長編

□11
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「寿、あんたプロバスケのコーチだって?」
「……まあ」
副コーチだけど、というのは言わなかった。姉にいちいち説明するのは面倒だからだ。それ以前に、何でこの女はしょっちゅう実家に戻ってくるんだろう、それが一番厄介で面倒だった。
大学を卒業して、神奈川のプロバスケチーム、サンダースの副コーチとして契約を結び、オレは今実家で生活している。
「お父さんとお母さん、喜んでたよ」
「あっそ」
「しっかしまあ、あんたってほんとバスケばっかね。つまんない男だわ」
「つまんなくて結構です」
この姉は、未だに暇があれば実家に帰って来る。小さかった姪っ子は既に小学生で、医者である旦那は忙しいからか、姉は暇を持て余していた。今日は姪っ子を習い事に連れて行くらしく、もうすぐ帰るらしい。つーか、だったら最初から帰って来んな。オレは声を大にして言いたい。もっとも、百倍になって返って来るから言わないけれど。
「あ、そういや水戸くん見たよ、横浜で」
小柄な彼女連れてた、ショック。そう言った姉を見ると、はあ、と溜息を吐いている。既婚者がショックを受けてどうする。
「……姉ちゃん」
「何?」
「皺増えたんじゃねーの?」
「うっさいバスケ馬鹿!」
もう無視して、ソファから立ち上がる。リビングを抜けて階段を上がり、自室のドアを開けた。そのままベッドに寝転がり、姉の言葉を思い出した。水戸くん見たよ、横浜で。小柄な彼女連れてた。小柄な彼女、横浜。そりゃ楽しいだろうよ。
起き上がってローテーブルの上に置いていた携帯を手に取り、履歴からすぐに出て来るその人物の名前を見付け、すぐに通話ボタンを押す。何コールか鳴ると、そいつの軽快な声が耳に入る。
「菅田?オレ」
『あ、三井コーチじゃないっすか。お疲れっす』
「てめえぶっ飛ばすぞ」
『何だよ、どした?』
今オレを揶揄するように笑っている菅田は東京のプロバスケチームに受かり、あっちでバスケを続けている。オレ達二人は大学三年の夏から一年半で結果を残すことが出来た。
「コンパ開け。早急に」
『出たよ、オレ様三井様』
「やってやる!オレもやってやる!」
『ちょ、何いきなり気合い入ってんの?』
「うっせーんだよ。オレだってやりゃ出来んだっつーの、見てろくそ!」
じゃあ頼んだ、そう言ってすぐに通話を切った。携帯を放り投げて、またベッドに寝転がる。はあ、と一つ溜息を吐いて、手の甲で目を覆った。小柄な彼女と横浜。横浜なんて行くんだ、ふーん。もう終わった人物に対して今更何を思う。分かっているのに燻りはどうにもならなかった。
大学四年の冬、一人の子が言った。「ずっと好きでした」と。「試合もいつも観に行ってて、かっこいいって思ってました」そう言った。その子は同級生で、自分は東京に残るから続けられるかどうかはこれから決めて欲しい、とも言った。オレはその時、既にサンダースの副コーチに受かっていたから、神奈川に帰ることは決まっていて、それを告げても縋って来た。言い寄られて悪い気分はしなかったし、現実的に彼女を作らないと厄介なことになりそうだと踏んで、とりあえず付き合うことを決めるまでに何度か会った。けれど、これまた厄介なことに全く楽しめなくて、会話をしても身が入らず飯を食っても美味くなく、ヤバいと思った所で彼女が言った。私じゃダメだね、と。お前がダメっていうか、オレがダメだと思った。素直に謝罪して、自分の不甲斐なさを呪った。菅田には、バカだろ、と言われた上にその他諸々散々罵られ、何も言葉が返せなかった。それからはひたすら指導員の勉強をして、大学の監督にも教わり、結局そのまま卒業した。
そして実家に戻り、サンダースの副コーチとして仕事をすることになる。大卒の年齢であることに、チームの連中は驚いた。勿論年上の選手も居るから、なぜ年下に、と邪険に扱われることもあった。そこはもう仕方ないから、自分の仕事で認めてもらうしかないと躍起になる。時には練習に参加して、選手の弱点や逆に強味を見付けて指摘した。すると次第に打ち解けた。バスケが好きだという点は誰しも同じだったからだ。元々若いチームで参入したての二部のチームだったからか、団結力も強かった。
サンダースの正コーチは、大学バスケ部の監督と同期らしく、これまた元ヤンのような人物だった。オレはヤンキーとか元ヤンとか、そういう人間を引き当てるのだろうか、まあ元を正せばオレも元ヤンになるのだろうけれど。確かに。まあ納得。監督はオレにもよく仕事をさせてくれた。やらなきゃ分かんねえ見て覚えろ方式で、体に叩き込まれた。お陰でチームに所属して半年弱、サンダースには馴染むのも早かった。これからリーグ戦が始まる。
