長編

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「み、水戸くん、英語の課題プリント、もらってもいいかな」
「あ、今日だっけ?」
「うん。ごめんね」
「何で石川さんが謝るの?俺こそごめんね、忘れてて」
一限が始まる前の教室で、クラス委員の石川さんが俺の机の前に立っていた。既に終えていたプリントを机の中から取り出し、彼女に手渡す。どことなく所在ない笑みを浮かべ、彼女は、ありがとう、と小さく言った。季節はとっくに夏になっていて、蝉の鳴き声が毎日うるさい。開いている窓からは生温い風が入り込んでいて、カーテンを揺らしている。机からはもう離れた石川さんは他の子と話していて、それを見て不意に思う。立ち上がって近付くと、小さく話し声が聞こえる。
水戸くんって優しいよね。そうそう怖くないよね。この間ゴミ捨て手伝ってくれたよ。
「石川さん」
「え?!何?」
彼女はぎょっとした顔で俺を見た。ご心配なく。全部聞こえました。残念ながら優しくはないけど。
「花道ってプリント出した?」
「まだかな」
「あいつには俺から言っとくよ。今はバスケで手一杯だから」
「あ、ありがとう」
石川さんは少しだけ驚いたようだったけれどその後笑って、それからまた他の子に視線を戻した。俺は席に戻ってまた、外を眺める。教室からは話し声が絶えなくて、それに合わせて蝉の鳴き声も忙しなく続く。
お前は女に優し過ぎる。
そんなことねえだろ普通だよ。でもそう言った所であんたはもう思い込んでるだろ?
連絡もして来ねーし。
掛け直した所で寝てるだろ朝だって花道の朝練付き合ってたら気付かねえし授業始まるし掛け直す時間になったらあんたが部活始まってんじゃん。
お前本当は女の方がいいんだろ。
誰がいつそんなこと言ったよ。そんなんだったら二時間も掛けて行かねえよ。
思い出して、頬杖を付いた。あれから二度ほど会ったけれど、あの時の話は一切しなかった。言い訳じみたそれを言えば、あの人は納得したんだろうか。煙草が急に吸いたくなる。一限目の授業を受ける気分にはならなくて、席を立った。
そのまま屋上に向かう途中も、容赦なく声は聞こえる。廊下に居る生徒達の声が、耳鳴りのように奥に残った。けれど屋上に続く階段を上る途中から、それは一気に消える。あの覚束ない声達はどこに行ってしまったのか、分からなくなる。屋上のドアを開けると、急に明るくなった。眩しさに目を細め、目が慣れた頃また歩き出すと、定位置に三人が座っている。お、洋平ー、とそれぞれが声を掛け、煙草を吹かしていた。よう、と声を掛けてから俺も座ってコンクリートに凭れ、煙草に火を点ける。それを吸って吐き出すと、体の力が抜けた気がした。目を閉じて、ただ呼吸をする。
「洋平」
「んー?寝かせろよ」
高宮の変わらない口調に安堵しながら出した自分の声が、あまりに気が抜けていて少しだけ驚く。
「これ貸してやっから聞いてみな」
「ん?」
目を開けて差し出された物を見ると、着物を着た見たことのない親父が写ったCDだった。
「何これ、誰こいつ」
「古今亭志ん朝よ。笑えるぜ?」
このジャケットに写っているのはよもや自分かというくらい、堂々とそれを渡した高宮は、これが落語のCDだと俺に言った。
「イライラした時は落語に限る」
「ふーん、サンキュ」
とりあえずそれを受け取り、脇に置いた。それから他愛ない話をしていると、一限が終わるチャイムが鳴る。
「洋平のカレー食いてーなぁ」
高宮はまた、脈絡もなくそんなことを言い出した。
「このイエローが。デブ!」
「イエローって何だよ」
「戦隊モノだろ」
「イエローはカレーが好きって相場が決まってんの」
「それってオレらがガキの頃の話だろ?今はちげーんだよ、母親好みのヤローばっか集めてんの、知らねーの?」
「え、まじか、知らねー」
「つーかお前何で詳しいんだよ、まだ見てんじゃねーだろな?」
「アホか!姉ちゃんに聞いたんだよ!」
「雄二はシスコンなんだよなぁ、旦那に取られて悔しいからコンパでも歳上ばっか狙ってんの」
「うるせーんだよ!」
「撃沈!撃沈!沈没!」
「黙れヒゲとデブ!」
こいつら本当にくだらない。くだらな過ぎて笑えてきて、声を上げて笑うと三人が揃ってこっちを見た。
「カレーだっけ。作るよ」
立ち上がって、落語のCDも手に持った。三人は俺を見上げて、少しだけ妙な顔をしている。何?と聞くと、にやりと笑った。
「昼メシはカレーだな」
「授業どうすんの?」
「そりゃお前、カレーと授業どっち取るよ」
