長編

□3
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「水戸くんによろしくね」
「はいはい、分かったって」
「着いたら連絡するのよ?」
「しつけーなぁ、分かってるって」
じゃあな、最後母親の顔を見てそう言った。玄関まで出て来ているのに今まで何も喋らなかった父親は最後に一言、「バスケ頑張れよ」と言った。オレはその言葉に絶句して、言葉が出てこなかった。笑うことも上手く出来なかったから、軽く手を挙げて、玄関を開けた。引っ越し当日、荷物は全部業者に任せて、財布と携帯だけを持って外に出た。
空を見上げると晴天で、気温も高かった。雲も広がっていて、季節は完全に春に移行したことを知る。時々吹く風も、感じる全てが柔らかかった。匂いも同様で、吸い込むと気分が良かった。足取りも軽くなる。パーカーに薄手のジャケットを羽織ってチノパンという、ちょっとそこまで出て来ます的な格好で外に出たけれど、このまま当分この家には帰らず東京で一人暮らしを始める。正直不安は一切なく、初めての一人暮らしに浮かれていた。唯一引っ掛かることがあるとすれば水戸のことだけれど、別に会えない訳でも終わった訳でもなく、ただ距離があるだけだ。特に心配することでもない。と、今は軽々しい気持ちしかなかった。
水戸は今日、迎えに来ると言った。でも断った。母親には水戸に手伝ってもらうから来なくていいと最初から伝えていたのだけれど、だからと言って迎えにまで来られたら、あの母親は何をしでかすか分からない。茶を出す所から始まり、「このお菓子美味しいのよー」だとか「今日は本当にごめんなさいね」だとか、終いには手土産まで持たせるに違いない。荷物になるだろ!と言っても多分聞かない。それを予測して駅集合にした。うちの最寄り駅まで来ると言ったから、業者がアパートに来る時間を計算して午前十時に待ち合わせている。確かに東京に行くには幾らかこっちの駅の方が近くて、その方が利便性は高い。
自宅から駅までは歩いて約十分程度で、陽気な気候と晴天に囲まれた今日は徒歩には持って来いだった。この景色を、以前は毎日眺めていた。眺めるというよりそこにあった。何の気なしに側にあって、気が付いたら歩いていた。でもそれは、明日からは無くなる。それが今のオレには物寂しいような覚束ないような、要はあやふやではっきりしなかった。一人暮らしに不安はない。親元を離れてバスケをする為に大学へ行く。それは目標だったから、迷いもない。だけれど、そこにあった物がなくなるのは妙な気分だった。
しばらく歩くと駅に着いた。そこは広くもなく狭くもない駅で、人も疎らだ。今日は土曜日だから余計に。すると見慣れた奴が見えて小走りした。でもそいつは、見慣れないバイクに凭れて煙草を吸っている。まだオレには気付いていないようだった。いつもの原付ではなくて、訝しむように眺めた。まさか誰かに借りた?そう思いながら近付くと相手も気付いて、三井さん、と声を出した。オレも、よう、と返すと機嫌が良いのか笑っていた。
「何これ。どうした?」
近付いて、見知らぬバイクを指差して聞いた。
「買った」
「……はい?」
「買ったの、俺が」
「え、えーー?!!まじか!」
「まじだよ」
そう言って水戸は、目を細めて歯を見せて笑った。あ、可愛い、そう思った。こんな顔もするんだな、とバイク購入以上に驚いて、癪に触ったから絶対に言わないけれど有り体に言うと見惚れていた。
「何てバイク?」
それをひた隠すように、大して興味もないバイクの名前を聞いてみる。
「ホンダのシャドウカスタム」
「しゃど……、は?何て?」
「別に何でもいいだろ」
つーか興味ねえだろあんた、呆れるように言って溜息を吐いたけれど、別に機嫌を損ねたようではなかった。むしろ悪態を吐いた所で機嫌は良さそうで、こいつやっぱり十六のガキなんだよなぁ、と思わせるには十分だった。
「とにかくすげーよ。かっこいいじゃん」
「だろ」
「何つーか、お前も普通に物欲とかあったんだな」
「あんた俺を何だと思ってんの?」
「いやー、変な柄シャツとかビーサンとかスウェットとかさぁ、いっつも適当だし」
家来た時は別人だったけど。それは言わなかった。
「ああ、そういう」
