長編

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煙草の煙を吐いた。空を見上げると、晴天がずっと続いている。夏の暑さも変わらずそのままで、もう八月になる。ここに居ると、夏の青臭い匂いも噎せる空気独特の立ちこもるそれも、不思議とあまり感じなかった。機械油の匂いが、それを消してくれている。隣では、同じ職場の先輩であるやっさんが、「あっちーな」と苦笑していた。俺もそれに、「そうっすね」と返すと、彼も煙草の煙を吐き出した。夏場は暑くて、とてもキャップは被っていられなかった。酷く蒸すからだ。頭を掻くと、汗が滲んでいるのが分かる。
「洋平!ナット緩くなってんぞ!」
何やってんだ!離れた場所から、シゲさんの怒鳴る声が聞こえた。
「すんません、今行きます」
またやっちまった、そう思いながら煙草の火を消そうと灰皿に押し付ける。どこが緩かったか、頭の中で自分の仕事を思い出しながら、もう一度頭を掻いた。
「若い奴は堪え性がねえのに洋平は耐えるねぇ、シゲさんのしごきに。怖くねえのか?」
「全然。むしろ嬉しいですよ。愛情がないとあの人は怒んねえっすから」
息を吐いて眉毛を下げて笑うやっさんは、その後口癖のような言葉を俺に言う。頑張り過ぎんなよ、と。それに会釈してから、工場に戻る為に足を踏み出した。温い風がうなじを掠める。少しだけ短くなった襟足を、あの人は知らない。




高三の春、たまたまバイクで旧道を走っていた時、自動車整備工場が目に付いた。何気なく停めると、工場の上に「永瀬モーター」と書いてある。それなりに広い工場の横にある事務所らしき場所のガラスドアに、広告の裏と思われる紙が貼ってあった。そこには手書きで、「社員もしくはアルバイト募集!未経験者可」と殴り書きのように書いてある。広告の裏はねえだろ、と軽く吹き出してそれを眺めていると、急にドアが開いた。そして、そこから出て来た茶髪で短髪の男性と目があった。反射的に会釈すると、
「興味ある?」
と言って彼は人懐っこい笑みを浮かべて笑った。初対面から馴れ馴れしく話し掛けるタイプの人間は苦手な方だけれど、不思議と彼に嫌な雰囲気は全くなかった。だから普通に、興味があるかどうかを考えることが出来た。興味がない訳じゃない。以前三井さんのアパートでぼんやりとテレビを眺めていた時、自動車整備士の番組が流れたことがある。えらく渋い中年男性が、顔や手を油塗れにしながらも懸命に車を整備していた。かっこいいな、と単純に思えて、結構真剣に見ていた。その時、後ろのベッドから三井さんにも同じように「興味あんの?」と聞かれた。その時俺は、「まあ少し」と答える。だけれどその番組を見ている最中は、口を閉ざしたままでいた。「少しじゃねーじゃん」緩く笑いながらそう言って、あの人は寝た。
「……あります」
「見てく?」
バイクこっちに停めな、そう言うと、茶髪の男性は俺を手招きする。バイクを押して歩き、指定された場所に停めた。どうやらそこは、職員用の駐車場のようだ。何台か、車が止まっている。事務所からも整備工場からもさほど離れていなかった。何高?制服を着ていたからかそう聞かれ、湘北です、と答える。次は、何年?と聞かれたから、三年です、と答えた。そして彼は前を向いたまま、オレは永瀬です、君は?と言う。だから永瀬モーター、と考えながら、水戸洋平です、そう返した。そして、振り返って俺を見るその人に立ち止まって頭を下げる。礼儀正しいねー、と間延びした声で言われた頃、整備工場に着いた。そこには顔を汚した目付きの悪い中年男性と、同じく顔を汚した永瀬さんと同年代らしき男性が居る。二人共車を整備している最中で、俺達二人の足音に顔を上げた。前者の中年男性は、俺がテレビで見た渋い中年男性とよく似ていた。顔ではなく、雰囲気や醸し出す全てが。
「シゲさん、この子が興味あんだって。見せてやってよ」
「小僧じゃねえか」
