長編

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以前水戸の口から父親の話が出たことがあった。話という話でもなくて、ただ自分は父親似だと聞いたことがあると、その程度の小さな話だった。けれど小さなそれは、オレの体を酷く突いた。細かい針が何本も順番に突き刺さるのだ。聞かないのか聞けないだろ聞いてみろよ無理無理。何とも言い難い逡巡がぐるぐると巡っている。水戸の家族の話は今でも、再会する前も後も、地雷であることに変わりはない気がした。オレが踏み込むことじゃない。それは理解していた。でもそれと同じ場所で、全部曝け出して欲しいとも思った。何故なら、水戸とオレでは、差別でも何でもなく育った環境が違い過ぎるからだ。それを少しでも埋められたら、と。この考え方は傲慢だろうか。
今の水戸とオレの関係は、平たく言えば非常に良好だった。学生時代とは比べ物にならないほど。再会してもう一年以上経つ。会う時間はさほど多くはなかった。むしろ少なかった。だから喧嘩もした。それでも、あの頃のような袋小路を無理矢理進んで歩く感覚は全くなく、酷く穏やかだった。壊れている物を繋ぎ止めている気配も互いにないと思う。
今日は久々に水戸のアパートに来ていた。オレは遠征先から帰って来たばかりで、そのままアパートに寄ったのだ。すると奴は、なんと飯を用意して待っていた。確かに、今日の夕方帰ると連絡はしていた。でも行くとは一言も言っていなかった。もっとも、遠征から帰ると大概自宅には帰らず水戸のアパートに泊まることがほぼだからかもしれないけれど。それで今オレは、水戸が作ったモツ鍋をつついている。水戸はといえば、オレが買ってきた土産の地酒を飲みながら、同じようにモツ鍋を食べている。多分今の水戸なら、「オレのこと好きだろ」と聞けば簡単に「好きだよ」と言うと思う。
「おい」
「ん?」
「お前、オレのこと好きだろ」
「は?くだんね……」
前言撤回だよバカ!何が簡単にだこの野郎。
「てんめー!ちょっとは久々に会った幸せに浸れや!」
「あのね、こっちはあんたが遠征から帰って来るの見計らってメシの準備してんの。それで察してくださいって話」
「ああはいはいそういうことね」
「何がはいはいだよ」
偉そうに、とぼやく水戸を軽く睨み、ビールに口を付ける。明日月曜日の午前中は休みだった。シーズン中は大体土日が遠征で、前乗りもあれば会場の練習日程の関係で週の半ばから各地に行く場合もある。それで日曜日の夕方か夜に、神奈川に帰るのが常だ。だから日曜日休みの水戸に会うことも都合が良かった。かといって、毎週必ず会える訳でもないけれど。
「つーかさ、そんなことが言いたいんじゃねえよな?」
「え?」
「お喋りのあんたがバスケの話もしないで黙って鍋つついてるなんて有り得ねえよ」
バレてる。そう思った。単純にばつが悪くなり、頭を掻いた。水戸から目を逸らして、フローリングの木目を眺める。そうして誤魔化した所で、ここまで来たら腹を括れと頭の中で騒いでいるのも自分自身だった。水戸は多分、無理矢理聞き出そうとしない。オレがここで、疲れただけだと見え透いた嘘を吐いても奴は、そう、と薄く笑うだけだろう。でも、オレの性格上、そうはいかない。
「水戸」
「はい」
「お前、自分のことは聞かれたら喋るんだよな?」
「そうだね」
深く呼吸をするように、ゆっくりと鼻で息を吸い込んで、吐いた。
「あの、さぁ」
「うん」
「市営アパート、引き払ったの?」
「やっぱりその話か。引き払ってはないよ。元々あの人が契約してるし、俺が出て行っただけ」
時々帰ってんじゃねえの?知らないけど。水戸は他人事のような口調で言って、日本酒に口を付けた。それからガスコンロの上にある土鍋から、煮えた具を箸で取った。
