長編

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水戸にあのメールを送って三日。返信はなかった。
元々あいつはメール無精というやつで、返信がないこともそれ以前に連絡がないこともしょっちゅうだった。だから、今回もそうだと思っていた。オレは苛ついていた。別に進路を水戸に決めて欲しいなんて甘ったれたことを考えていた訳じゃない。優しくして欲しかった訳でもない。逆に急に優しくされても気持ち悪いし、そんなもん望んでない。でも会いたかった。喧嘩をしても良いから会いたかった。でも断られた。それだけで、昨日のオレの感情は簡単に沸点に到達した。水戸はあの時、日曜に来ると言った。それが異常な位腹が立った。加えて、上手くいかない所にいつもの正論を吐き出されたら話もしたくなくなる。ただでさえ長らく会っていなかった。多分二ヶ月、いやそれ以上か。数えるのも億劫になるほどとにかく長い間。そこに持って来て、てめえで決めろ。
思い出しただけでとにかく今オレは、要は!ムカついてんの、すっげえ!
「すげえ顔……」
「あ?」
「こっえー」
「つーかお前!今オレの前で親子丼食うな!腹立つ!」
「キミの理不尽な怒りには慣れたけどね」
菅田は食堂で、七割がた親子丼を頼む。そしてそれを、それはそれは美味そうに頬張る。先週なら別に良かった。でも今日は駄目だ。親子丼を見るだけで水戸の顔がちらついて、連鎖的に三日間音信不通のあいつにも腹が立って、オレの怒りを駆り立てて仕方ない。
その理由を知りもしない菅田は、理不尽な怒りの矛先を向けられても微動だにしなかった。さすがコート上の監督。ポイントガード菅田。
「三井さぁ、進路決めた?」
「またその話かよ、聞き飽きた」
「でも現実的にどうする?」
「どうすっかなぁ」
オレと菅田の会話は、最近はほぼそれだ。家で飲んでも外で飲んでも、それ以外は菅田の彼女の話という身にもならないそれをほんの数ミリ程度。要は二人共バスケを辞めたくなかった。出来れば続けたかった。別に今すぐ就職活動しなければならない訳じゃない。でもバスケだけに集中出来る時間も終わる。続けるべきか辞めるべきか、答えが出せないままでいる。そうしてうだうだ考えているとシュートが決まらないという、最悪な負の連鎖だった。
結局まとまらないまま、怒りの塊は真ん中に構えたまま、部活は始まった。三年にもなるとゲームに出ることも増えた。二番のポジションはオレに定着しつつある。もっとも、この不調が続けばどうなるかは分からないけれど。何しろ大学バスケ部は人数がとにかく多い。大学二部リーグから一部リーグに昇格して、ポジション争いは更に熾烈になった。負けず嫌いが拍車を掛け、更にバスケに没頭するしかなくなる。そこでまた、余計に進路に悩む。バスケを続けるのかどうするのか。現実の厳しさは分かっていた。続けたとしてもその先はどうする。でも辞めたくない。このジレンマが、負の連鎖というか悪循環というか吹き溜まりというか、嫌なキーワードを浮き彫りにさせる。
「三井ちょっと」
全体練習が終わり、自主練しようとしていた所で監督に呼ばれた。はい、と返事をして監督に近付くと、上から見下すように睨みつけられた。この人はまあ、ちょっとしたヤンキーだ。高校のウィンターカップで負けた時に見せた遺憾の表情と「惜しかったね」というあの言葉、あれは虚像で、オレを油断させる為に使った罠だ。あと、初めて大学に練習見に行った時も、別人の仮面を被っていたに違いない。推薦組は皆、口を揃えて言う。
「お前、将来バスケどうするんだ?」
「……あー、いや、まあ」
いきなり核心突いてくんなよ、この元ヤン。しかもこの元ヤンはでかい。赤木以上はある。その人に見下ろされ、酷い時は怒鳴られる。でも部員からは嫌われてはいなくて逆に好かれていた。厳しくても愛情があるからだ。勝った時は、オレ達以上に喜ぶ。しかも泣く。泣上戸。その上飲んで泣く。それだけは最悪だった。不意に、水戸の言葉を思い出した。「愛情のある暴力を振るう大人が居るのはいいことだ」あれはいつだったか、確か家に初めて来た時だった。暴力は振るわねーけどな、そう思いながら、胸がちくりと痛んだ。針に刺されたような感触が残った気がして、こういうの本当にあるんだ、と知った。
