長編

□16
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職場の外の空き地に置いてある灰皿の辺りは、日陰だった。夏の暑さを示すような蝉の鳴き声は消えないけれど、じりじり照らす太陽から逃げているせいか、暑さは幾らかましだった。それでも、ましという程度だ。昼休みにやっさんと俺は、ここで煙草を吸うのが日課だ。時間も合う。そこでやっさんと話すことは好きだった。彼と居ると俺は、優しくなれる気がした。
子供が夏風邪でさ、やっさんはそう言った。そして、子供だから多少熱があっても元気なんだけど、と続けて、苦笑にも見える笑い方をする。彼は笑うと、目に笑い皺が出来る。その皺が、俺は好きだった。大丈夫ですか?そう聞くと、うん、と言って煙草に口を付けた。やっさんとは色んな話をする。遠くからなのか近くからなのか覚束ない蝉の大合唱が、耳の奥に残った。延々と飽きもせず、脳の中に染み込む声が。また鳴いてる。ずっと鳴いてる。毎日そう思う。
消えない座敷童子のことは諦めた。時々現れる幽霊だと思えば納得した。
「子供さんって、もも好きっすか?」
「好き好き」
「昨日祖母から貰ったんすけど、俺あんま食わねえから明日持って来ますよ」
あの座敷童子は甘い物はそこそこ好きだ。だけれど俺はあまり食わない。ばあちゃんは未だに、俺にその時々の旬の物を食わせようとする。旬の物を食べなさい嫌いなら一つだけでも食べなさい、と。それ以外は大切な人に食べさせてあげなさい、とよく言ったのだった。
「洋平……、お前うちのガキにまで気ぃ使ってたら早死にするぞ」
「はは、やっさんにはいつも世話になってるからお返しだと思ってください」
ほんとに俺食わねえから、最後そう付け加えると、彼はまた目尻に皺をたくさん作って、ありがとな、と言った。その時不意に、あの人が幸せだったら良いと思った。
また夏が来た。一日中蒸して暑くて蝉が鳴いて、延々と朝からうるさく鳴き続ける夏が来た。あの人が鳴いてる、空を仰いで目を閉じて、蝉の声を聞いていた。