聞くまでもねーだろ、三人が頷きながら言って、花道も誘うか、と俺が言うと、あいつどんだけ食うんだろうな、と三人は笑った。揃って歩き出してから、忠と大楠は、未だに歳上狙いのコンパの話をしていた。大楠はあの日結局どうなったのか、俺は何も聞いていない。大楠も何も言わなかった。俺とあの人のことも聞かなかった。自分から話す気もなかった。
適当に俺ん家集合、と三人に告げ、休み時間が始まったばかりの二年四組まで戻る。後ろの席の赤頭は、机に突っ伏して寝ていた。
「花道」
「ん?」
寝ぼけ眼で顔を上げ、俺を見る。
「カレー食う?今から俺ん家で作るけど」
「食う」
「じゃ、帰るか。部活ん時また来りゃいいだろ」
そういうと花道は、大欠伸をして体を伸ばした。その後のそりと立ち上がり、鞄を手に取る。俺も机から鞄を取り、連れ立って教室を出た。
「あ、お前英語の課題プリントやった?」
「何それ、やってねーよ」
「鞄に入ってる?」
「分かんねー。多分」
「じゃあ俺ん時でやりな、見てやっから」
「えー……」
あからさまに不満気な花道の後ろ姿を見ながら、また背が伸びたんじゃないかと思った。不意に俺は、こいつも大学行くとか言い出すのかな、と何となく思う。それは結局聞かないまま、校舎を出た。自宅アパートに戻ると、当然室内は蒸していた。我が家のようにテーブルの前を陣取り、あっちーな、とぼやく花道を他所に、俺は一度窓を開ける。それなりに風は入ったけれど生温く、あち、と自然と声が漏れる。腹減ったなぁ、と呟く花道を、ちょっと待ってな、と窘めながら、冷蔵庫を開けた。グラスに烏龍茶を注ぎ、彼の前に置く。
買い物はしなくても良かった。材料はあって、カレーに必要な物を出した。それから窓を閉めて、エアコンを点ける。機械音がそこはかとなく聞こえ、蝉の声も同じようにぼんやりとしか聞こえなくなる。シンクで手を洗い、玉ねぎを切った。それを微塵切りにしている途中で、インターホンが鳴る。
「花道出て。あいつら」
「おせーんだよ」
花道は少しだけ猫背だ。その丸い背中を追って、それからまた包丁に目を戻す。あの人が引っ越した日、俺は何を教えたっけ?夜は炒飯にして、翌朝はトーストを焼いて目玉焼きを作った。トーストの焼き方さえ知らなくて、そんなことも知らねえの?と呆れた。全てあの優しそうなお母さんがしていたらしく、生活能力もここまで低いとそれもまた才能だと思った。昼はうどんにした。生姜を擦って入れると美味いことを教えると、子供みたいに喜んだ。夜は、夜は。なんだっけ?
「洋平ー。差し入れ」
「お前ら、昼間っからよくビール買えたな」
「今は飲まねーよ。また鍋の時飲もうや」
「夜は鍋かね」
「俺は家政婦じゃねえぞー」
笑って言うと、三人も笑ってテーブルの前に腰を下ろす。三人にも烏龍茶を出すと、四人は適当に喋り出した。花道に、英語のプリントやれよ、と施してから、またカレー作りを再開した。しばらくして、出来たカレーを運んで行く。美味そー!と単純明快な声が聞こえるのが嬉しくて、少しの間その光景を眺めた。カレーがみるみる内に奴らの胃袋に収められて行くのを見ながら、不意にテーブルに置いておいた落語のCDが目に入る。古今亭志ん朝ねえ、とぼそり呟いた。聞いてみようかとほとんど使っていない小さなデッキの電源を入れ、CDケースを開けた。聞くか?と高宮から声を掛けられ、んー、と曖昧に返答する。再生ボタンを押すと、流暢に喋り出される言葉の羅列が、何故か妙に耳馴染みが良かった。進んでいくのを耳の中に入れていくと、その言葉を喋る古今亭志ん朝という人の頭が良すぎて笑えて仕方ない。
「ははっ!すっげえ、まじでくっだんねえ!」
真面目に面白くて笑い出すと、四人がぎょっとして俺を見た。それから三人が高宮を見て、しばらく見詰め合っている。何だ?と思いながらも、とにかく流れる落語が面白くて聞き入った。
「高宮、他にもあったら貸してくれよ」
「オススメは立川談志だな、あの人は半端ねえぞ」
俺は自分で作ったカレーも食わずに、ずっと高宮の落語の話と、デッキから流れる落語に聞き入っていた。
しばらくして、その場は解散になる。花道はかろうじて出来た課題の提出と部活の為に一度学校に戻り、他の連中も帰って行く。夜は本当に鍋をするらしく、一度帰って着替えて来ると言った。高宮は立川談志のCDを持って来るとも。そして、買って来たビールを連中は、今日飲まなければ気が済まないらしい。泊まるつもりだな、と半分以上確信する。バイト代も出たばかりだし、一服したらスーパーでも行くか、と煙草を持ってベランダに出た。
