長編

□14
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母親から電話があったのは、仕事終わりを見計らった時間帯だった。ちょうど車に乗った所で着信音が鳴り、監視でもされている気分になってぎょっとする。残業すれば良かった、と今更考えたけれど、こんな日に限って仕事がない。電話の内容は、いつもと同じだった。俺が市営アパートを出てからというもの月に一度は、飲みに来ない?と誘われる。半分は断り、半分は行っていた。それも自分の気分次第だった。彼女のことは、あまり考えないようにしていた。それでも声を聞くとやはり、あまり良い気分はしない。直接会うことはいつも憚られる。話す言葉が見付からないからだ。そんな息子を呼び出して、何か面白いことでもあるのだろうか。やっぱり苦手、結局その結論に辿り着く。
自宅アパートまで一度戻り、車をアパートの駐車場に置いた。そこから凡そ十分程度歩いて、今度は駅に向かった。今日は雪がちらついている。頬に時々当たるのが冷たくて、顔を顰めた。積もりそうなそれではないけれど、時々落ちてくる。空を見上げると、真っ暗な空から埃のような白い粒が疎らに降ってきた。前を向き直して、駅までの道程を歩く。寒くはあったけれど、震えるほどではない。ブルゾンのポケットに手を突っ込んで、首に巻いているマフラーに顔を埋めた。駅に着いて、ちょうど電車が来たからそれに乗る。そこから三駅。吊革を持つと、またマフラーが顔に当たる。これは、ゆいから貰った物だった。洋平は体温低いからあげる、と満面の笑みを浮かべていた。身代わりから始まって付き合って一年以上経っているけれど、結局未だに続いている。
彼女は何となく、危うい子だった。感情の振り幅が広く、激情型のように思う。けれどそれは、可愛くもあった。嫌いじゃない、決して。けれど好きか、と聞かれたら分からない。一度好きだという感情を知ってしまうと、あれと同等の存在を見付けるのは酷く困難だった。不意にデニムのポケットから携帯を取り出し、ただ眺めた。連絡しようもないあの人の名前を取り出し、結局何も出来ないまま収める。誰か他の人と関係を繋いだ所で、結局座敷童子は消えない。幸運も運んでも来やしないのだ。早く消えろ、その存在を確認する度、いつも思う。
一度ゆいからも言われたことがあった。確か先週辺り、彼女の部屋で何をするでもなくただ一緒に居た時だった。
『他に好きな人居るでしょ』
と。またぎょっとして、思わず後ろを見た。誰も居なかった。向き直ると、さっきまで見ていた雑誌から目を上げ、俺を真っ直ぐ見据える彼女のくるっとした二重の目が見えたのだった。
『わたし、洋平が居なくなったら死ぬからね』
その言葉を聞いた時は、申し訳ないけれど笑ってしまったのだ。凄いな、と。素直にそう思ったら笑えた。だから、凄いね、と言うと、揶揄われたと思ったのか、彼女は怪訝そうな顔をする。そして、何が凄いの何が可笑しいの、と今度は怒りを露わにして言うのだった。その表情を見ながら、この子は本当に喜怒哀楽が激しくて、また素直に凄いと思う。
『俺、身代わりじゃなかったっけ?』
『洋平の身代わりなんて居ないよ』
『熱烈だね』
『ていうか、誰かの身代わりにしてるのそっちだよね?お互い様よ』
吐き出すように言われ、 彼女の狡猾さにぞっとしながらもそれでも縋り付ける強さに好感が持てた。暴力的で素直で、こういう部分は好きだなぁ、とぼんやり彼女を眺めていた。すると今度はにこりと笑うから、何も言えないままその場は過ぎた。
最寄り駅に着いて、電車を降りる。それからしばらく歩いて程狭い路地を入った所に、母親の店があった。そこを躊躇なく開けると、昔ながらの鈴の音が鳴る。開けた先のカウンターには、いつも母親が居る。とても母親とは思えない笑みを浮かべ、「こんばんは」と言うのだった。けれど今日の彼女の顔は、いつもと違う。眉間に皺を寄せ、俺が顔を見せた直後、目を逸らした。店内に客は一人しか居なかった。彼女と同年代らしきスーツを着た男性、その人だけだった。
「洋平……」
「何の用?」
聞くと彼女はビールサーバーの方に足を向けた。一杯飲んだら帰ろうと決め、空いているスツールに座る。その時視線を感じ、向けられている方向を見た。客である男性が、じっと俺を見ていた。その表情は、物言いたげにも見えたし焦燥しているようにも見えた。よく掴めない。