三井さんを送って自宅アパートに着くと、連中はかなり出来上がっていた。おせーよ!と言われ、素直に謝った。車から去ったあの人を見て、名残惜しい、とは一瞬思ったけれど、今まで五年近く会わなかったことを考えれば、然程離れ難くもなくなった。明日は早めに仕事を終わらせようと考えながら、手を洗ってから冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。テーブルには既に食いかけの鍋が煮えていて、まだ食えるな、と単純に思う。
大楠がやけに俺を見ていた。他の三人も大楠を見ていた。
「何だよ、どうした?」
妙な空気だったけれど普通に定位置に座り、取り皿に鍋の具を入れた。
「洋平、あのさぁ」
「うん」
「あのー……」
口籠っている大楠の脇や肩の辺りに、連中の肘やら拳やらが飛んだ。いてーよ!と多少声を荒げた後で、彼は一つ咳払いをする。言いたいことは何となく分かった。
「ミッチー?連れてくりゃ良かった?」
「あー、いや、うん、また」
「そうだな、また」
「よっしゃ、乾杯すっか」
おい洋平ビール、と大楠は続けたので、座ったばっかだけどなぁ、と思いながらも立ち上がってまた冷蔵庫を開けた。開けてずらりと並ぶアルコール類を見ながら、あいつらどんだけ飲むつもりなんだろうと呆れる。思えば、奴らにはくだらない心配を目一杯掛けていた。小さい頃から今までずっと。
「ごめん」
「何ー?」
「いや、何でも」
缶ビールを四本持ち、また部屋に戻った。テーブルに置くと、次々と各自の手に渡る。ずれながらもプルタブの開く音と、炭酸の小気味良い音が重なった。花道おかえり、と言って缶を合わせると、彼は、ただいま、と言って歯を見せて笑う。
「住む場所決まった?」
「いや、まだ」
「じゃあどうすんだよ」
「おばちゃん再婚したしなぁ」
学生時代花道の面倒を見ていた彼の叔母は、去年再婚した。花道がアメリカに行っている間にも、何度か二人で行っていたらしい。叔母さんの再婚相手の男性は、看護師をしている彼女と同じ病院で働くリハビリ担当の男性だと花道は言っていた。おばちゃんを心底愛してるから嬉しい、そう付け加えた。俺は直接会ったことはないけれど、彼は花道がバスケをする姿を見ては必ず「は、花道くん凄いね!」と本気で驚いていたそうだった。以前そんな話をしたことがあった。
きっと花道が叔母さんの家に帰ったとしても、二人は歓迎するだろう。叔母さんもその男性もきっと、また一緒に住めることを喜ぶに違いない。でも多分、花道は彼と彼女に気遣うだろう。
「住むとこ決まるまでうち住めよ」
「いいのか?」
「いいよ、全然」
あ、鍵。そう言って立ち上がり、カラーボックスから合鍵を一本、花道に渡した。彼は、さんきゅ、と言って笑った。すると横から大楠が、オレに任せとけ、と不動産屋の顔を見せる。
「雄二は手は遅えけど仕事は早いからな」
「一言余計なんだよてめえは!」
彼らのやり取りと変わらない姿に安堵しながら、結局全員深夜まで飲んだのだった。
その翌週、あっという間に花道は引っ越した。荷物も少なく、家電も新しく購入したからか、簡単に引っ越しは終わった。俺はというと、仕事も立て込んでいたこともあって、三井さんには二週間弱会わなかった。連絡はしていた。あっちから連絡が来たり、俺はそれに受けたりと、それなりに連絡は取っていた。それがしばらく続き、職場の事務所に残っていた時だった。携帯が鳴り、着信の相手を見た。はい、と言って出ると、相手は不機嫌そうに、オレ、と言う。
「どうした?」
『何が?』
「すっげえ不機嫌そう」
笑って言うと、少しの間黙る。何?と聞いてもなかなか返って来ない。
『今、来てんだけど』
「どこに?」
『お前の職場。駐車場の車のとこ』
「は?」
『だから車んとこだよ!二回も言わせんな!』
ちょっと待って、そう言って携帯を切った。それからパソコンの電源を落として事務所のエアコンを切ってから、ドアの鍵を閉める。着替えも終わっていたからそのまま駐車場に向かった。外は未だに蒸していて、暗闇には酷く不釣り合いだった。蝉はさすがに鳴き止んでいる。一台しか停まっていない車のルーフの上から、三井さんの頭が飛び出ていた。
あれは座敷童子でも蝉でもなく、本物だ。三井さん、と呼ぶと振り返り、暗がりで顔はよく見えないけれど手を挙げて、よう、と低く言う。近付いたらよく見えたその顔は、妙にばつが悪そうだった。
「いつから居たの?」
「さっき」
「何か食いに行く?」
「……いいけど」
車を開けて助手席に乗るように施すと、彼は素直に乗った。隣を見遣ると、シートベルトを付け始めている。エンジンを掛け、サイドブレーキを下ろした。車を走らせてから、何食う?と聞いてみるも、何でもいい、とこれまた不機嫌そうな答えが返ってくる。どこにするか、と思案しながら、時々三井さんの横顔を見た。それはやはりどこか苛ついているように見え、何かあったかそれとも俺が何かしたか、一応考えたけれど全く検討がつかなかったので、考えることを止めた。
結局近くの定食屋で早々に飯を済ませた。店から外に出た時に、うち来る?と聞くと、三井さんは一瞬だけぎょっとしたような表情を見せ、それから俺を睨み付けると一言、行く、と言った。そういえば、引っ越してからあのアパートに三井さんが来るのは始めてだった。花道が先週出て行ったことは既に伝えてあって、その後はなかなか都合が合わなかった。あ、と思った。もしかして不機嫌の理由ってそれ?と、単純に考えた。彼が連絡をして来た時には大概仕事の最中で、立て込んでいたせいか誘う余裕もなかった。生温い風が背に当たった。朝聞いた蝉の鳴き声が急に蘇った。夏なんだよな、と当たり前のことを考えながら、湿った首に触れる。互いに何も言わず車に乗り、走り出した。車内では時々会話があった。何駅の近く?だとか、こっから何分くらい?だとか、他愛ないそれを繰り返した。
アパートに着いて駐車場に停め、車を降りた。助手席に居たその人も、何も言わず同じように車から降りる。歩き出すと、足音が二つになったので、着いて来ているようだと知った。二階の角部屋まで行き、ここ、と言ってから鍵を開ける。古びたドアが軋んだ音を立て、開いた。脇にあるスイッチを押すと、部屋が明るくなる。室内は驚くほど蒸していた。
「何か飲む?」
「いや」
暑いから何か飲むかと思ったけれど、それは簡単に断られた。もう分かっている。彼の熱を孕む気配を嫌という程感じた。
「狭いんだな」
「一人暮らしなんてこんなもんだろ」
「なかったことにするかと思った」
「は?」
エアコンのリモコンを押してそれを置いたと同時に、理解出来ない言葉を言われた気がして、振り返る。それと同時に強く腕を掴まれ、三井さんは俺を引き寄せた。唇を押し付け、すぐに舌が捩じ込まれる。主導権を握られるのは嫌いじゃないけれど、こうされると鳴かせたくなる。不意に、日中鳴き続ける蝉の鳴き声を思い出した。
唇が少しだけ離れる。まだ、そう言って今度は俺から口付けた。彼の髪の毛を掴み、柔らかいそこを指で触れた。ベッドにそのまま倒すと、三井さんの腕が首に巻き付いた。首筋を舐めるとしょっぱくて、それが無性に性欲を煽って理性を簡単に吹き飛ばす。Tシャツを捲り、至る所を噛んで舐めた。捲るだけでいるのが焦れたのか、三井さんは自分からTシャツを脱いだ。そして俺のTシャツも脱がせ、また引き寄せる。そんなに焦らなくても幾らでもしてやる、そう思いながらベルトを外してジッパーを下ろした。下着に手を入れると既に濡れていた。こんなにも快感に従順な人を俺はこの人以外知らない。息を吐くように笑うと、彼は俺の手首を掴んで導いた。早く、と小さく言ったから、また笑った。もう濡れたそこを躊躇なく扱くと、思った以上に声を上げて驚いた。
「ちょ、ストップ」
空いた手で三井さんの口を塞ぐと、彼は瞬きを何度かした。
「あんた声でかい。ここ壁薄いんだよ」
そう言うと火が付くように真っ赤になった。ああもうどうでもいいや、この人の表情を見て、そう思った。もう口を塞ぐことも他所を気にすることも面倒だ。好きにしてやる、そう思った。時々唇に噛り付いたのは塞ぎたかったからじゃない、好きだからだ。肌を噛むのも舐めるのも、その匂いが好きだからだ。食べたらどんな味がするんだろうと噛むけれど、何の変哲のない、人の味だった。乾いた肌の味だった。それが好きで味わいたくて、何度も食べようとした。でもなくなると勿体無いから、そのまま形を残しておく。噛む度に、三井さんは声を上げた。鳴いた。蝉よりもっとうるさかった。腕を思い切り掴まれ、いて、と言うと満足そうにまた掴んだ。彼も噛み付いてきたから、この人も俺を食べたいのだろうかと単純に考えた。
その時々の旬の物を食べなさい、ばあちゃんの言葉を思い出した。この人は夏がよく似合う。今食べてる、幾ら食べても足りない。何度噛んで舐めて吸ってもまるで満たされる気配がないから、俺は意外にも貪欲なのだと初めて知った。





