長編

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目の前にある経済学の本とレポート用紙を前に、オレの手は固まっている。全く身が入らない。今週末提出するレポートを仕上げる為に今日は早めに部活を切り上げ、明日も午前中は講義を取っていなかった。要するに早く仕上げないと間に合わない。それなのに、本を捲る手は止まり、レポート用紙に乗せたまま手も動いていない。それの一番の原因は、一ヶ月ほど前に大楠に頼まれて開いたコンパにあった。帰宅後、オレと水戸はそれはそれは盛大な喧嘩をした。終わった、と思うほどだった。実際終わったのかもしれない、それを錯覚とさせるほど酷かった。結局あれから一度も会っていない。連絡は時々していた。でも折り返された頃、オレは寝ている。そして朝電話を掛け直すけれど、出るか出ないかは水戸の気分次第だとオレは踏んでいる。一度も会っていない理由は、喧嘩に加えて関東大学の選手権と新人戦があったからだ。選手権は一年のオレにはあまり関係ないのだけれど、新人戦は別だった。五月末の予選に向けて、一、二年の部員達は予選突破に向けて練習量を増やした。個人練習は勿論、他に何も考えられないほどバスケに打ち込んでいた。それの甲斐があってか、ベンチに入ることが出来た。時々試合にも出た。結果は本戦二回戦敗退。が、本戦にもそこそこ出ることが出来た。
その日程は、水戸にメールで送った。来ないだろうなと自虐気味になりながらも、万が一の確率で来るかもしれない、そう思ったからだった。すると奴は来た。声が聞こえた気がして、試合が終わった後携帯に掛けると奴は普通に出た。「見てたよ」と言った。「すげえじゃん」とも言った。それで何かもう、オレの中にあった蟠りや燻りは吹っ飛んだ。気がした。もういい、と思った。それも気がした。しかしそう思ったのも束の間、水戸はバイトがあると言ってすぐに帰ったし、オレはオレで一、二年の連中と監督で無礼講の飲み会があった。だから、「気がした」で終わった。それでまあ、今も尚予定が会わず、要は会っていない。
自然消滅ってこれか、そう思うと自然と手が止まる。レポートをやり始める前に、第一の原因を検証しなければ気が済まなかった。今思えばオレも悪かった。でもやっぱり水戸も悪い。見てたよすげえじゃん、で片付けられても困る。
一番の原因であるコンパ、これは結局、バスケ部の先輩マネージャーに頼んだ。すると、あれよあれよという間に人数が集まり、バスケ部が混合した飲み会的なものになる。大楠は沸いた。かなりテンションが上がっていた。かなりというより最高潮で、その光景を見た瞬間、握手さえ求められた。帰りはどうするのか聞くと、従兄弟が東京に住んでいるらしく、そこに泊まるらしい。勝手に帰るから気にすんなよ、とも言われた。
現場はチェーン店の居酒屋で、人数は凡そ二十人弱。結構な人数で、高校生が混じっても何ら問題はなさそうだった。そこには同じ一年で推薦組の菅田も居た。ポジションはポイントガードで、気の合う奴だった。手を挙げられたからそこに座ると、水戸と大楠も一応一緒に来た。大楠は既に、隣に居た女の子と喋り始める。
「どうも、ミッチーの後輩の大楠です」
「ミッチーって誰?」
「そこに居るバスケ部期待の星っすよ」
「ああ、三井くんかぁ」
既に飲んでいるのか、その子はけらけらと笑った。オレは全く知らない人で、多分先輩マネージャーの友達か何かじゃないかと思った。その人に会釈すると、楽しそうな後輩だね、と言われる。が、そこからが問題だった。君は?とオレの隣に居た、既に煙草に火を点けていた水戸に、身を乗り出すように声を掛けた。
「俺も後輩です。三井さんの」
「へえ、そうなんだ」
あ、何かヤバそう、そう思った。水戸の何か知らん変なオーラを感じ取った。
「名前何て言うの?」
「水戸っす」
「下の名前は?」
「洋平」
ヤバいもうぜってーヤバい。頭の中で警鐘がなる。隣の菅田から、「三井お前ビールでいい?隣の後輩も」と聞かれても返事が出来なくて、水戸から、三井さん?呼ばれてようやく返事が出来た。
「お、おう、ビールで。お前らもそれで良いだろ?」
そう言うと大楠は頷いたけれど、オレの顔を見て妙な顔をしていた。もしかしたらあいつも同じことを考えているのかもしれない、そこでおかしな連帯感が生まれる。
「水戸くんもビール?」
「いや、俺は烏龍茶で。バイクだし、この人連れて帰んないと」
そう言って水戸は、オレを親指で刺した。その仕草と煙草を吸う俯いた加減から変な色気を感じた。これだ、これなんだ、オレは確信する。大楠を見ると頷いていて、間違いなかったといっそ自分の警鐘に万歳したくなった。
「三井くん後輩パシリにしたらダメじゃん」
ははは、と力なく笑うと、水戸も薄く笑った。帰りたい!既に帰りたい!