監督は黙っていた。オレを見下ろして睨み付け、ひたすら沈黙を貫く。
「あの、監督?」
その目に耐え兼ねて声を出すと、彼は腕を組んで言うのだった。
「バスケ続けたいんだったら、コーチやってみる気ねえか?」
「は?コーチ?」
「案外向いてんじゃねえかと思うんだよな」
似たような台詞を、どこかで聞いたことがあるような、そんな気がした。でも今は思い出せない。まさか出て来ると思わなかったコーチという言葉に呆気に取られて、それどころじゃなかった。
「お前は視野が広いしセンスもある。試合は俯瞰で観れるし、後輩指導も上手い。俺が言うんだ、間違いねえ。卒業したら神奈川帰んのか?」
「まだ決めてないです」
「もし本気でやる気あんなら、神奈川に出来た新生プロバスケチームに推薦してやってもいい」
「え、ちょ、監督」
「あん?何だよ」
だから怖いんだよ、この元ヤン。仮面野郎。嘘っぱち。
「やるなんて一言も言ってないんすけど、オレまだ三年だし。あと一年以上あんのに」
その一年以上先のことをずっとうだうだ考えてんのはどこのどいつだ。自分自身に突っ込んだ。オレの言葉に、監督は鼻で笑う。
「三井お前、例えばこの先バスケ続けて食ってけるか自信ねえんだろ?でもやりたい、先が不安、そんなことばっか考えてるから決まるシュートも決まんねえんだよ」
全くその通りで反論も異論もない。だから口を噤んで黙ったままでいた。
「あと一年、結果残してみな。結果が残せなけりゃどっちみちバスケは終わりだ。やりたきゃお遊びでやれ。まあ、まだ三年だの何だの言ってるうちは何やっても無意味だ。今すぐ辞めちまえ」
また反論出来ない。水戸よりキツい、さすが監督。
「でもお前には指導者の才能がある。使えるもん使わねえでどうする」
「……指導者、コーチ」
「まあ、バスケと生きる限り目の前がいつでも崖っぷちってことに変わりねえけどな。お前が立とうとしてるのはそういう世界だ。よく考えな」
お遊びか金儲けに使うか、はは。と、最後捨て台詞のようなものを残して監督は去った。
お遊びか金儲けか、ねえ……。
ボールを突きながら、しばらくの間監督の言った言葉を反芻する。指導者の道だったらバスケと関わっていける。でも、現役では続けられない。どうする。どうすればいい。一つ息を吐いた。ドリブルをして、シュート。決まらなかったそれは、簡単に迷いが消えないことを容易に示している。リングに弾かれたボールは、大きくバウンドした。案外向いてる?オレが?似たような台詞を、どこで聞いたっけ?ボールを拾いに行きながら、頭を捻った。結局分からなかったから、コートを見渡して練習風景を見る。そこでは1on1をしていたり、黙々とシュート練習をしていたり、様々だった。向こう側の1on1、それを見ながら、今左にフェイクすれば抜ける、そう思った。結局それは止められて、またディフェンスに戻る。フェイク入れろよ、と考えながら不意に、湘北の決勝リーグを思い出した。
『案外向いてんじゃねえの?』
『何が?』
『さあね』
あの台詞、水戸だ。思い出した。でもあいつは指導者の話なんてしなかったし、本当にその意味かどうかも分からない。
『他の道もあんじゃねえの?』
『バスケ辞めろって言いてーのかよ』
『じゃなくて、他にもやれることあんだろ。その先は自分で決めろよ、あんたのことだろうが』
てめえのことはてめえで決めな。
もしかして、まさか、いやでも。
ボールを片付けて、部室へと急いだ。シャワーも浴びず、鞄から携帯を取り出して水戸の名前を出す。通話ボタンを押すことを躊躇った。くそ、知るか。そう思った時には通話ボタンを押していて、耳に携帯を当てた。しばらく待つも、流れるのは『お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていない為掛かりません』という何とも虚しい声だった。
電源切らしてんなよ、アホ!