「何か?」
「あ、いや」
聞くと目線をずらし、今度は左右に動かしている。そしてまた、声を出した。
「良かったら一杯付き合ってくれないかな、奢るよ。相手が居なくて困ってたんだ」
何だ?そうは思ったけれど、どうせ一杯飲んで帰るつもりだったから同じだった。だから一度会釈して、彼の隣のスツールに移動した。母親は何も言わず、ビールグラスを俺の前に置く。彼女はいつもうるさい。最近何してるの?から始まり、仕事どう?彼女出来た?その他諸々。俺はそれに毎回、端的に返答している。あまり言葉を交わしたくなかったからだ。それから少しだけ彼女の話を聞いて帰る。大概その流れだ。その筈なのに、今日は違う。俺と決して目を合わせようともしなければ、お喋りな彼女が一言も声を発しない。俺の隣には、母親と同年代の男性が一人。へえ、ただそう思った。
「幾つになった?」
「え?」
おかしいだろ、その質問。右手が急にチリついた。酷く疼いた。
「ごめん、幾つ?」
「三月で二十二です」
「仕事は?」
「整備士です」
「自動車整備士?」
「はい」
「続けられそう?」
「まあ、好きなんで」
目の前に置かれたビールグラスを呷る。一気に飲み干して、それを空にする。右手が疼くのが治らない。ぴりぴりする。拳を握ったり開いたり、それをスツールの下の辺りで繰り返すけれど、麻痺しているのか何なのか、とにかく右手が騒ついて仕方なかった。
グラスをカウンターに置き、スツールから立ち上がった。ここにもう、用はない。
「ごちそうさまでした」
「もう帰るの?」
「一杯だけって決めてるんで。じゃあ」
最後彼に会釈して、もう一度母親を見る。一瞬合った目が色濃くて、それが彼女の無駄な贖罪に見えて頭痛がする。吐き気もする。気分が悪い。睨んでいるつもりはなかった。ただじっと見た。彼女をきちんと見たのはいつ振りだったか、よく覚えていない。目を逸らされたから俺も何も言わず、その場を去った。ドアを開けるとまた、鈴の音が鳴る。
外は冷え切っていた。ここに来るまでは気温のことなど全く気にもしなかったのに、酷く寒かった。頬にまた何かが触れる。雪だった。小さく白い埃のような雪が、頬に触れて一瞬で溶ける。見上げるとまた、今度は一層降り注ぐ。頭が痛い。痛えな。突くような痛みが同じ波長で続いている。歩き出してあそこから離れても続く。母親から一度言われたことがあった。あれはいつだったか、その時もあの店で、あの人は酔っていた。早く帰りたかったのに付き合わされ、半ば呆れながら話を聞いていた。
『あんたは父親似なんだよ、洋平』
彼女は嬉しそうに頬を染め、そう言った。それは酔っているからなのか、昔の恋人を思い出しているせいなのか、俺にはよく分からなかった。とにかく早く帰りたくて、父親の話にも興味がなかったから適当に相槌を打っていた。
『真面目な人でね、でもちょっと悪い所も寂しい所もあって。目なんかこう、しゅっとしてんの。カッコ良かったんだよ、ほんとに。あんな人居ないよ、他に居ないの』
『そう』
『あんたにそっくり』
ふふ、と笑うとカウンターに突っ伏して寝たから、店に常備してある膝掛けを背中に掛け、店を出たのだ。
もしかしたら、一瞬だけ考えて、すぐに払拭する。違う、と。知らない男性がたまたま一人で寂しくて、たまたま一杯奢ってくれた。それだけの話。
右手は未だに疼いていた。頭も痛くて堪らなかった。会いたいと思った。とにかく会いたかった。今すぐ。会って自分は砂じゃないと感じたかった。携帯を取り出して、一つの名前を見付ける。通話ボタンを押せば繋がるだろうその人の名前の上に、雪が落ちた。一つ、二つ、携帯のディスプレイに落ちたそれは、すぐに溶けた。揺れるようにぼやけ、拭っても擦ったような細かい水滴が残る。掛けられる筈がない。あの人はもうとっくに忘れてる。忘れてる、その単語が頭の中に広がった瞬間、座敷童子に取り憑かれている自分が酷く陳腐に思えた。ある時ひょっこり現れる座敷童子、一週間見ないこともあれば、毎日出て来ることもある。それでも取り憑かれていることに変わりはない。つまんねえ存在。砂で十分だ。