後日、菅田からメールが来た。今週末コンパだと。自分から頼んだくせに、そのメールを読んだ途端、なぜか脱力した。億劫になった。けれどその直後、見た訳でもないのに小柄な彼女を連れて楽しそうに歩く水戸の姿が脳裏を過って、俄然闘志が湧いた。負けてたまるか、やってやる。自分でも理解不能な闘争心が沸々と湧いた。オレを忘れて楽しそうに日々を過ごしているだろうあいつに、猛烈に苛ついた。
コンパ当日、菅田が神奈川に近い場所で開催してくれたからか、移動は楽だった。そこそこ洒落た場所で、オレが到着した頃には人数は揃っていた。こんばんは、と言って既に座って談笑していた菅田の隣に座ると、愛想悪い、と小声で注意される。とりあえず笑っとけ、とも言われたので、ははは、と引き攣った表情を隠せないまま、前に座っている子に会釈した。その後は飲んだからか、普通に喋った。仕事何やってんの?休みは何やってんの?そういう他愛ない会話を延々と。その内一番喋っていた子が隣に座り始めて、距離が妙に近いことに気付いた。顔を見ると普通に可愛くて、こんな感じでとりあえず楽しかったら付き合うのかな、と漠然と思う。すると次第に、周りの風景が見えて来るようになった。人数は六人。個室で暗がりで、周りの連中は盛り上がっていて、目の前に置いてある様々なアルコールに手を付けていた。飯は、ピザにサラダに唐揚げにその他つまみになるような物が点々と残っている。この残飯は誰が処理するんだろう、と考えていると、水戸は必ず残さず食べていたことを思い出した。あ、やべ、そう思った。また思い出してる、と。その度に、横浜で小柄な彼女、と頭の中で反芻する。けれどどうしても、目の前の残飯が気になって箸を付けた。きっと残る。そう思ったからだった。一枚だけ残ったピザにまず手を付けた。すると隣の子が、声を出した。
「三井さんって結構食べる人なんですね。だから大きいのかな」
「じゃなくて、残ったら嫌だろ?」
「そっか、確かに。私も食べます」
そう言うと、その子も箸を付け始める。これ美味しいですね、と言いながら甘ったるそうなカクテルを飲んでいた。
「それ飯と合うの?」
「はは、あんまり」
「こっち飲んでいいよ」
「焼酎嫌いなんです」
ちゃんと嫌いって言うんだ。残さず食べようとする部分と相俟って、好感が持てた。
「じゃあ何が好きなんだよ」
「ワインかなぁ」
「洒落たもん飲むんだな」
「あ、三井さん知らないでしょ。今は五百円くらいでお手頃なやつがいっぱいあるんですよ」
「へえ、そうなんだ」
知らなかった、そう言うと彼女は笑った。これなら大丈夫なんじゃね?いけるんじゃね?普通に女の子と付き合えるんじゃね?何度も何度も確認作業をしながら、残った料理を平らげていく。別に相手が水戸じゃなくても他の誰かでも、ちゃんと忘れていける。そんなことが頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは残る。結局残骸が残ったまま、その場は解散になった。外に出ると、九月終わりの外気は多少肌寒かった。日中はそこそこ暑い日も多いけれど、夜には気温が下がることが多い。夏も終わったんだよなぁ、と毎年この時期には思う。何故だかいつも、蝉の鳴き声が聞こえなくなったことに気付かないまま、夏が終わる。高三の時の屋上、それを時々思い出す。
「おい、三井」
「何?」
「今日は良かった。あれならイケる」
近寄った菅田が、安堵したように声を掛けた。奴はいつも、オレの事後処理に追われるのだ。大学時代も、水戸と終わってからバスケ以外に全くやる気を見せなかったオレに対し、理由も聞かず、とりあえずコンパだと事あるごとに飲んでいた。そこではまあ、思い出したくもないけれど不戦敗続きで、戦う前から放棄していたのだ。それの後処理に菅田はよく奔走していた。面倒見が良くてとにかくいい奴、そう思っていたから、本当は水戸のことを喋っても良かった。言えば良かった。でも何故だか言えなかった。きっと菅田は引かないだろうし、遠巻きにも見なければ軽蔑もしないだろう。今のままで友人としてやっていける。その自信はあった。だったら、と考えながらも結局水戸とのことは言えないままでいた。理由は何となく分かっている。
次どうする、そんな話をしている最中、後ろからカットソーの裾を引っ張られる感覚があった。振り返ると、店で隣に居た子だった。よく見ると小さい。当たり前に水戸より断然小さい。頭一個分以上小さくて、小柄な彼女、というワードがまた頭を過る。
「あ、名前、何だっけ?」
「マキです」
「マキちゃん」
「どっか行きません?」
小柄な彼女と横浜、そのワードがまた通過した瞬間、オレは彼女の手を取った。