声まで渋い。目が合ったので頭を下げると、彼は舌打ちをする。これが職人。一目見て、何となく理由もなくそう思った。素直に職人だと思える大人は、ばあちゃんと料理人の高橋さん以外でこの人が初めてだった。
「そう言うなって。あんたが厳し過ぎるからさぁ、前の子もすーぐ辞めちゃったし」
勘弁してよ、永瀬さんはそう言うと、彼は盛大な溜息を吐いた。
「しょうがねえな、おい!小僧!」
「はい」
怒鳴るようなその声に普通に返事をすると、シゲさんと呼ばれた中年男性は少し驚いたような顔をして俺を見る。
「こっち来な」
言われた通り近付くと、車のエンジン部分が剥き出しになっていて、独特な匂いがする。見てみろ、と言われ覗き込むと、複雑な作りの部品が収まっていて、見ていて体が騒ついた。単純に、すげえ、そう思った。
「車好きなのか?」
車が好きか、と聞かれたら少しだけ違う気がした。勿論嫌いじゃない。興味もあるし、許されるなら乗りたいとも思う。でも今は、バイクの方が好きだった。
「嫌いじゃないけど今は多分、整備士って仕事に興味ある気がします。車は乗ったことねえし正直まだ分かんねえです。どっちかっつーとバイクかな」
「お前面白えな。名前は?」
「水戸洋平です」
そう言ってから深々と頭を下げると、洋平、と名前を呼ばれる。顔を上げると、目付きの悪かったその人は、顔にくしゃくしゃの皺を寄せて笑った。
「社長さんよ!こいつ採用!」
いや、まだ俺働きたいとか何も言ってねえんだけど、と一瞬考えたけれど、この人が俺に仕事を教えてくれるならそれは物凄いことなんじゃないかと思った。だからその有り難い申し出は決して拒否することはせず、今のバイト先を辞めることを既に考え始めていた。
結局、早々に明日の放課後からアルバイトとして永瀬モーターで働くことになった。だから、その日のうちにファミレスとガソリンスタンドのバイトを辞めることを告げる。引き止められもしたけれど、やりもしない受験をネタに上手く誤魔化して辞めた。元々、そろそろ辞めたいとは言っていた。どうせならもっと、手に職を付けるような仕事がしたかったからだ。二つのバイトは嫌いじゃなかった。でも、長く続けようとも思っていなかった。高校入学と同時にやり始めて凡そ二年、バイトにはやり甲斐を感じたことは正直に言うとなくて、要は金が稼ぎたいだけだった。
その日の夜、自宅アパートで三井さんに電話を掛けた。彼は出なかった。まだ部活が終わっていないのかもしれない、単純にそう思いながら、煙草に火を点けた。三井さんとは、何となく続いていた。二年の三学期、あの人がどういう訳かここで母親と話していたことがあった。あの時は荒れた。それ以前から、荒れることはしょっちゅうあった。億劫で面倒だった。でもそれでも好きだった。何故かと考えても分からなかった。何があろうが、俺はあの人を思うことは変わらなかった。今は、あそこで働くことを無性に、三井さんに話したいと思っていた。きっと、良かったじゃん、と言って笑うと思う。
高三の時は、それなりに会えた。永瀬モーターでバイトをするようになってからは、夜は八時には帰宅出来るし日曜は休みだったからだ。会っても勿論喧嘩はした。めんどくせえな、そう思うことも殴りたいと感じることもしょっちゅうだった。三井さんは多分、自分のバスケが上手くいっていない時期があったように思う。そういう時、何も分からないから、横向きで寝ている時に後ろから抱き締めた。すると少しだけ、機嫌が良くなる。そういうことは何度もあった。結局何が理由かは分からないままで、だからといって俺は何も聞かなかった。あの人から喋ることも勿論ない。俺達は互いに、自分の話はあまりしなかった。話すべき話をしないまま、流れるように体だけは何度も繋げた。