それから一週間、水戸の携帯に何度掛けても、同じ業務的な言葉が耳を過ぎるだけだった。水戸の声はあれから一度も聞いていない。これで最後にする、そう思いながらアパートで通話ボタンを押した。押しながらいつも、何かに賭けていた。これで最後、いつもそう思っていた。今日は出るかもしれない、今なら掛かるかもしれない、最後だし、これで最後だから、毎回「最後」は続く。そして続けた結果、賭けには毎度敗れていた。これで最後、何度目の最後か分からないと感じた瞬間、やはり耳に届くのはいつもの業務連絡でしかなかった。オレは携帯を投げた。それは床に弾かれて、転がった。ローテーブルの上にある灰皿が目に付いて、今度はそいつを手に取った。投げようとした。投げたかった。その瞬間、水戸の微かに微笑む顔を思い出して、投げられなくなる。結局手の中に灰皿を収めたまま、オレはその場に立ち尽くした。
終わったんだ。
今更ようやく気付いた。オレと水戸は終わった。灰皿を、ローテーブルに静かに置いた。安いガラスの灰皿を木のテーブルに置くと、小さな音なのに酷く大きく響いた気がした。あんなメール一件で終わりなのか、返信もなく電話も通じない、こんなに呆気なく。固まった足を動かして、転がった携帯を手に取る。その場にしゃがみ込んで、メールの画面を開いた。自分が送ったそれを見ると、あまりに端的過ぎてぞっとする。
『もう来んな』
こんなもん信じてんじゃねーよお得意のめんどくせえで終わらせろよ何でここに、何でここに。
何でここに水戸は居ないんだろう。
座ったまま辺りを見渡すと、所々点々と水戸の残骸が転がっている気がした。灰皿は勿論、掃除もろくにしなかったオレがそこそこ部屋も綺麗にしている。クローゼットを開ければ水戸の着替えもまだあるし、冷蔵庫を開ければそれなりに食える物が入っている。一人暮らしが三年にもなればゴミの分別もきちんと出来て、「それ資源ゴミだろ」と言われることもなくなった。
掃除、洗濯、料理、ゴミ、それは全部自分で出来るようになっていた。全部全部全部。教わったことは全部。
元々終わっていたようなものだった。最近は話せば喧嘩ばかりだったし、会っても楽しくも何ともなかった。ただ空気が悪くて重くて、口を開くのも嫌だった。それは水戸も同じだったと思う。それでもあいつはこの間、「日曜は?」と聞いた。「そっち行ってる」とも言った。分かっていた。水戸は好きでもない奴の所にわざわざ二時間掛けてまで来ないことを。それなのにオレは、断ち切った。自分で。自分からそうした。まるで、もうお前なんか要らない、そう言ったみたいに。
立ち上がって歩いて、キッチンにある冷蔵庫を開けた。でもそこには、食材が転がっているだけで、食える物は入っていなかった。何もなかった。何がそこそこ食える物がある、だ。何にもない。ビールもない。冷蔵庫を閉じて、炊飯器を開けた。米が炊いてあった。以前水戸が言った。「作るのめんどくさかったらおにぎりでも食いなよ」そう言っていた。それで握ってくれた。味噌汁とそれだけで十分美味かった。あいつは、きちんと優しかった。言葉は厳しかった。それはずっと前からだ。態度も口調も。でも裏を読めばそこには優しさがあった。この間も多分そうだ。オレは自分で決めるからだ、何もかも。出来るからだ、やれるからだ。それでも辛かった時は、ベッドに寝ている時に後ろから抱き締めてくれた。眠くてどうしようもなかった時も、拒否しなかった。濡れた髪の毛が当たって冷たくても、「冷てーよ」と、とりあえず悪態は吐いても笑った。嬉しかったからだ。好きなんだなって、ただそう思えたからだ。そういう瞬間も、笑い合ったことも少なからずあって、楽しかったこともあった。少なからずなんかじゃない。何度も。何回も。小さいことを考えれば思い出せば数え切れないほどある。
今思えば、あんな喧嘩の数々なんて大したことなかった。ここに、この先水戸が側に居ないことの方がずっと大きい。
「水戸、ごめん」
今更言った所で、ここに水戸は居ない。泣いても叫んでも、もう居ない。




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