長編

□13
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帰宅すると、そこは真っ暗だった。玄関脇にあるスイッチを押して灯りを点けると、いつも通り我が家の明るさが少しだけ戻る。
そうだった、確か今朝の朝食時に母親が、今夜友人と食事に行くと言っていたのだった。それを思い出し、今の今まですっかり忘れていたと息を吐いた。腹が減って仕方がないけれど飯をどうするか、それを真っ先に考えた。こっちに戻ってからはまるで自炊をしていないからだ。かといって、今更どこかに出掛ける気分でもなかった。スニーカーを脱いで玄関を上がり、廊下を抜けてリビングに入る。そこも当たり前に真っ暗だった。電気を点けると明るくはなるけれど、家族は皆居ない。母親は元より、父親もほぼ毎日帰宅は深夜を過ぎるからだ。室内は肌寒く、エアコンを点ける。あまりに静か過ぎて、機械音が酷く耳障りだった。とりあえず冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。プルタブを開けて呷ると、喉が痺れる。体が一層冷えた。
ついでに冷蔵庫の中を覗くと、卵とベーコン、それから切って半分になった玉ねぎがラップに包まれていた。オムライス食いたい、無性にそう思って、それを作ることに決めた。大学生だった四年間の間で、オレは普通に自炊が出来るようになった。その中でもオムライスは得意分野だ。まな板と包丁を取り出し、ベーコンを切って玉ねぎをみじん切りにした。収納からフライパンを出してコンロに火を点ける。ベーコンを炒めるから油は少量にした。フライパンにベーコンを入れ、しばらく待った。カリカリに焼いた方が美味いからだ。塩胡椒とケチャップの在り処を確認し、二つを近くに置いておく。冷蔵庫から卵も二つ出して、ボウルに割り入れた。それをざっと溶いた所で、ベーコンの焼けた良い香りが漂う。そこにみじん切りをしておいた玉ねぎを入れて炒め、次は炊飯器から米を適当に入れた。塩胡椒とケチャップで味を付け水分を飛ばしてから、皿を出してそこに取り出した。あ、と小さく声を出した。忘れた、と。あれを入れるのを忘れたのだ。だけれど結局、まあいいや、とそのままにして、今度は被せる卵を作る。面倒だからフライパンもそのままの状態で使った。とろとろの半熟卵を乗せるのが好きだから、ある程度火が通ったらコンロの火を消した。ケチャップライスに出来上がった卵を乗せ、完成。
いい出来じゃん、一人得意気に笑い、まずはオムライスが入った皿とスプーンをテーブルに運んだ。それからビールを運んだ。リビングのテレビを点けてから、椅子に座る。いただきます、と小さく言ってから、スプーンでオムライスをすくった。美味い、けどやっぱり違う。そう思った。あれを入れ忘れたからだ、と。うーん、と頭を捻る。これはこれで美味い、でも。少し考えてビールを飲んで、一息吐いた。その時携帯のバイブ音が鳴り、ポケットに入れてある携帯を取り出して確認する。メールだった。送信者を見ると、チームの選手の一人だった。明日三十分早めにシュート練がしたいから時間が合えば見て欲しい、とのことだった。了解しました。とすぐに返信して、携帯をそのままテーブルに出して置いた。サンダースの副コーチになって二年目、今はリーグ戦の真っ最中だ。去年は二部リーグのままだったから、今年こそは一部リーグに上がりたい。それはチームに関わる全員が考えることだった。
携帯をしばらくの間眺めた。時々、未だにメールや電話が鳴ると、一瞬だけ体が強張る。結局それはすぐに消えるけれど、どこかで期待する自分が居るのも確かだった。水戸の連絡先は消した。もう繋がらないだろうからだ。あの一週間の間に番号も変わっただろうし、連絡する手段がオレにはない。携帯を眺めた所で何もないのは分かっている。食お、そう決めて、オムライスをまた食べ始めた。テレビから流れる音は、耳を平気で素通りする。内容が全く頭の中に入って来なかった。つまんねえ、と考えながら、そうじゃない、とも思った。またあいつのことを。だからだ。もっと違うことを考えれば良い。明日の練習のこと。この先のリーグ戦のこと。一部リーグに上がれるかどうかということ。それを考えていれば良かった。それか、つまらないテレビならチャンネルを変えて、面白い番組を見てリラックスするか。それで良いのに。
オレは毎日一度は水戸のことを考えていた。一人の時間があると特に。練習中やミーティング、バスケに関わっている時は普通に頭から抜け落ちているのに、ふと気付く。隣に居ない、と。そこで愕然とする。もう居ないことが浮き彫りになって、手足が痺れる。その場に心だけが置き去りになり、立ち尽くすのだ。そして、俯瞰しているもう一人の自分が、忘れろよ、と酷く冷静な声で告ぐ。