これは別。水戸はそう言って、黒いシートを人差し指で弾いた。真っ黒でエンジン部分が剥き出しのバイクは、水戸によく似合っている。よく見るとハーフタイプのヘルメットが二つハンドルに引っ掛かっていた。それを水戸は一つ取り、何も言わずにオレに向かって投げる。受け取ると、水戸は同じヘルメットを被り、シートに跨った。胸が騒ついた。喉から何かが這い上がって来そうだった。それを今この場所で吐き出す訳にもいかなかったから、仕方なく唾と一緒に飲み込んだ。受け取ったそれを被り、オレも後ろに乗る。今日は間違いなく、絶好のツーリング日和だ。
「この手のバイクのニケツって久々」
「乗ったことあんの?」
「あるよ、例の暗黒時代に」
「はは、なるほどね」
思い出すと、ひたすらアホだったと逆にもう感慨深い。
「俺は初めて」
え?そう聞いたと同時に水戸はエンジンを掛ける。原付とは全く違う、重くて大きなエンジン音が下の方から振動する。
「後ろに乗せるのあんたが初めて」
その言葉に何も言えず、腰を掴んでいた手に力を込めた。
「だからちゃんと捕まっとけよ」
颯爽と走り出したバイクは、スピード感も風を受ける感触も原付の比でなく、思わず声が上がった。「さいこー!」と大きな声を出すと、前から「うるせえ!」と笑われる。とにかく気分が良くて、高速に乗るともっとテンションが上がった。車よりは遅いけれど、それに近いスピードだからか風は冷たくても心地良かった。耳の側にずっとエンジン音と風を切る音が聞こえて、車が追い抜くと一層裂くような音がする。最初は驚いた。でもすぐに慣れた。水戸は初めてと言いながら、運転からは違和感も恐怖も全く感じなくて、ひたすら安全運転のように思う。上手いもんだなぁ、と感心した。オレが過去後ろに乗った時は、安全運転だとかそういう交通ルールなどは皆無だったからだ。今思えば恐ろしい。
途中パーキングで休憩して、アパートの場所の確認をした。水戸はデニムのポケットから折り畳んだ地図を出した。コーヒーを飲みながら、この辺だの何だのそういう話をして、水戸は煙草に火を点けた。
「これいつ買ったんだよ」
「水曜日にようやく」
「この前じゃん」
「忠の知り合いのバイク屋でね、半年前からずっと欲しくてさ」
長かったー……、と言って水戸は煙草の煙を吐き出した。
「あいつも好きなの?」
「ハーレーが欲しいっつってたな」
「……はー、れー?って何それ」
よほど可笑しかったのか、水戸は吹き出して笑う。知らねーもんは知らねーんだよバカにすんな、ぼやくように言うと、今度は薄く笑う。水戸は近くにあった灰皿に煙草を押し付けて捨て、缶コーヒーの缶も捨てた。
「さて、行くか」
水戸がヘルメットを被り始めたので、オレもコーヒーを飲み干して捨てる。
「そういやさぁ」
「何?」
「お前、超安全運転だね」
「そりゃそうでしょ」
そう言って水戸は、オレにヘルメットを被せる。
「大事な命預かってんだから」
そういうこと言いますか、考えると顔が熱くなってきた。時々水戸は、こっちが絶句するようなことを平気で言う。ふざけた様子などなくただ淡々と。
「はいはい、照れてないで乗りな」
「うっせーんだよ!」
次このバイクから降りる時はきっと、アパートに着いてからだろう。そこが今日から、オレが住む場所になる。




東京のアパートに着いて、業者が荷物を運んで来た。ものの三十分程度で早々と仕事を終え、受け取る物を受け取って帰って行く。リビングが広めの1Kのそこは、真新しい部屋だった。ベランダもまあまあ広く、一人で生活するには十分過ぎる場所だ。フローリングの冷たさが心地良くて、思わず寝転がりたくなる。とりあえず近くのコンビニに昼飯と指定ゴミ袋を買いに行き、帰ってから飯を先に終わらせた。水戸は早速ダンボールを開け、片付けを開始している。仕事早いな、と他人事のように見ていると、「ぼーっとしてんなよ」と喝を入れられた。真面目なんだよなぁこいつ、と思いながら、オレもダンボールを開ける。
衣類が入っていたカラーボックスや布団などはそのままの状態で運んでもらうように頼んだから、意外と早く済みそうだった。という以前に、東京には要るものしか持ってこなかった。ちなみに水戸の着替えも、この間泊まった時に何枚か渡されていた。一緒に入れといて、と。そうだよなぁ泊まるんだよなぁ、と考えたらなぜか気恥ずかしくなった。普通のことなのに、ここにまたいずれ来ることに対して、妙なむず痒さを感じた。
窓から外を見るとやはり晴天だった。気持ち良い晴れ間が続いていて、フローリングにはいつも使っている広めのベッドが置いてあり、シーツも掛かっていて布団も乗っかっていた。使う物は今までと変わらないのに場所が違うだけで酷く新鮮で、それ以上に違和感もあった。変な感じ、片付けも終盤に差し掛かっている最中、オレはこの妙な居心地の悪さに慣れなくてはいけないことを知った。