煙草に火を点けて、吸い込んで吐き出した。未だに熱気の伴う空気に混じった煙は、空中で揺れる。うるさく鳴き続ける蝉の声は、いつ止むかもわからない。花道が居る時は、自然と煙草を吸いたいとは思わなかった。それが苦痛でもなかった。同じバスケット選手でも、あの人に対する感覚は全く違う。俺は彼の前でも平気で煙草を吸って、平気で暴力を振るう。離れて行く、とどこかで考えてもいたけれど、諦めてもいた。これで終わりになれば、あの人はきっとバスケだけに集中する、とも思った。それが良いと頭の中では理解していたけれど、納得が出来ない自分も居た。三井さんのことを考えると、いつも思う。相反する感情が、同じ場所に混在する、と。
吸い終わった煙草を灰皿に押し付け、ベランダから部屋に戻る。花道が課題をやる時にCDは切っていた。テーブルの上を片付けながら、続きを聞こうと電源ボタンを押した。シンクにグラスを片付けると、残ったカレーが目に入る。そういや食ってなかった。腹が減っていることに今更気付いて、炊飯器を開けて皿に飯をよそった。その上にカレーをかけると、香辛料の香りが漂う。
三井さんが東京に引っ越した翌日の夜、作ったのはカレーだったと思い出した。何作る?と聞くと、カレー、と返ってきたからだった。カレーなら日持ちするし、滅多に失敗しないし、教えるのもいいかと思って買い物に行ったのだった。スーパーで買う物を教え、アパートに戻って作り始めた。その日作ったのは、絶対に失敗しないやり方で、自分の作り方じゃなかった。俺はばあちゃんに教わったやり方で作っているけれど、それを教えるのはハードルが高過ぎるからだ。箱に書かれている通りに作ると勿論失敗はしなくて、それでもあの人は満足そうだった。しかし一口食べると、妙な顔をする。何?と聞くと、何か違う、と。やっぱりぜってー違う、と言い張るのだった。もう何だよ、と呆れたように言うと、お前ん家で食ったやつと違う、そう言うのだった。
「食ったことあったっけ?」
「あるよ。お前ん家でAV見付けた日」
「ああ、大楠の」
「カレー食ったじゃん」
「よく覚えてるね」
ふっと鼻で笑われ、少しだけ苛ついた。だから言ってやった。
「あのカレーはあんたには無理」
「何で!」
「ばあちゃんに教わったやつだから。箱見て四苦八苦してカレー作ってる人にはレベル高過ぎんの。また今度ね」
そう言うと、今度は黙って食べ始める。俺は結構、三井さんが作った簡単なカレーは好きだった。人が作る料理は美味いんだ、と改めて実感した瞬間だった。カレーだけじゃない。前日作った炒飯も、翌朝焼いたトーストも目玉焼きも、昼食のうどんも、教わった通りに作ったらしいべちゃべちゃの炒飯も、俺は好きだった。美味かった。
自分で作ったいつものカレーを、テーブルに運ぶ。それからデッキの再生ボタンを押して、聞いた箇所まで早送りをする。次は確か、崇徳院の筈だ。流れてくる落語を聞いて、それの流暢な言葉に、また俺は笑う。どうやらそれは、恋煩いの落語だった。参詣に行った時に休憩した場所で女中と三人で居た女に惚れ、それを思い床に長らく伏せている。
恋煩い、ねえ……。
『水も垂れる良い女だったんだよ』
水も滴るだろ、垂れるって何だよくっだらねえ、まじで。
『みかんでもかぶってたのかい?』
『水も垂れるって言ってるだろ!』
みかんかよ、ほんとくだらねえ。
『瀬を早み岩にせかるる滝川の』
何?短歌?
『われても末に逢はむとぞ思ふ』
下の句が。なるほどね。それが崇徳院の歌って訳か。
『この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来何を見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ』
手が止まり、カレーを食べるスプーンが皿とぶつかって自然と音を立てた。別れても末にはってそんな純粋な愛情、俺は今まで見たことも聞いたこともない。何を見ても全部がその人に見えるなんて、そんな恋煩いした奴も知らない。そこで思考が止まる。また再開する頃には、嘘吐け、と思った。落語より何より、俺の思考回路が一番笑える。
さっき煙草を吸って思い出した奴は誰だっけ?カレーを食ってあの人の作った失敗しないカレーを好きだと思った奴は誰だっけ?
「思いっきり恋煩い」
フローリングに倒れるように仰向けに転がって、自嘲気味に笑う。
「瀬を早み岩にせかるる滝川の、われても末に逢はむとぞ思ふ、だっけ?」
手の甲を目に当てて、随分と見ていないあの人の笑顔を思い出した。
「……会いてえ」
この先どう転んだ所で、行く末なんて分かり切ってる。




7へ続く。

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