あのメールで終わってから三年と少し。神奈川に戻って二年と少し。間違ってもばったり会うこともなければ、あの市営アパートにも近付いていない。もっとも、今もあそこに住んでいるかどうかは知らないけれど。時々、自分が送ったメールを思い出すのだ。ぞっとするような「もう来んな」あの一言のメール。そして芋づる式に、とある教授の話を思い出した。その教授は講義の最後に必ず雑談をする人だった。博識な教授が流暢に喋る口調も相俟ってか、雑談は耳や頭の中に幅広く残った。ただ、広く染み渡り過ぎたからか、数年経った今では微かにしか覚えていない話もある。それはニュースの話だったりスポーツの話だったり様々だったけれど、オレは好きだった。が、いつかされた雑談は、未だに根っ子に残っている。
『メールというのはね、きちんと考えて打たなくてはいけませんよ。人間がメールの文字から読み取る感情は、送った本人が本当に考える3%しかありません。たった3%、分かりますか?残り97%、それをどう受け取るかはその人間次第で変わります。気軽で手軽な文化は、時に感情を殺します。文字は人を表します。いいですね?』
3%、あのメールから3%、水戸は何を感じ取ったのだろう。きっとそのまま受け取ったに違いない。そしてオレは。オレは?残り97%、何を考えて打ったのだろう。思い出そうとしても、勢いだけだったことしか頭には残っていない。文字は人を表す。正にそうだった。あの時あの瞬間。あれを受け取った時、水戸はどこに居たのだろうか。自宅だろうか。いつからかは知らないけれど、一人で灯りを点けて一人で飯を食い一人で生活している、あの場所だろうか。
そしてまた思い出すのだった。今日もまた。あれは卒業してから水戸のアパートに泊まった日だった。飲み過ぎて二日酔いで寝てばかりで、起きた時には陽が落ちていた。だから灯りを点けて、シャワーも浴びたから廊下の灯りも点けた。水戸がバイトから帰ったら、「おかえり」と言った。水戸はあの時、「帰ったら明るかった。ただいまって言ったのいつ振りだろ」確かそう言った。明るい部屋が暖かい本当の意味を多分、水戸は知らない。
オムライスをまた食べ始めた。オムライスも水戸が教えてくれた料理の一つだった。そりゃそうだ、大学までは何も出来なかったのだから。ケチャップライスは塩胡椒とケチャップだけじゃない。粉末出汁を入れると味が締まる、そう言っていた。今日は入れ忘れていて、だからやはり味が違った。どことなくぼやけている。別にオレはグルメじゃない。食事に特別興味がある訳でもない。ただ、あいつが作る料理の味付けが好きだった。
『なんか美味い』
『だろ?粉末出汁だけで全然違うんだよ』
『すげーもんだな』
『三井さんは元々味覚がいいんじゃない?お母さんがちゃんとしたもん作ってくれてたんだろ、感謝しなよ』
『はいはい、すみませんねほんと』
はは、と水戸はスプーンを持ちながら笑っていた。それから言うのだ。俺はダメ、と、そう言うのだった。え?と聞くと、舌をべろっと出した。
『煙草吸ってると舌がバカになんだってさ』
『やめちまえ』
『それは無理だなぁ』
今思い返すことは、全部楽しかった記憶ばかりだった。毎日毎日、楽しかったことだけを繰り返して、寝る前は抱かれたことを思い出す。そして自慰をする。アホくさい、と吐き出した後に気付き、泣きたくもならないくらい酷い虚無感に襲われる。虚しいってこれなんだな、と毎度毎度。分かっているくせに何度もする。喧嘩して重苦しかった空気なんて、なかったみたいにどこかへ消えている。
でも決してなかったことにはならないから、オレが吐き出した言葉もきっと、水戸の中に残っている。逆も然り。あいつが言った言葉も行動も、指や舌や唇や肌の感触全て、消えることもないし無くならない。全部消えなくて、どこにも行くことも出来ずその場に滞る。
もしも、もう一度会うことがあれば、あのメールを読んで、残り97%水戸は何を感じたのか、その中に返信しなかった理由があったのか、多分オレは聞くと思う。
テレビのチャンネルは変える気にならなかった。どこにした所で何も変わらないからだ。ただ音が素通りしていくだけ。味の足りないオムライスを口の中に放り込みながら、オレが無性に食べたかったのは水戸のオムライスだと気付いた。
「会いてーな、無理だけど」
自嘲気味に笑うと、一瞬だけあの味を思い出した気がした。でもそれは、目の前にある料理を口に放り込んだ瞬間、すぐに消える。





14へ続く

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