「昔の話って聞いていい?」
真っ直ぐ水戸を見据えて言うと、顔を上げた水戸は、何度か瞬きする。目に怒りは見えなかった。どちらかというと吃驚というような、そういった表情に見える。
「聞いたって面白くも何ともねえよ」
「面白いかどうかはオレが決めんだよ」
「何で聞きたいって思ったの?」
何でか、そこで少しだけ考えた。知りたいと思ったから。でもそれだけじゃない。今は本当の答えはまだ浮かばないし、探ろうにも何かが足りなかった。だからと言って、もう引けない。ただ一つだけは分かっていた。
「もう、地雷だ何だって躊躇したくねーんだよ、オレが」
「……なるほどね」
今度は水戸が、深く息を吐いた。ごめん、そう言うと、煙草を一本取り出し口に咥える。
「どっから話せばいいの?」
「えーっと、思い出せる所から」
そうだなぁ、水戸はそう言って、煙草の煙を吐き出しながら天井を仰ぎ見る。オレを見ようとはしなかったから、話すんだな、とただ思った。
「何歳とかは覚えてねえけど、とにかくあの人は家に居なくて、すぐ帰って来るって言いながらずっと居なかった」
オレは相槌も打たず、ただ黙って水戸の目を見ていた。けれど本人は、オレを見ていない。ただ天井の辺りを所在無く見ている。
「俺もガキだからさ、最初は信じるんだよね。いつ帰って来んのかな今日かな明日かなって。でもまあ当たり前に帰って来ねえし、それが段々普通になってくんの。その内信じるのもバカらしくなってばあちゃんと過ごすんだけど、その頃はもう捻くれたガキになってるからばあちゃんとも口聞かなくて」
水戸は俯いて薄く笑う。それから灰皿に煙草の火を押し付けた。
「それでもばあちゃんは朝晩ちゃんと飯作ってくれてさ、俺が悪さしたら学校だろうが警察だろうがどこでもすっ飛んで来て。ばあちゃんも店があんのにいつでも駆け付けて来てくれた。でも俺はその時、ごめんもありがとうも言わなくて、とにかく何も喋んなかった。それで小四の時、花道と連むようになってから少しづつ普通に話すようになったんだよね。あいつがさ、ばあちゃんに優しくしろってうるせえんだよ、ずっと。で、中学に上がったと同時にあそこに引っ越したの」
そこでオレは気付いた。引っ越す必要があるのか?と。
「ちょ、ちょっといいっすか?」
「はい、三井先輩」
何が三井先輩だよ、というのはとりあえず言わず、先に進める。
「引っ越す必要あんの?母ちゃん居ねえならばあちゃん家でいいだろ」
「そう思うだろ?でもあの人勝手に決めててさ。まあ、ばあちゃんと顔合わせるのも嫌だったんだろうね。二人が話してるとこ見たことねえもん」
「え、何で?」
「そこまでは知らねえよ。女同士のいざこざに興味ねえし」
「そんなもん?」
「そんなもんだよ」
思わず、はあ、と息を吐くと、続けていい?と水戸が聞いた。頷くとまた話し出す。聞けばちゃんと話してくれるんだな、と思った。内容はさて置き。少しづつ水戸のことを知れている気がした。
「引っ越したからって生活は変わんなくてね、あの人すぐに居なくなるし、生活費はねえから自分で稼がなきゃなんねえし、歳ごまかして色んなバイトしたよ」
「ちょ、ちょっと待った!」
「はい、三井先輩」
「生活費がないって何?」
オレはぎょっとして、きっと早口になったと思う。
「あー……、だからあの人が払ってたのは学費と家賃と光熱費で、食費なんかはないってこと。だから稼がなきゃ食えねえってこと。分かった?」
思考が停止した。言葉が出て来なくて、口を半開きにしたまま声を探した。
「そんな悲観する話でもなくて、ばあちゃんはしょっちゅう来たし、花道達も結構入り浸ってて、それはそれで楽しかったよ」