「三井さん、これどこ?」
水戸が声を掛けた。持っていたのは文房具の類いだった。一つだけプラスチックの小さな収納ボックスを持って来ていたのでそれに入れようと、水戸に近付いた。その時水戸の薄い唇が目に付いて、その左下にある小さなほくろにも目が行って、キスをしたいと漠然と思った。一度だけ触れるだけのキスをすると、水戸が、あ、と声を出す。
「何?」
「あんた、ゴミの分別分かってる?」
「は?」
おいおい人が盛り上がってる時に何がゴミの分別だよお前を分別してーよオレは。
「あれ資源ごみだろ?紙ちゃんと見た?」
「紙って?」
「ここのシンクに置いてあったろ、区の分別方法の紙。不動産会社が置いとくんだよ、知らねえの?」
「え、知らない」
何それゴミはゴミ袋だろ?そう言うと、水戸はそれはそれは長い溜息を吐いた。
「薄々気付いてたけど、ここまで生活能力ゼロだとは思わなかった」
「なっ!てめえ!バカにしやがって!」
「バカにはしてねえよ、事実を言ってるだけだろ」
「それをバカにしてるって言うんだよ!」
何が事実だ。お前の正論は底抜けにオレの沸点を刺激するんだよ。さっきまでの唇がどうのこうのという自分の中の欲望は、知らぬ間にどこか遠くに吹っ飛んだ。
「あんたさぁ、これから飯どうするつもりなの?」
「コンビニあるじゃん」
また溜息。また長い長い、それはそれは長い溜息を吐いた。腹立つ。まじで腹立つ!
「あんたスポーツ推薦なのにそんなんでどうすんの。せめて簡単な自炊くらい出来るようになってんだろうな」
「……で、で、出来るよ」
水戸は沈黙した。出来ないのはバレている。確実に。
「お母さんに感謝しな、甘ったれ」
こ!こ!こんのクソガキ!と口から出そうになった直前、思い切り睨まれたから怯んで何も言えなくなってしまった。情けない、歳下のガキに怯む自分が情けない。その上自炊が出来なくて、幼稚園児並の悪態しか返せそうにない自分にも。
「当分セックス禁止」
「何でだよ!」
「それより先に教えることが山ほどある」
そう言うと水戸は一度立ち上がり、どこかへ行く。キッチンから何かを取って来たので、休憩すんのかな、と思っていると手に持っていたのは紙だった。それをローテーブルの上に広げた。少し離れた場所から覗き込むと、区のゴミの分別が書いてあるように見えなくもなかった。初めて見たからよく分からなかったけれど、さっき水戸が不動産会社が何とか言っていたのはこれなのだと知る。
「そこ座んな」
「威張ってんじゃねーよ」
「そういうことは分別出来るようになってから言いなよ」
水戸はもう、諦めているようだった。なんかもうすみませんね、手が掛かって。セックス禁止令は出るし、何なんだ一体。オレも一つ息を吐いて諦めて水戸の隣に座ると、分別方法をゴミ袋の種類に併せて説明し始める。
「どうせ泊まるつもりだったけど、今日の夜も明日の朝もメシ作ってもらうから」
「はあ?!出来ねーよ!バカじゃねーの?!」
「出来ねえじゃない。やれ」
「ふざっけんな!てめえ!小姑か!」
もう水戸は何も言わなかった。オレの言葉など無視して有無を言わさず淡々と説明して、ゴミをひたすら分別した。それが終わったらまた片付けを再開して、全部終わったら次は近所にスーパーを見付けて買い物をする。帰宅した頃には夕方になっていて、今度は水戸先生主催の料理教室が開催された。最初はムカついた。「違う」だの「不器用」だの散々な言われようで、こんちくしょうと根っからの負けず嫌いが沸々と湧き上がる。
だけれど、こうして隣で水戸がオレに料理を教えていることが段々と可笑しくなってくる。バイクが好きなリーゼントのヤンキーが、スポーツ推薦で四月から大学生になる男に料理を教えているのだ。笑える。まじで笑える。
「何笑ってんだよ、手ぇ動かせ」
「おかしくて」
「何が」
「こうしてんのが」
「頼むから食えるもん作ってくれよ?」
「そりゃお前次第だ」
こうして今隣にいるこの男は、明日平然と神奈川に帰って行く。いつもと変わらず淡々と。今までいつも側にあった存在が、明日にはない。何の気なしにいつも側に在るわけじゃなくなる。それは、毎日歩いていたあの道のように。
寂しいんだ、オレ。そんな単純なことに、今更のように気付いたのだった。





4に続く。

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