長編

□10
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週明けの月曜日、座って作業していて立ち上がった所で、後ろポケットから携帯が落ちた。コンクリートと玩具が当たったような軽い音がした。足元の位置を直した所で、今度は鈍い音が響く。思いっ切り踏ん付けたらしく、機械が壊れた感触があった。あ、そう言って下を見ると、エンジニアブーツの踵に踏み付けられ、無惨に割れた携帯が見える。落ちたな、とは思っていた。でも踏むまでは予想外だった。やっさんが、あーあーあー、と口を歪めていたけれど、正直壊れた所で問題はなかった。頻繁に連絡を取る相手も居なければ、元々そんなに使ってもいない。まあいいや、と壊れた携帯を拾い上げる。
「昼休みにでも携帯屋行って来いよ」
「いや、いいっすよ別に。元々あんま使ってねえし」
はは、と軽く笑ってから、壊れた携帯をまた後ろポケットに入れた。するとそれを見ていたシゲさんが、違いねえ、と笑った。
「俺は最初っから携帯なんてもんは持たねえ」
「シゲさーん、仕事に不便でしょ?そろそろ持とうよ。連絡付かないじゃないっすか」
やっさんが呆れたように言うと、シゲさんはばつの悪そうな顔をして頭を掻いた。そのやり取りになぜか安堵して、整備工場から遠くを眺める。毎日毎日、呆れるほど空が高くて青い。入道雲が其処彼処に広がっていて、変わんねえなあ、と思う。空も景色も匂いも音も、人一人に何が起きようと変わりゃしない。
洋平!ぼーっとしてんな!
今日もまた、シゲさんの怒声が響く。現実も時間も、人の意思とは関係なく過ぎて行く。否応なく。誰に対しても平等に。うす、と返事をして、また車と向き合った。さあ、今日も仕事だ。
携帯を壊してから一週間。とうとう社長から懇願された。時間休やるから携帯買ってくれ、と。持たないってごねる奴はシゲさんだけで十分だ、と。仕方なく、はあ、と返事をしてバイクで携帯屋に行った。一番近い携帯屋に入ると、女性が二人ほどカウンターに座っている。その内の一人から、どうぞ、と言われたのでスツールに座り、その人に事情を説明した。一週間前に携帯壊してしまって、と言うと、保険に入っておられたら修理出来ますよ、今お調べしますね。とにこやかに説明される。どうやら保険には入っていたようで、一週間ほど時間は掛かるようだけれど、そのままの機種が返ってくるらしい。データも移行出来るとのことだった。その間は代替え機を渡された。
一時間程度で帰社して社長に報告すると、胸を撫で下ろすような仕草をされる。大袈裟だなぁ、と思いながら、すみませんでした、と謝った。それから仕事に戻る。その日の仕事終わりは午後八時を回った所だった。大概この時間帯が多い気がする。着替えて携帯を見ると、着信が二件ある。体が一瞬強張った。でもそれはすぐに消えた。もう終わったからだ。携帯を開いて履歴を見ると、二件とも大楠だった。掛け直すと、慌てたような「洋平?!」という声が聞こえた。
『お前全然連絡付かねーからよー、何かあったかと思ったじゃんよ』
「悪い悪い、携帯壊しちまって」
そんな慌てることねえだろ、と笑って言うと、あっちも安堵を含んだような息を吐いた。
「どうした?お前こそ何かあったか?」
『いや?久々に飲もうと思って電話したら繋がらねーからよ、どうしてんのかってちょっと心配しただけ』
「心配ってお前、ガキじゃねえんだから生きてるよ」
『つーわけで飲もうや。行っていい?』
「いいよ。今から帰るから、お前何か適当に買って来いよ」
『えー、作ってくんねーの?』
黙っていると、作れ作れと連呼される。疲れてんだけど、俺も。そう思ったけれど、どうせ夕食も弁当用も作らなければならなかったから、まあいいかと息を吐いた。