どこかで聞いた台詞だった。ああそうだ。初めてあの、海の見えるアパートに泊まった日だった。あそこで水戸は居ない母親の帰宅を待ちながら、それを期待することもその内やめて、何を思いながら生きて来たんだろう。中学生という幼さを持ったまま歳を誤魔化してまでして働いて、こいつはいつ子供時代を過ごしたのだろう。単純にそう思った。
そしてオレは何も知らないまま、再会した日に、あそこ結構好きだった、と言った。何も知らないから。
「そんな感じで現在に至ります。な?面白くも何ともねえだろ?」
「確かに、楽しい話じゃなかった」
「あんたのそういう風に言えるとこ好きだよ」
「そこ褒められてもね」
呆れたように言うと、水戸は少しだけ俯いて、はは、と笑った。そして、何事もなかったかのように、また日本酒に口を付ける。そしてオレは気付いたのだった。水戸があの母親のことを一度も、「母さん」という類の言葉を使わず、他人のように「あの人」と言っていたのを。もしくは「母親」。一度だけオレが出くわした時は確か、名前を呼んでいたように思う。
でも何かが足りなかった。納得はしていなかった。
「昔っからそうだよね」
「何が?」
「思った通りの顔する」
「うるせーんだよ!」
今目の前で笑っている水戸は偽物じゃない。これが目の前にあればそれでいいんじゃないの?そう思った。一瞬だけ。でもそれは、すぐに消える。
そうじゃない。そうじゃないんだ。覚悟を決めるっていうのは、そういう意味じゃない。
あれから二週間弱、水戸と会う機会はなかった。あっちも仕事が詰まっているらしく、連絡もない。オレも先週は長崎に遠征で、日曜すら空かなかった。今日は木曜で、たまたま休みになった。土日はホームで試合だから、遠征もない。今は自宅の自室にこもり、パソコンを開いて練習メニューの確認をしていた所だった。昼食は自宅で食べた。母親が作った焼きそばだった。「寿、何で居るの?」と面倒そうに言われたものの、食事は作ってくれるのだった。二人で向かい合って食事をするとろくなことがない。最初はテレビを見ているだけだった。それから段々と、母親の独壇場となり、「誰かいい人居ないの?」と聞かれるのだった。必ずオレは、「居ねえよ」と返す。何度も繰り返されるそれは、オレからしたら聞かれ過ぎてやり取りすら嫌になるほど面倒な流れだった。でも多分、それが普通なのだと思った。
例の話を聞いてからずっと、あれが頭の片隅に残っていた。あの時の水戸の、別段変わりない表情、目、口調、あれらが纏まって塊になって消えない。いつもと変わらない、ただの世間話をしているだけのような、普通の仕草。納得はいかなかった。生きて来たその様ではなく、なぜ水戸を一人にしていたのか。これだった。あの母親じゃない。あの人だ。ばあちゃん。綺麗で礼儀正しく見えたあの人がなぜ、水戸を一人にしたのだろうか。一人きりだと分かっていたなら彼女は、水戸を連れて帰る気がしたのだ。
何で?しなかったのは何でだ?しないんじゃなくて、出来なかった?その理由があったのか?
頭を掻き毟るように掻いても唸っても答えは出ない。もう知らねえ、そう思った時にはインターネットで鎌倉の小料理屋を検索する。するとあっという間に、随分前に見た店構えの写真が出て来た。「ゆきの」そう書いてある。確かこの名前だった。そこをクリックすると、やはり見たことのある内装の写真が記載されている。電話番号も書いてあった。パソコンの横に置いてある携帯を手に取り、番号を一文字ずつ入れていく。今は午後三時。これでもし、電話を掛けて出られなければ諦める。でももし、電話口に水戸のばあちゃんが出たら。今はここにしか、糸口が見付けられない。
通話ボタンを押し、耳に携帯を当てる。三コールほど鳴った後、透き通るような声が、携帯の向こう側から聞こえた。





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