長編

□15
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今日は懐かしい来客がありますよ。へえ、誰ですか?
にっこり笑うだけで、安西先生は何も言わなかった。
オレはこの春から、湘北高校の外部指導員を引き受けることになった。たまたま湘北にバスケ部を見に行った時に安西先生と話していた流れで、引き受けることになった。彼は勿論、オレの仕事のことも考慮してオフの期間や手の空いた時間で構わないと言った。けれど、やると決めたらそれなりに時間を割かなければ気が済まなかったから、出来る限り指導に来た。安西先生も高齢だ。当然だった。あれからもう、十年近く経っている。いや、七年。湘北高校を卒業してからもう、七年も経った。そしてまた、夏が来た。
このコートに立つことは、酷く郷愁を誘った。以前は生徒だったオレが指導する立場に立って、立場は逆であろうとも立つ場所は同じだった。今日は日曜日だけれど、たまたまチームの練習は休みだった。オフシーズンの間、平日に練習量を詰め込んだ週は、リフレッシュを兼ねて日曜日は休暇にすることが多かった。正直体は疲れていた。休むことも考えた。でも休んでいるとろくなことを考えないから、バスケに関わって発散した方が幾らもよかった。まだコートには誰も居ない。安西先生は教官室に居る。バスケ部の練習は午後一時からだった。ボールを突きながら、体育館に反響する音をただ聞いていた。少しの間、焦点が合わなくなる。意識が飛ぶように、がむしゃらに突っ走っていた高校時代を思い出した。インターハイが終わり、毎日毎日居残り練習をしていたあの日々。
ドリブルをして走ると、体育館には一層音が響いた。スリーポイントラインで止まり、膝に力を入れて跳んだ。手首を返してボールから手を離すと、それはあっさりとネットに吸い込まれる。あの頃は、プロバスケに行きたいと考えていたことはあれど、コーチの方向に向かうなんて片隅にもなかった。それなのに今は、現役で続ける未練は全くと言っていいほどない。変な話だ。
体育館の入り口は開いていて、外からは蝉の声が聞こえていた。延々と朝から続くそれは、疲れることもなく大合唱している。蒸している体育館に蝉の声、毎年これは変わらない。あの時と一緒だ。
「あれ?」
入り口から声がして、そっちを見た。その姿に口を大きく開ける。そいつがアメリカのチームでバスケをしていたことは、今は会っていないあいつからは聞いていた。
「お前何で?!」
「ミッチー、サンダースのコーチが何やってんだよ」
でかい図体の赤頭が口を大きく開けて笑っていた。その後ろには三人、例の連中がぞろぞろと着いて来ていた。心臓が跳ねたのが分かった。もしかして水戸も?そう思ったのも束の間、靴を脱いで体育館に上がって来たのは、桜木と三人だけだった。
さっきの問いにオレは、時々来てコーチをしていることを言うと、彼らは納得したようだった。
「ようようミッチー、サンダースって何よ」
「神奈川のプロバスケチームの名前」
オレが言う前に、連中には桜木が返した。
「え、じゃあ花道のチーム?」
「いや、オレは違うチーム」
そこでオレは、あ、と声を出す。
「お前何でうちと契約しねーんだよ」
「一緒じゃ面白くねーだろ?」
まあ確かに、と納得した後でまた、あ、と言う。
「いつこっちに?」
「さっき。まずはオヤジに顔見せに来てやろうかなって」
「……懐かしい来客ってお前か」
「オヤジは?」
「教官室」
そう言うと桜木は、悪戯小僧のような笑みを浮かべ、歩き出した。変わんねえな、と久々に会った昔のチームメイトの後ろ姿を追う。こいつらを見ると嫌でも思い出してしまう奴の姿はここにはなくて、会いたかったという以前に、桜木の帰国に合流していないことを不思議に思った。
「あの、さぁ」
振り返ったのは大楠だった。他の奴は足を止めず、雑談している。
「洋平なら仕事だよ」
考えていたことをズバリと当てられ、ばつが悪くなる。思わず目を逸らして、小さく舌打ちした。
「聞いてねーよ」
「じゃあ何?」
大楠は笑った。
「えー、あー、あれだ。パチンコの必勝法教えろ」
「興味あったっけ?」
「……まあ、それなりに」
思いっ切り嘘だけど。それは多分見透かされていて、大楠は、また今度ね、と笑って言うと手を挙げて桜木達を追い掛けた。