「わーかったって。その代わりお前、酒買って来い」
『任せろ』
じゃあな、そう言って通話を終わらせた。携帯を眺めてみても、代替え機というだけで何も変わりはない。職場を出て、社員駐車場まで歩いた。呆気ねえなぁ、と何かに縋るでもなくぼんやりとそう思った。まあ、終わる時はこんなもんだ。諦めでも何でもなく、縋る気もなくそう思う。バイクに跨り、エンジンを掛けた。アクセルを捻って、自宅アパートまで走らせる。未だに茹だるような暑さは続いていて、受ける風は生温かった。不意に、あの人を初めて東京まで送り届けた春の初めを思い出した。
アパートまで上がると、もう大楠は玄関の前で待っていた。よう、と言って笑ったのが、暗がりでもよく分かる。早かったな、と返して玄関の鍵を開けた。アパートに入ると、中は異常なほど蒸していた。電気を点けて廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえる。それに何か違和感を感じて振り返ってみたけれど、別段変わりない大楠だった。何?と言われたから、別に何でも、と返す。リビングの灯りも点けて、辺りを見渡しても、やはり違和感があった。頭を捻るも、何がどう違和感なのかさっぱり分からない。とりあえずエアコンを点けて、部屋が涼しくなるのを待った。
大楠には冷蔵庫の中のビールを渡した。代わりに大楠が買って来た酒類を冷蔵庫に入れる。ついでに食材を出して、ある物で適当に作ろうと決めた。筑前煮と漬物は残り物があったので、筑前煮だけを先に温めてテーブルに置いた。大楠は既に座ってビールを飲んでいる。それはよく見る変わらない光景だった。それなのにまた、妙な違和感が脳に触れる。解決出来ないまま、料理を作り始めた。その日は豚肉を塩胡椒で焼いた。ちょうど解凍していたからだった。あとは野菜を切って蒸した。筑前煮はかなり余っていたし、つまみは大楠が買ってきていたからこんなもんで大丈夫だろう。出来上がった物をテーブルに並べると、美味そう!と言って彼はまたビールを飲んだ。
「オレ、豚肉はこれが一番好き。鶏だったら親子丼」
「お前もかよ」
「も?」
あ、と思った。そして、あーあ、と思った。呆気ない訳がなかった。こんなもんでもなかった。全然駄目だ、そう思ったら笑えてくる。
「はは、もうほんと笑える」
頬杖を付いていた右手の掌で目を覆い、俯いて笑った。そして笑ってからもう一度、あーあ、と口に出す。それで何か、すっきりと違和感が晴れた。
「お前、やっぱ変だわ。何かあったろ、ミッチー絡みで」
「大丈夫大丈夫、もう何もねえから。会うこともないし」
「いやいやいや、おかしいだろそれ」
「おかしくねえよ。もう会わない」
「連絡してみろって」
「しねえよ」
そこでようやく、缶ビールのプルタブを開けた。それを呷り、唸るような声を出した。大丈夫、ビールは美味いし、違和感の理由も分かった。後ろから続く足音が違うのも当たり前だし、部屋に入った時にあの人が居ないのも当たり前だ。それが感じた違和感の正体。だから大丈夫だ。理由も分かって、自分でも納得出来た。元々、ここにあの人が居ることが多かったのも、三井さんが高校卒業するまでの話で、そこからは無理矢理続けたようなものだった。終わっていたものを無理矢理繋げている状態が続けば、また壊れるのも簡単だった。分かっていたことだった。だからこれは、当然の結果だ。
大楠は溜息を吐いた。それからしばらくの間、黙っていた。箸と皿の擦れる音と、ビールを飲み込む音、それだけが室内に響いている。エアコンがようやく効いてきて、部屋が冷えてくる。夏が早く終わんねえかな、と考えていると、大楠が息を吸ったのが分かった。
「よし、コンパだ」
「あ?」
「大船に乗ったつもりで任せとけ」
