬燵テーブルに置き、土鍋を置いた。そこにとりあえず市販の鍋つゆを入れておく。キッチンで野菜を切ってざるに入れておき、それを持ってまた炬燵テーブルに置いておく。ビールを持って炬燵に座り、テレビを点けて待っていた。今日の話をオレから水戸にすることはない。それは店に行く前から決めていた。
しばらくの間ぼんやりしていると、水戸が帰って来た。
「三井さん来てんの?」
「おー、おかえり」
現れた水戸は、連日の仕事の疲労が溜まっていたのか、顔に少しだけ疲れがあった。終いには、あんたとやり直して初めて良かったと思ってるかも、と来たもんだ。言ってろバカ。そして少しして、奴はこう言ったのだった。
「もう、一緒に暮らすか」
「は?」
ぽかんとした。それはそれは、多分大きく口を開けた。このタイミングで何てことを言い出すのかと思ったけれど、このタイミングだからだ、と一層決断する。今だ、そう思った。オレは笑った。大きく笑った。ずっと一緒に居たかった。水戸が居ればそれで良かった。それしかないけどそれしかないからこそ。
「奇遇だな」
「何が?」
「オレもそうしたいと思ってた」
「そりゃ良かった」
合わされた缶ビールの音を聞きながら、今水戸の手を握りたいと、切に思う。





18へ続く。
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