長編

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夏期休暇に入ってから、数日実家に帰った。早朝、夜明け前にランニングに出掛けて、海沿いを走る。それから浜に降りて、海を見渡した。まだ太陽は昇らない。夏の海は、気分と反してひたすら澄み渡っていた。まだ薄暗いそこは、誰も居ない。聞こえるのは波の音だけだった。卒業式の朝、水戸と来た時とそれは全く変わらないけれど、夏だから勿論寒くはない。かといってまだ暑くもない。もうすぐ日が昇る。
しばらく波の音だけを聞いていると、段々と明るくなる。もうすぐ日が昇る。下から昇る太陽は、光が強過ぎて目を細めた。目を瞠るほどの逞しさと強さは変わらず、在り続けるしぶとさには泣きたくなる。この景色は水戸だった。でもあいつは、こんなに強くはない。分かっていた筈だ。初めてオレの部屋に来た時、オレは水戸の手を掴んだ。守らなくちゃいけない、理由もなくそう思った。その意味が今、やっと分かる。
手を離した瞬間、あいつは居なくなる。水戸は消える。それが分かっていたからだ。あんな危なっかしくて小さな光だけを照らして飛ぶ蛍みたいな奴、すぐに居なくなる。そんな簡単なことはあの時から、いや、それよりもずっと前から、知っていたことだった。その手をオレは、いとも容易く離した。自分の手で。自分の意思で。
『好きだよ。自分じゃどうしようもないくらい』
波の音を聞きながら、卒業式の朝の言葉を思い出した。夏期休暇が始まる前、茶封筒に入った合鍵が、ポストの中に収まっていた。その中を何度覗いても振っても、出てくるのは小さな鍵一つしかなかった。本当に終わったのだと突き付けられる中で、現実は絶望的にも過ぎていくことを同じように知った。でもそれでもオレは、あの小さな光に、ずっと前に過ぎ去った言葉に、未だに縋っている。
今もし、この瞬間、足音が聞こえたら。振り返ったそこに、水戸が立っていたら。
首を回して後ろを見るも、誰も居ない。あるのは砂浜だけで、前を向き直せば海と太陽しかない。朝焼けはもう終わり。水戸は居ない。
その場に座り込んで、膝に額を擦り付ける。
「どうしようもなく好きなのはオレだ」
好きなんだよ、ずっと。ずっと前から今も変わらず。
顔を上げて、朝日を目に焼き付けた。そこに変わらず在り続けるしぶとい景色。絶望なんか目の前にはない。
「まだやれる、まだやれる」
やれるんじゃない。やる。オレにはまだ、やれることがある。バスケがある。
てめえのことはてめえで決めな。
この先、どう生きるかは自分自身が決める。決めるのはオレだ。
黙々と飛ぶ蛍の小さな光は、オレにはもう見えない。




10へ続く。
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