「泥舟の間違いだろ」
「沈む時は一緒だぜー?」
「はは、ごめんだよ」
鍵返さなきゃな、と考えながら、またビールを呷った。このタイミングで良かった。続いていてもきっと、その先は真っ暗だ。何も残らない。今はそれしか考えられなかった。
三井さんが夏季休暇が始まる前の土曜日の深夜、この時間帯なら出会うこともないだろうと、鍵を返しに来た。茶封筒にそれを入れ、ずらりと並ぶポストの中の一つに入れる。かこん、と耳馴染みのいい音が聞こえ、ただ、終わったと思った。部屋番号も間違えていないし、これで問題はないと思う。高速道路を走ってこっちに来る間、意外と何も考えなかった。ただ無心でバイクを走らせていて、車もあまり通らない真っ直ぐ続く道路をただひた走った。東京は、深夜でも灯りは途絶えていなくて、この街は眠らないのだと感じた。でもあの人が住む辺りは静かで、辺りは閑散としていた。人通りもないし、ただただ静かだった。用事はあっという間に終わり、淡々と終わっていくそれに、流れていく時間に、今まで一緒に居た瞬間も、結局同じように過ぎていた時間と変わらなかったことを知った。時間だけは、平等に過ぎて行く。俺にも、あの人にも、誰にでも。
ほんの一分程度で終わり、またバイクを走らせた。途中高速道路のパーキングに停車して、コーヒーを飲んで煙草に火を点けた。そこも酷く静かで人はほとんど居ない。暗闇に包まれながら、一人なんだと実感する。初めて三井さんを東京に送った帰り道も、俺は一人だった。でもその時はこんなことになるとも思っていなくて、だからと言って続くことも考えていなかった。ただ、あの人は一人で生活出来るのか、それだけを心配した。でも今は違う。料理も洗濯も掃除も、一人暮らしを初めて三年にもなれば一通りやれるだろう。苦手な勉強も、三年にもなれば手の入れどころも抜きどころも分かるだろう。バスケだって、時々試合を観に行っていたけれど、スタメンになることも増えた。あの人は、一人で決められるし一人で生活も出来る。一度諦めたことをもう一度腹を据えてやれる強さは、誰もが真似出来るほど容易じゃない。俺にはとても真似出来ない。
「頑張れよ」
ぼそりと呟いて、煙草の火を消してコーヒーを飲み干した。その声は、しんと静まり返った夜の闇に溶けた。
それからまたバイクを走らせ、神奈川に戻る。海沿いを走っていると、夜が明ける前だった。適当な場所にバイクを停め、浜に降りる。ちょうど朝日が昇って来る所で、それをただ眺める。考えるでもなく、ただ眺める。絶え間なく続く波の音を聞きながら不意に首を横に向けるけれど、そこにあの人は居ない。誰も居ない。目を瞠るほどの眩しさと真っ直ぐ続く終わりの見えない広さは、どこをどう見たって自分の名前と同じとは思えなかった。やっぱり俺には合わねえよ、これを見たのは二度目だけれど、大層な名前を付けられたもんだとやはり同じことを思う。
俺には何もない。目の前に広がる果てしない深さなんて当たり前に持っていなければ、あの人のような潔さや賭ける物も強さも。逆に、泣くほど何かを求めたがる欲深さも縋り付ける弱さもない。いや、強いから全てを捨ててでも縋り付けるのかもしれない。俺はそれも出来ない。縋り付くことも出来ない。捨てる物もないから、拾い上げることも出来ない。
『好きだよ。自分じゃどうしようもないくらい』
何もないけれど、あの時言った言葉は本物だった。それだけだった。
好きだった。ただ好きだった。それだけでごめん。それしかなくてごめん。奪うだけで何もしてやれなくてごめん。
朝日が昇って白く反射する海を眺めながら、少しの間だけ、今は居ないあの人を思う。




11へ続く。

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