あいつらの姿が消えた後、オレは息を吐いた。そしてまたボールを突いた。いい加減忘れろよ。そう思った。あれからもう五年。ぐずぐずと考え続けているのはきっとオレだけだ。あいつはとっくに忘れてる。むしろ忘れていない方がおかしい。そうだ、無性に今思い出すのは夏だから、この体育館にいるから、同じ場所で同じコートで、オレが未だにボールを持っているからだ。
『あんたのフォーム、綺麗で好きなんだよ』
元々、あそこであいつが立ってオレを見ていたのは夏の終わりで、最初から終わりから始まったようなものだった。
またドリブルを始めた。ジャンプシュートをすると、また決まる。蝉の声は止まなくて、体育館は蒸している。汗が吹き出て、一度止まってTシャツで拭った。もう忘れてしまおうか。この夏が終わるまでに忘れてしまおうか。それが出来ないのならせめて、忘れた振りをする。それがいいのかもしれない。なぜならもう、ずっと前から不健康だった。普段のオレは、どろどろに腐っていた。それなのに、スリーポイントラインからのシュートは決まる。変なの、そう思うのに決まる。この夏が、早く終わればいい。早く。それかゆっくり過ぎて終わらないか。馬鹿馬鹿しい。時間は過ぎるのだ。平等に流れていく。だからもう、それがいいのかもしれない。空気のような形にもならない決意が段々と個体に近付く度、ボールはネットに吸い込まれる。何度も何度も、渇いた音がする。緩急をつけながら、結局忘れることの出来ない感情が、塊にもならないまま残る。
「三井さん?」
ついには幻聴、終わってる。そう思って苦笑して、体育館の入り口を見た。よく見えない。でも人影は立っている。目を凝らすと、オレがよく知っている人物と酷似している気がした。まさか幻覚?面影があるけれど、髪型が違う。入り口に近付くと、一層強く蝉の声がする。頭の中まで響いて、わんわんと反響する。立ち止まって見つめて、ああそうだ、ただそう思った。
「え?水戸?」
「はは、何か久しぶり」
ずっと会いたいと願っていた人が、今目の前に立っていた。夏が終わる前で良かった。今で良かった。忘れることを決断する前で良かった。ただ会いたかった。堪らなかった。手を伸ばしたくて引き寄せたくて、忘れてたまるかとずっと腹に据えていたことを、水戸を目の前にして思い知る。拳を握り締めて、抱き締めたくなるのを我慢した。言いたいことはたくさんあった。何してた?どうしてた?あの時ごめん。手を離してごめん。言いたい言葉は全部飲み込んで、くだらない話に身を投じた。水戸はリーゼントをやめていた。随分と柔らかく笑うようになった。学生時代とは顔付きも変わった。オレはただ、ただ一つしかなかった。
ずっと好きだった。
だからもう、今なら後悔しないやり方を知ってる。それが出来る今なら、捨てる物も拾う物も、全部よく分かってる。そんなもん五年間十分過ぎるほど学んだ後だ。
オレは水戸が車に乗っていることも知らなかった。指先に少年らしさが消えたことも辞めたリーゼントも首筋の骨太さも、五年間の間何があったかも知らない。水戸から将来のことを言われるとも思わなかった。でもそんなもんオレも知らない。将来じゃなくて今だった。今がなければ先があるとは到底思えない。
覚悟を決めるのはてめえも一緒だ。そんなもん再会した時から覚悟なんてとっくに決まってる。嘘臭くて生半可な、先も何も考えていない言葉でも、それが水戸の手を離さない為の手段であればそれで良い。オレは今、あれが欲しい。





「三井さん飲んでいいよ」
送るから。そう言うと、水戸は烏龍茶とビールを注文した。水戸は桜木達と約束があると言っていたけれど、飯は食ってから行くと言った。どうせアパートで飲み食いするだけだから、と。市営アパートからも引っ越したらしく、今は完全に一人暮らしだと、そう言ったのだった。オレはあそこ結構好きだったけど、そう言うと、水戸は柔く笑っただけだった。
そこそこゆっくりする気はあるらしく、入店したのはその辺の定食屋などではなく、個室のある居酒屋だった。まあまあ洒落ていて照明も仄かに薄暗いそこは、水戸が以前職場の社長に連れて来てもらったと話していた。今も整備士を続けていて、もう五年目になるらしい。後輩も二人居るとかで、そいつに仕事を教えることまでしているそうだった。水戸は普通に喋っていた。あの五年間が嘘だったように、会わなかった人に今までのことを話すように、ただ普通に。