その後は、とんとん拍子って正にこれだ、と思うほどすんなりと行き、今彼女はラブホテルの一室でシャワーを浴びている。煌びやかなネオンが眩しいくらい並ぶ中から一つ選んだ建物の中に、もう最初から決まっていた行事のようにすんなりと入った。え、こんなんで良いの?と一瞬思った。思ったけれど、もうどうにでもなれと足を進めた。酔ってる、そう思いたかったけれど、残念ながらもう覚めていた。煌びやかな建物とは真逆の普通の部屋に置いてあるでかいベッドに座りながら、大丈夫大丈夫、頭の中でこの言葉を繰り返した。
過去の暗黒時代、オレは普通に女と寝ていた。鉄男達に流されたとどこかで言い訳しながらも、それなりに楽しくやっていた。可愛ければ何でも良くて、好きだの嫌いだの、そんなことを考えるのも面倒だった。何人も何人も、付き合ったりその場限りだったり、普通に楽しかった。楽しかったけれど、満たされてはいなかった。バスケのことも勿論あったと思う。隅っこの方にそれはきちんと残っていながら、男は好きでも何でもなくても吐き出せるんだと思うと、時々ぞっとした。楽しくて、嫌気が差して、吐き出して、また楽しくて、それの繰り返し。だから水戸と出会って、救われて、あれが欲しくてもがいて足掻いていたあの時は、その瞬間は。
全っ然楽しくなんかねーよ。楽しいわけねーだろ。
思い返してみても全く楽しくなかった。楽しくなんかなかった。辛かった。どうすれば手に入るのか、あいつがどうしたって分からないと逆側に向けても真横から覗いても、分からなくて葛藤した。
でも、だから、だからこそ。
好きだった。
『三井さん』
初めてした時、オレを呼んだ。何度も呼んで、こっちが痛くて叫ぼうが何をしようが無理矢理抑え付けながら、オレを呼んだ。
『すっげえ顔してる。痛いの好きなんだね』
好きだよ、好きで悪いかよ、すげえ顔してたのはお前だ。
『欲しいなら言ってみな』
オレもバカみたいに、螺子が外れたみたいに水戸を呼んだ。呼んで叫んで、欲しいと言った。水戸が欲しかった。あれが手に入るなら、こんな体幾らでも差し出してやる、そう思った。
無理だ。やっぱり無理。今からあの子とやるなんて無理、絶対無理。すみません、ごめんなさい、後から土下座でも何でもします。
デニムのポケットから財布を取り出し、万札を一枚テーブルに置いた。シャワーの音はまだ止まないし、出て来る気配はなかった。ちょうどレシートが財布に入っていて、テーブルにはボールペンもあった。それでレシートの裏に、「ごめん。帰ります」と書いて、すぐにホテルの部屋を出て行った。走って建物から出て、ネオン街から抜けた。その後もひたすら走って、適当な場所で止まる。はあ、と息を吐いて、整うまで少し待った。辺りを見渡すと、人は疎らに歩いている。着けていた腕時計に目をやると、もうすぐ日を跨ぐ。終電あるかな、と考えながら、また歩いた。まあいいや、なかったらタクシーで。はあー、と今度は長い息を吐く。空気はやはり少し冷えていて、走って多少暖まった体を冷やすには十分だった。駅の方向に向かって足を進めながら、自分の頭の作りには白旗を上げたくなる。
もう最悪。何が最悪ってオレが最悪。適当に喋って悪い子でも何でもないあの子を傷付けた。多分あの子は今、怒りと現実的に起こり得ないことを前に、茫然自失としていると思う。菅田の友人か何かだったのだろうか、自分の頭がここまでおかしいとは思わなかった。とりあえず電話、デニムのポケットから携帯を取り出し、菅田の名前を出した。掛けるとそれは、すぐに繋がる。
『おー、どうよどうよ』
「ごめん、すまん、すみませんまじでほんと。奢る。何でもする。今回だけはオレが悪かった」
とりあえず頭の中にある謝罪の言葉を並べると菅田は、は?は?と言う。当然意味が分かっていないから、一から全部説明した。バカやろう!そう言われると思った。アホか!と。いっそ罵ってくれ、とすら思った。でも菅田は、あっそ、と言うだけだった。
「奢る、まじで。悪かった、ごめん」
『だと思った』
「え?」
『今回はイケるって期待してたけど、どっかでこうなると思ってた』
「何でだよ」
『何となく。一応名コンビって言われてたし』
菅田には言っても良かった。相手のことも、全部。吐き出せば楽になれるのかもしれない、そう思ったけれどそうじゃない。言った所で、変えなきゃならないのはオレだ。オレ自身がどうにかしないと、ろくなことにならない。
「好きな奴が忘れらんねーんだけど」
『だと思った』
誰かに全部喋ったら多分、それ終わったんだよ、そう言われるのが分かっていたからだ。確定されて、忘れなければいけないと決まってしまうからだ。
オレはまだ、あれが欲しいと足掻いていたい。あれが欲しい。どうしようもなく。





12へ続く

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