持っていた携帯から音が鳴った。当然あの人ではなく、出るのを躊躇った。それでもしつこく鳴るから出ると、『何してる?』と陽気な声が返って来る。別に何も、と言うと『会いたい』と言われた。誰かの身代わりにしてるのそっちだよね?彼女の声がまた聞こえた気がして、頭の中で、そうだよ、と返答した。でも実際口から出ていたのは、いいよ、という了承の言葉だった。俺はまた、駅の方向に向かう。
彼女の部屋に着いて、ドアを開けられたと同時に押し入るように入った。話すこともせず、スニーカーを脱いですぐに目の前の人を抱き締めた。柔らかい肉体が邪魔だったけれど、身代わりになってくれんだろ?と聞けば、俺を見上げてぎょっとした顔をしてから、急に震えて怯えたような顔をしながら頷いた。彼女の声が邪魔だった。時々名前を呼ばれるのも邪魔だった。声出すな、と言ったけれど聞かなかったから塞ぐしかなかった。最初は唇で塞いだ。でも今度は唇も違えば呻き声も違う。それに舌打ちする。キスをするのも面倒になる。仕方ないから掌で塞いだら少しだけすっきりした。後は目を閉じて、慣らして入れて、動かした。脳味噌の奥で目の奥で、俺の下に居たのは乱れて俺の名前を呼ぶあの人だった。好きな箇所を目掛けて打つと、鳴きながら腕を回す。それから何度も何度も名前を呼んで、吐き出すのだ。それを思い出すのが快感で堪らないから、目の前の真っ黒な肉体にも同じようにした。不意に首の辺りに柔らかい感触が当たる。目を開けると、細っこくて柔らかい女の子の二の腕だった。それも邪魔で、口を塞いでいない方の手で両腕を外して纏めて押さえ付けた。
また目を閉じて、頭の中で何度も何度もあの人を犯す。





「別れる気?」
「ごめん」
ベッドに横になっている彼女を置いて、一人着替えていると、背後から抑え付けるような声が聞こえた。
「酷いやり方してごめん」
「謝られても困る。別れないよ」
「って言われてもね」
きっとまた、彼女は酷く険しい表情をしていると思う。もっとも、見ていないから分からないけれど。ベッドが軋んだ音がしたから、どこか掴まれるかと思った。けれどこっちに来る気配はなかった。動けないのかもしれない。何度も抱いたからだ。あの人の身代わりにして。俺が。そして彼女を見ないように、決して振り返らなかった。顔を見ると情が移る。それに、俺自身が彼女を嫌いじゃないからだ。でもその感情が、ここに居るのが、理由もなく邪魔でしかなかった。
着替え終わって立ち上がり、自分の掌を見た。右手の疼きはとっくに治っていて、小さく吐き出すように笑う。滑稽だった。それ以外なかった。
「わたしと別れてどうする気?その誰かのとこに行くの?」
「いや」
「じゃあこのままでいてよ」
「無理だよ。ごめんね」
「謝らないでってば」
「今まで身代わりになってくれてありがとうって言った方が良かった?」
「さいってーだね」
「知ってたろ?ずっと前から」
じゃあね。最後そう言って彼女がどんな顔をしていたかも分からないまま、玄関でスニーカーを履いて、あっさりとドアを開けた。マフラーは置いて来た。付けることすら躊躇われた。もっとも、一度あげた物を置いて帰られた方もたまったもんじゃないだろうけれど。
俺は多分、彼女を可愛いと思っていた。嫌いなんてとんでもなくて、それなりに好きだった。遊んでも楽しかったし、一緒に過ごす時間も悪くなかった。ちょっとしたことで表情が変わり、素直で馬鹿で狡くて、それでいて賢くて、とても可愛い人だった。居なくなったら死ぬとまで言われたのも初めてだった。きっと愛されていた。このまま続けても良かった。知らない振りをして、忘れた振りをして、自分の感情を飼い慣らして上手くやればそれで良かった。
だけど、ごめん。終わりにするしかなくてごめん。あんなやり方と言い方でごめん。
頭痛も右手の疼きもどうしようもない欲求も、自分が砂じゃないことも、それを嫌というほど実感する手段はたった一つしかなかったことを思い知った。他人の存在でそれが余計に浮き彫りになることも、俺は今日知った。
雪は未だに降っていた。ぽつりぽつりと小さく落ちるように。足を止め、もう一度携帯を開き、あの人の名前を出した。掛けることも出来ない文字の上に、雪の粒が落ちて水滴に変わる。





15へ続く。

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