長編

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顔を洗った後で鏡を見ると、左頬が腫れていて、下の辺りに爪で引っ掻いたような痕が二本あった。きっと平手の後で爪が深く当たったのだろう、女の子の力でも腫れるんだな、などと呑気なことを考えながら、洗面台に引っ掛けてあるタオルで顔を拭いた。爪痕は隠そ、と考えたけれど、それ以前にテープがあっただろうか。救急箱はある。もっとも、最近は喧嘩もご無沙汰だからほとんど使うことはないけれど。一人苦笑して、収納から奥の方にしまってある救急箱を取り出した。
カーテンを開けた窓からは鱗雲が見える。よく晴れていた。永瀬モーターに勤めて三年目の秋。俺は去年、あの市営アパートから引っ越した。ここに住み始めてもう一年以上になる。高校を卒業してすぐに不動産会社に勤めた大楠に、この部屋を仲介してもらった。家賃五万で駐車場込み。職場からも三十分程度。部屋も一人で住むにはちょうど良い広さで、賃料も古びた具合も、俺は気に入っていた。
救急箱を開けると、ちょうど傷が隠れる程度の太さのテープがあった。それを適当な長さに鋏で切って、左頬の下の辺りに貼る。もう一度鏡で確認すると、爪痕は綺麗に消えていた。そうこうしている内に仕事に行く時間になる。飲み終えたコーヒーカップをシンクに下げ、玄関でスニーカーを履き、鍵を開けて外に出た。
初秋の空気は、少しだけ乾燥して冷えている。蝉の鳴き声もいつしか消えて、随分と静かになった。鉄階段を降りて、駐車場に停まっている車の鍵を開ける。運転席に乗り、エンジンを掛けた。引っ越しとほぼ同時に免許を取り、会社のツテで車も購入した。早くローン終わらせてえなぁ、と考えながら、車を発進させた。
不意に左頬が痒くなり、指で触れる。忘れていた。テープを貼っていたのだった。悪いことした、そうは思った。けれど、こんなもんか、とも思った。彼女とは、上手くやれていると思っていた。五つ歳上の二十六歳の彼女は、年相応の部分もあれば小柄な体躯と相俟って、子供らしい部分もある可愛いらしい人だった。彼女はよく俺を外に連れ出した。横浜に行きたい、と言うこともあれば、ツーリングしたい、とも言った。行動派だったけれど、付き合う方もそれなりに楽しかった。
けれど時々、どうしても上手くいかないことがあった。それはセックスだ。動いても動いても全くイけそうな気配がなくて、どうすっかなぁ途中で止めたら悪いよなぁ、と、もしこれが聞こえていたら爪痕二本じゃ済まないようなことが何度もあった。そういう時、頭の中に思い浮かぶのは終わった筈のあの人の顔だった。そうするとまあ、嘘のように上手くいく。そういうことが何度もあった。普段は忘れているのに、時々ぽつりぽつりと現れる。あんたは座敷童子か、と思わず突っ込みたくなるくらい、ひょっこり顔を出す。連絡する気も会う気もないのに、こういうのは酷く俺を困惑させた。終わったのは絶妙なタイミングだったと思う。続ける苦痛を選ぶよりよほど簡単な正解である筈なのに、思い浮かぶ座敷童子は妙に俺を苛つかせる顔をしていて、それはとことん疲弊させる。終わっても尚面倒臭い。
そんなことが続いた昨日、彼女と江ノ島辺りをぶらついて部屋まで送った矢先に玄関口で言い出した。ちょっと待って、と。それから続ける。
『洋平ん家行ってみたい』
『は?俺ん家来たってなんもねえよ』
これまで付き合って来た女性を家に上げたことは今まで一度もなかった。それはなぜか憚られた。理由は分からない。
『秘密主義だよね、自分のこと全然喋んないし』
『そんなことねえだろ、喋ってるよ』
『浮気してんじゃない?』
『はは、浮気する暇あったらお前と会ってる』
『じゃあ他に好きな人が居るんだね』
ぎょっとした。もう居ない人のことを言われた気がして、悪寒が走った。
『洋平っていっつも優しいよね。横浜行きたいって言ったらちゃんと連れてってくれるし、あたしが言うことは大概してくれる。口調もセックスも全部優しい。でも全然身が入ってないの、知ってる?』