かく言うオレは未だに感情が定まらなかった。水戸が喋る言葉に対し、ああ、とか、うん、とかそういう身が入っていない返答を繰り返しているばかりだった。路上でのオレは、恥ずかしげもなく欲しい物をひたすら強請るガキのように縋り付いていたようにしか思えない。それが効いたのか今は一緒に居るけれど、よくよく考えてみればあの時の水戸の言葉は、体良く断る手段だったのかもしれない。あそこまで言えば引くだろう、と。それがうっかり食い付いてきて、情に絆されたとか。五年間は恐ろしい。ついさっきまで喧嘩上等の勢いだったのに、今は後ろ向きな考えしか思い浮かばない。
「三井さん?」
「え、あ、何?」
「食えば?」
いつの間にか、注文された品は並んでいた。ビールも目の前にあるのに、泡は見事に消えていた。まあいいか、と目の前にあるビールグラスを手に取った。
「現役でやること、選ばなかったんだね」
「何の話?」
「バスケだよ」
「ああ、それね」
コースターの上にグラスを置いて、箸を手に持った。何を食おうか迷いながら、いただきます、と言って結局唐揚げに手を付ける。
「続かない気がしたんだよな、何となく。それに、向いてるって言われて」
「大学の監督?」
「あー、まあ……。でも言われたからっていうんじゃなくて、面白そうかなって」
お前が言った「向いてんじゃねえの?」はどういう意味だったんですか?それは聞かないことにした。今はまだ、聞けそうにない。それからも結局、くだらない話ばかりして、店を出る。時間は八時半を回った所だった。駐車場に行くと水戸が車の鍵を開け、どうぞ、と乗るように施した。こいつがバイクじゃなくて車なんだよなぁ慣れねえ。アルコールにでも酔えば上手く喋れるような気がしたけれど、生憎そこまで飲んでもいなければ、然程強くもないのに酔えそうな気配も全くない。生温い風は変わらず、夜なのに蒸し暑かった。辺りを見渡しても、景色は全く変わらない。いつもと同じだった。同じじゃないのはオレだ。早く乗りなよ、その声にオレはようやく、助手席のドアを開けた。
車に乗ると、水戸がエンジンを掛けた。発進して、運転する横顔を盗み見る。その顔は、酷く平然としているように見えた。盛り上がるでも逆に盛り下がるでもなく、別段変わりなくそのまま。蒸して暑かった車内が、音を立てているエアコンで段々と冷えてくる。狭いこの場所が不快でなくなった時、季節感は人によって簡単に消えるんだと何気に思う。時々車が反対車線を横切る度、ライトが仄かに水戸の横顔を照らした。変わらないようで変わったそれを見て、五年間って長いんだな、と時間の流れを思い知った瞬間だった。
車内は静かだった。水戸はラジオも音楽も掛けていなかった。今度オレのCD持って来ようかな、と思った時、今度があるのか、と一瞬焦る。今も尚、あの言葉の真意が、オレには測れていなかった。五年は長過ぎる。また同じことを考えた。
そうしている間に、簡単に車は自宅まで到着した。覚えてるもんだな、と思いながら、シートベルトが外せないままでいた。沈黙が続いていると、水戸が笑った。
「どうしたの、さっきから」
「何が?」
「普段あんなに喋ってたのに全然喋んねえからさ」
「オレからしたらお前みたいに普通に喋る方が納得いかねーよ」
前を向いたまま言うと、水戸は少しの間黙った。また沈黙が流れたので横顔を見ると、水戸は窓を開けて、煙草に火を点ける。ライターの音が、車内に響いた。
「舞い上がってんのかも」
「は?!」
その言葉にぎょっとして、思わず大きな声が出る。
「まさか会えると思ってなかったし」
「え、何お前、頭おかしくなったんじゃねーの?」
「おかしいんだろうね、あんなこと言うくらいだから」
はは、と笑う水戸を、今度は訝しんだ。こいつからこんな言葉を聞くなんてあり得ない。
「じゃあまた」
吸い終わった煙草の火を消してオレを見遣るこいつの口が、じゃあまた、と次があることを示した。次はその唇が近付くのを、ただ待っていた。





16へ続く

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