「俺注文してきますよ、何か飲みます?」
水戸はきちんと、その人にも聞いた。彼女は、カシスオレンジ、と言って笑う。水戸は彼女に笑い返してから、席を立った。すると大楠が畳を擦りながら隣に来て、耳打ちするようにぼそりと喋り出す。
「ミッチー、あれはヤバい」
「オレだってそう思うよ!」
思わず声を荒げると、隣に居た菅田も参加した。
「なあ、お前の後輩いくつだよ。場慣れしてるっつーか何つーか、多分ふみ先輩がもう狙ってんじゃね?」
「……はあ?!」
「知ってる?ふみ先輩可愛いしモテるし、あの人に目ぇ付けられたら逃げられないって有名よ?」
「え、知らねー!何それ!」
「お前はほんと、そういう話に疎いね」
「逃げられないって何だよ」
「お持ち帰り的な?」
「おもちっ……!!」
眩暈がした。容易に想像出来て、それが無駄に似合う所が恐ろし過ぎた。
「てめえキンパツ!」
思わず大楠の胸倉を掴む。掴まれた方はぎょっとしてオレを見た。
「何だよ!オレのせいじゃねーだろ!」
「とりあえず場所変われ。お前は菅田と飲んでろ」
「はあ?!オレの為のコンパじゃねーの?!」
「じゃあ菅田に誰か紹介してもらえ。こう見えていい奴だしどうにでもなるだろ」
こう見えてって何?と聞こえたけれど無視して先に進める。無理矢理場所を変えると、水戸が帰って来る。場所変わったの?と聞かれたから、適当に返事をした。するとくだんのふみ先輩が、水戸くんこっち、と声を掛けた。口が開いたけれど何も言えず、言われるがまま彼女の隣に座った水戸を目で追うしかなかった。
すぐにビールと烏龍茶とカシスオレンジが目の前に置かれ、この状況で飲まずしてやってられないと思い切りジョッキを呷る。菅田以外のチームメイトがやってきて時々話もしたけれど、オレは常に左側に気を配っていた。
水戸くんってモテるでしょ?モテないっすよ。またまたぁ。俺はもう全然ダメ、大楠のが断然いい奴だし。そうかなぁ。
聞き耳を立てていたけれど、とりあえず今の所持ち帰られる気配はなさそうな会話だった。一時間は過ぎた頃、そこまでアルコールに強くないオレは酔いが回ってくる。そして、隣に水戸が居るのに、話もせず触れもせず、それに苛立っている自分が居て、何かが底から湧き上がってくるのが分かる。なのに隣ではお持ち帰り女が水戸の肩に手を置いていて、耳打ちまでしているのが見えた。それに対し、笑って優しく喋っている水戸の姿を見て、臨界点に突破する。元々沸点の低いオレがここまでよく我慢出来たと、逆に褒めてやりたい。
「水戸!」
「はい」
「帰るぞ」
「ああ、酔った?送るよ」
ちっげーんだよ!ふざけんなてめえ!とは言えず、おもむろに水戸を睨み付けて立ち上がる。すると水戸も腰を上げ、いくら?と聞いた。もうそれもどうでも良くて、菅田に聞いて明日払っとく、と返した。自分の声のあまりの低さに驚いていた。
「水戸くん帰っちゃうの?」
「この人送ってかないと」
「いいじゃん別に。三井くん一人で帰んなよ」
「そういう訳にもいかないの。じゃあね」
窘めるように言ってお持ち帰り女の頭を一度撫でる水戸に、絶句した。怒りを通り越して金魚のように口をぱくぱくとした気がするようなしないような、その後で奥歯を噛んで、きつく噛みすぎて頭痛さえしたから何が何だか分からない。それから店を出て、もう一言も喋らず水戸のバイクに乗り、アパートまで戻った。後が酷かった。オレはひたすらよく分からない暴言を吐いて、水戸は座ったまま黙ってそれを聞いていた。実際聞いていたかも分からないし、多分聞いていなかった気もする。内容はよく覚えていなくて、酔っていたのも手伝ってかとにかく責めた。そして最後言った言葉に、水戸もキレる。あれは覚えている。
「お前本当は女の方がいいんだろ?」
そう言った。奴はキレた。目付きががらりと変わり、やば、と思ったら酔いが一気に覚める。
「あ?誰がいつそんなこと言ったよ」
言ってない、一言も。オレ以外は。立ち上がって近付く水戸にオレは後退り、壁まで追い詰められたかと思うと、水戸は壁を蹴った。雑音が耳に届いて、鼓膜が一瞬だけキンと鳴る。
「女が良かったらとっくにそうしてる」
声を出そうにも出せず、怖気付いた体はぴくりとも動かなかった。
「わざわざこんなとこまで来ねえんだよ!」