言われてみりゃその通りかもなぁ、とぼんやり考えながら、やっぱり女の子は怖くて可愛いと思った。これが女の勘というやつなら、女性の子宮の本能というのは頭が良すぎる。それに引き換え男の脳味噌は単細胞の集合体だ。
『あたしのこと好きなの?』
好き……、ねえ。好きか嫌いかと聞かれたら好きだった。でもきっと、彼女の言う「好き」とは別物だと思う。
『可愛い人だとは思ってるよ』
そう言った直後、平手が飛んで来た。その時多分一緒に、爪に引っ掻かれた。
『バカにしないでよ!』
彼女は目に涙をいっぱい溜めて、帰って、と俺に言った。そして、二度と来ないで、と。バカにしてるつもりは全くなかったけれど、彼女からしてみたらバカにされていた気がしたのだろう。女ってやっぱりすげえ、別の生き物だ。素直にそう思う。いつも思う。終わり方というのは常に呆気ない。そして俺は、終わった所で感情も何も揺れ動かない。どうかしてる。やっぱり砂だ、そう思った。スナって何?スパナ的な新しい用語?黙れ座敷童子。
職場に着くと、今日も普段通りだった。シゲさんが時々怒鳴り、やっさんが上手く窘める。それでも昼休みになると、外の喫煙所でやっさんが言うのだった。「シゲさん褒めてたよ、洋平が上手くなったって」と、目に皺を寄せて笑う。俺もつられて笑うと、「シゲさん照れ屋だから自分で言えねえの」と付け加えた。やっさんは優しい。この人こそ、俺は優しいと思う。以前、やっさんによく似合ったこれもまた優しそうな奥さんと小さな子供二人の待受画面を俺に見せ、「めちゃくちゃ可愛いんだよ」と宝物のように携帯を触れていた。その時俺は、この幸せをあの人は手に入れるべきだと思った。絶妙なタイミングだったと、その時知った。そしてシゲさんも、ああいう愛情を与えられる人こそ、優しい人だと思う。俺は全然違う。女の子が目に涙を溜めていても揺れ動かない奴のどこが、優しかったのだろうか。
その日の夜、職場から出る前に携帯を確認すると、大楠から着信があった。掛け直すとすぐに出る。もしもーし、という軽快な声はいつも変わらない。あいつは今も、不動産会社で順調に売り上げを伸ばしている。
『今お前彼女居る?』
「いや」
『オレの彼女が!オレの彼女がね!友達に誰か紹介したいらしくて誰か居ねーかって言うんだよ。オレの彼女が!』
「高宮呼べば?」
『デブ呼んで盛り上がるかよ。お前呼ぶと株上がんの。なあー、良いだろ?』
「分かったよ、いつ?」
『よっしゃ、また連絡する』
「はいはい、じゃあな」
職場を出て、駐車場を歩きながら息を吐いた。気が乗らねえ、心底そう思った。
その日はすぐに来た。週末だった。大楠の情報によると、紹介するらしい子は前の彼氏と酷い別れ方をしたらしい。別れ方は知らない。それで俺の話を出したと言ったけれど、そこで座敷童子が付いて来る俺を持って来てもなぁ、酷い別れ方をした某男子の方がよほどマシだと思った。所詮男は皆単細胞、女性の頭が賢過ぎるだけだ。
場所は何の変哲もない普通の居酒屋だった。大楠は、「もう来てるから」と笑っている。奴はどうやら、俺に彼女を見せたいらしい。可愛い可愛いと自慢していたからだ。大楠が楽しそうだと、場が華やぐ。こいつの明るさは周りを救っていると思う。その彼女が、大楠のそういう部分を好きだと良い、俺も笑って、大楠が喋る言葉に相槌を打った。
「お待たせ」
大楠が個室のドアを開けた時、こんばんは、と言うと、一人の女の子は明るく「こんばんは」と返した。もう一人の子は会釈する程度だった。多分明るい子の方が大楠の彼女のような気がした。するとやはり、その子が大楠の彼女だった。オレの彼女!と溌剌と紹介する大楠に安堵しながら笑うと、彼女は大楠を、雄ちゃん何飲む?と親し気に喋る。良い空気だ、と少しだけ良い気分になった。