何度か、東京の街を歩いた。彼の家に泊まると、俺は自分が使う整髪料がない。だから髪は下ろしたままだった。彼はそれを、「そっちのがいいじゃん」と言う。「ちょっと前髪と襟足長いけど」そう言って、自分のベースボールキャップを俺の頭に被せた。もうどうでも良かったからそのまま好きなようにさせておいて、東京の街を歩いた。あそこは酷く疲れる場所だった。それでもあの人は、あそこに行きたい、だの、ここに行きたい、だの、あれが食いたいこれが食いたい、と酷く楽しそうだった。俺はどっちかと言うと、あの人が連れて回る場所よりも、楽しそうな顔を見る方が好きだった。
湘北の夏の大会も、予選も決勝リーグも、時間が合えば三井さんは観に来た。そこで俺は少しだけ驚いた。俺達が声を上げて応援する中で、一人じっと試合を見続けていたからだ。声を上げるでもなく、何かアドバイスするでもなく、時々顎を親指でなぞりながら、ただじっと観戦している。もっと馬鹿騒ぎするタイプかと思っていたけれど、それは違った。へえ、とただ思った。試合は勝ったけれど、帰り道にあの人は言う。
「全国は行けてもその次が難しいかもな」
と。俺は目を開いた。
「何で?」
「バスケはチームプレイだから。流川と桜木だけじゃ勝てねーってこと。二人と周りのレベルが違い過ぎる」
「なるほど」
「お前、桜木に言うなよ?分かってるだろうから」
思わず黙った。そのまま言葉を発さないまま三井さんを見ていると、彼は顰めっ面で、何だよ、と言う。
「いや、やっぱあんたって凄いんだね」
「は?何が」
「かっこいいじゃん」
「はあ?今更かよ、気付くのがおっせーんだよ」
「案外向いてんじゃねえの?」
「何が」
「さあね」
その時俺は何となく、この人がコーチの道を選べば面白そうだと思った。でも、現役で続けたいだろうからそれは言わなかった。どの道、俺が決めることじゃない。続けるのか辞めるのか、はたまた違う道を選ぶのか、それを決めるのは本人以外居ない。
結局湘北は全国には行けたものの、一勝して次は負けた。全国制覇は叶わなかったものの、花道はアメリカに行く道を選んだ。卒業まで待ち、卒業と同時にアメリカに旅立つことを決めた。花道に両親は居なかった。彼の父親の妹、つまり叔母さんが親父さんが亡くなってからずっと、花道の面倒を見ていた。看護師である彼女は夫を早くに亡くし、子供が居なかった。だけれど卑屈にもならずとても気持ちの良い真っ直ぐな人で、昔から花道を可愛がっていた。だから迷わず引き取り、全ての養育費を支払っている。叔母さんは泣いた。花道と離れ離れになることを泣いた。けれど最後は笑って見送ってくれた。
俺がバイクの後ろに花道を乗せ、成田空港まで送った。他の四人は電車で来る予定だった。先に着いて、搭乗時間まで椅子に座って待っていた。その時、花道が声を出した。
「寂しくなるなぁ」
「お前はバスケに没頭するよ、大丈夫だって」
「洋平、お前寂しいって分かってないだろ?」
「そっか?」
「オレはお前が居ないと寂しいよ」
「まあ、また会えるだろ。俺も行くからさ、アメリカ」
金掛かんなぁ、と笑って言うと、花道も笑った。それからふっと息を吐いた。
「寂しいってのは一人じゃ分かんねえもんだ」
俺は何も言わずに花道を見た。
「相手が居ねえと、寂しさなんて知らないままなんだよ」
本当は知ってる筈だろ?花道は言葉の置き土産を残して、飛行機に乗った。分かってるよ、と返そうにも、まだ分かんねえよ、と返そうにも、あいつはもう居ない。飛行機の中だ。相手が俺らだからか別れもあっさりしていた。海外旅行出来んじゃん、と張り切ってもいた。俺も春からはインターン見習いとして、今まではバイトとして雇われていた永瀬モーターに就職する。
そこからは予想外の忙しさだった。バイトと就職は全く違うもので、朝から晩までひたすら働いた。だけれどそれは、これも予想外に整備士の楽しさを教えてくれた。元々働くことは嫌いじゃなかった。バイトにしても何にしても。忙しさが苦にならなかった。三級自動車整備士の勉強も然りだ。

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