水戸にしては珍しく声を荒げ、オレの髪を掴んだ。そしてそのまま思い切り壁に頭を叩き付ける。目の前が揺れた。ちかちかして周りが白くなる。いってえ、唸るような声が自分の耳に聞こえた、と思ったらもう一度同じようにされ、さすがに怒鳴る。いてえな!と言うと、うるせえ、と返された。何それ、そう思ったら笑えた。
「何笑ってんの?」
「別に」
あのお持ち帰り女は当たり前に、水戸のこういう部分を知らない。暴力的に抱くことも口調も、この目も。オレしか知らない。きっとオレにしかしない。酷い優越感と快感が襲った。やっぱりオレ、頭がいかれてる。今更みたいに気付いて、その日は何度もした。こうすると水戸が、落ち着くことをオレはよく知っている。
それもきっと、オレしか知らない。
思い出したら項垂れた。あれから一度も会っていなくて、まともに声すら聞いていない。もう梅雨が始まってじめじめしていて、エアコンまで点けている。季節まで変わった。ここまで時間が合わないとは思わなかった。そうだ、会わないから喧嘩をする。よく分かった。要は会いたいだけだ、そう思っていた。レポートは進まないし、連絡はない。水戸から連絡があることはほぼない。慣れろと言われたらお終いだけど、それで慣れるのもどうかと思う。
その時、鍵が開く音がした。玄関で音がして、思わず覗くようにそこを見ると、水戸が立っていた。
「居たんだ」
「……え、あ、居るだろ。誰ん家だよ」
「そうだね」
お邪魔します、そう言って水戸は靴を脱いで玄関を上がる。
「何?勉強してた?」
歩いて近付く姿を目で追いながら、あの険悪だった瞬間が嘘のようだと思った。
「レポート。今週末までにしねーとヤバくて」
ふーん、水戸は言うと、オレの隣に腰を下ろし、煙草に火を点ける。その仕草を見るのも、テーブルの灰皿が使われるのも、いつ振りか思い出せない。少なくとも一ヶ月以上前だということは確かだった。
「経済学?あんたこんなん興味あったの」
「経済学部なんで」
「へえ。何でまた」
「……何となく?」
水戸はあからさまに呆れた表情を見せ、溜息を吐くように息を吐いた。それと同時に煙が揺れる。
「うるせーんだよ!仕方ねーだろベンキョー苦手なんだから!」
「なんも言ってねえじゃん」
水戸は笑って経済学の本を捲った。ぺらぺらと捲られるそれは、紙の擦れる音がする。頬杖を付いて煙草を咥え、本を捲る様はオレよりずっと頭が良さそうに見えた。何か飲む?だとかそういうことを聞けば良かった。でも聞けなくて、その横顔を見る。
「ちゃんと勉強しなよ?」
本から目を離さないまま、水戸は声を出した。この声を間近で聞いたのもいつ振りだろう。
「親に金出してもらってんだろ?」
そうだな、とか、分かってるよ、とかその言葉に返す正解は幾らでもあった。探せば言葉なんて腐るほどあって、何してた?とか、あの日のコンパの話とかその後の新人戦の話でも、話すことは幾らでもあった。オレ達は言葉数が足りない。圧倒的に足りないのはそれだった。昔からそうだった。会えばこういう、身にならないくだらない話の繰り返しで、何も残らなかった。肝心な言葉は、いつもない。でも今出てくるそれは、何よりもくだらない。
「水戸」
「んー?この本、結構面白そうだね」
「したい」
水戸の手が止まり、こっちを見た。煙草はもう短くなっていて、灰皿に灰が落ちる。水戸は灰皿を見遣り、煙草を押し付ける。
「レポートは?」
「明日する」
「いいけどね、別に俺はどうでも」
何が?やること?レポート?もうどうでもいいや。そう思った。
「そのつもりで来たから」
ああレポートの方か。それが分かった時にはもう、ヤニ臭い舌が唇を割り込んでいた。手を伸ばして、水戸の首に巻き付ける。髪を撫でると、整髪料で固められたそこは固い。無我夢中でキスをして水戸に触れて、触れられれば喘いで、上がる呼吸と水戸の息遣いを耳の近くに感じながら、オレって本当にくだらねえと実感する。
こうしている時はこれ以外何も要らないとさえ思うのに、明日になればまたバスケに明け暮れる。実際、新人戦の前は水戸のことなんて頭から抜けるほどバスケばかりだった。でも少しだけ暇になってレポートだ何だと追われると、水戸を思う。
くっだらねえ。心底思うのに、今のオレは、目の前の水戸に没頭する。




6へ続く。

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