ビールを二杯頼むと、それはすぐに運ばれて来る。飲みながら色々と話していると、彼女達は二十八歳だということが分かった。というよりほぼ、大楠とその彼女が喋っている。よく喋る子、と思いながらも、二人が気を使ってくれているのが分かった。もう一人の子は、自己紹介をしてからは特に相槌を打つ程度で、飲むばかりだった。前の彼氏と酷い別れ方したんだっけ?大まかな説明を思い出していると、その子が席を立った。ちょっとごめん、そう言うと、個室から出て行った。飲み過ぎだよ、横目で追いながら、以前もこういうことがあったと思い出した。あれはまだ学生時代で、あの人が神奈川に居た頃。ばあちゃんの店で飲んで、とにかく飲んで陽気になっていた。名前もよく聞いていなかった彼女は、逆に気分が悪いのだろうと、遠巻きに思う。うーん、と少しだけ考えてから、俺も席を立った。
店内を探してみるけれど彼女は居なくて、トイレをノックしてみたけれど居なかった。外だな、確信して居酒屋のドアを開けて外に出ると、風が冷えているのが分かる。季節は確実に過ぎていると容易に分かるそれは、体の中のアルコールを急激に抜けさせた気がした。元々強い方だから酔ってはいないけれど、頭を冷やすのにこの風はちょうど良かった。辺りを見渡しても彼女は居なくて、店の裏側の方に回ると、その場で座り込んでいた。
「大丈夫?」
声を掛けると、音がするほど強く振り返った彼女は、必要以上に驚いている。
「え、何?」
「何って心配したから」
そう言うと、今度はぎょっとしたように俺を見る。それが少しだけ面白くて、ポケットに入れていた煙草を取り出し、ライターで火を点けた。
「タバコ、いつから吸ってるの?」
「忘れた」
確かあの人も、そんなことを聞いた気がする。
「嫌い?嫌なら止めるけど」
「別に嫌いじゃない」
「いつまでそうしてんの?まだ気分悪い?」
聞くと今度は俯く。女の子だなぁ、とただ思う。
「吐かせようか」
「え、何言ってんの?」
「しんどいんだろ?吐かせてやるよ。指突っ込んで」
「いやいや、遠慮します。ていうかドS?」
「ドSかどうかは知らねえけど、虐められたくはないかな」
彼女は、上げていた顔を、少しだけ緩める。女の子は狡さを上手く使うと思う。常に攻防するようなそれではなく、可愛く使うコツをよく知っている。
「名前何だっけ」
「……ゆい」
「ゆいちゃんね」
彼女の側に座り、携帯灰皿を取り出して、煙草の火を消した。顔を覗き込むと、目が合った瞬間に目を背ける。何か似てる、そう思った。
「君、何くん?」
「洋平」
「身代わりになってくれないかな」
「元彼の?」
「そう」
うーん、と考えながら、身代わり、という言葉を頭の中で反芻する。変な言葉だ、そう思った。
「悪いけど、そういう生産性の低いことは好きじゃない」
「じゃあいいよ」
今度は不貞腐れたような顔をして、口を軽く尖らせる。この人は多分、自分の魅力をよく知っている。それでいながら、適度に狡賢く、引ける人のような気がした。
「最初愛想悪かったし、気が強いとことか狡いとことか似てるよな」
「誰に?」
「さあ、誰だったかな」
少しの間、沈黙が流れた。また風が吹いて、彼女の髪が揺れる。煙草の匂いが鼻を掠めた気がして、自分がさっき吸ったそれのせいだと気付く。悪いことした、一瞬だけ流れるみたいにそう思った。
また座敷童子が後ろに立っている。『お前さぁ、人の逆剥け思いっ切り捲るタイプだろ?』うるせえな。『それで自分も一緒に傷付けて抉ってんだよ』うるせえ黙ってろ。
目を閉じて、深く呼吸をする。息を吐き切った所で目を開けた。それからまた空気を吸い込む。
「いいよ」
「え、何が?」
「元彼の身代わりだっけ。なっても」
彼女の顔を見ると、また必要以上に驚いた顔をして、何度か瞬きした。そのまま近付いて、軽く開いている唇にキスをする。
「やめてよ、急に」
「吐かせる前にしとこうと思って」
はは、と笑うと彼女は、もう覚めた、と言った。座敷童子が居なくなるなら何でも良かった。身代わりなんて免罪符を使って、他人の気持ちを簡単に弄ぶ。俺は全然優しくなんかない。不意に、やっさんの携帯の待受画面を思い出した。
あんたは早く、あっちの世界に行っちまえ。





13へ続く

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