「もも食う?」
終わると喉が渇いて、ビールを飲もうと冷蔵庫を開けた。そこに一つだけももが残っていて、三井さんは好きそうだと声を掛けた。
「何でもも?」
「ばあちゃんに貰ったんだよ。旬のもん食えって」
「へえ、お前もう食った?」
「うん。残りは職場の先輩にあげたんだけど一個残してたんだよね」
あの時あんたは居なかったのに。呟くように言うと、何?と聞かれる。何で残しておいたのか、自分でもよく分からない。
「好きなら剥こうか?」
「好き。食う」
ももを取り出して冷蔵庫を閉めた。立ち上がり、そこから一度ベッドを覗き込むと、三井さんも顔を出している。
「時々突拍子もないこと言うよな、あんたって。びっくりする」
「何か言ったっけ」
「好きだから安心しなよ」
そう言うと三井さんはまたぎょっとした顔をして、目を逸らして視界から消えた。きっとあの人が連絡を寄越して来た時は、会いたいという合図だったんだろう。それに今更気付いて、まさかそこから「なかったことにするかと思った」に繋がるとは思ってもいなかった。
台所でももを剥いて、切って皿に入れた。指に付いた果汁を舐めると、顔を顰めたくなるほど甘い。これのどこが美味いのか、俺にはよく分からない。ビール飲みてえ、心底そう思う。ももを入れた皿を持ちながら冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。ほぼ続きになっている部屋は、仕切りがない。テーブルまですぐだった。そこに皿とビールを置き、煙草に火を点ける。食いなよ、と言うと、ベッドからのそのそと起き上がり、ももに手を付けた。俺は咥え煙草のまま缶ビールのプルタブを開け、煙草を外してビールに口を付ける。何口か飲み込んで喉を潤し、もう一度立ち上がって、小さなカラーボックスからこの間花道に返して貰った鍵を取り出した。
「これあげる」
手渡された鍵を見て、三井さんは俺を凝視した。それからまた鍵を見る。何度か俺と鍵を交互に見て、小さな鍵を握り締めた。
「旬の食べ物と鍵は大切な人に渡すんだそうです」
鍵は勝手に俺が付け加えたけど。
「……桜木の後ってのが気に入らねえ」
「そこは勘弁してよ」
苦笑すると、三井さんも歯を見せて笑った。





17へ続く

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