長編

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「バイト行くわ」
「あ、そう」
思い切り二日酔いの人に水を二杯飲ませ、更にコーヒーまで入れた。その上昨夜はおぶって三階まで上がっている。およそ迷惑行為に近いことをした張本人は、当たり前にぼんやりとコーヒーを飲んでいた。その最中声を掛けると酷く妙な顔をしていて、真意を測りかねる。
「何、行くなってこと?」
揶揄するように言うと、違う、と顔を逸らされた。時間は午後十二時を回った所だった。今日は一時からのバイトだから、コーヒーを飲み干してから準備しようと立ち上がった。着ていたスウェットとパーカーを脱いで、デニムとその辺にあるシャツを着た。それで終了。バイトには髪は固めていかないことにしている。
未だにぼんやりした背中が身動き一つしなくて、ありゃ頭回ってねえな、と呆れた。大体飲み過ぎだ。調子に乗って日本酒ばかり飲むからだ。もう一度テーブルまで戻り、煙草に火を点けた。彼の寝癖の付いた髪の毛を見遣ると、ふっと吐き出すように笑えた。何だよ、と口から吐き出す悪態に似た言葉も、声が酒灼けのように掠れていて酷い有様としか思えない。俺が何で笑ったのか多分分かっているだろう。一瞬だけ合った目はすぐに逸らされる。何気なく窓の外を見ると、晴天が広がっていた。気温もちょうど良くて、時間の流れが緩慢だった。
「いい天気」
「だな」
「何か食う?」
「いい。食えねー」
「だよね」
じゃあ行くわ、そう言って煙草を灰皿に押し付けた。三井さんは短く、ん、と返事をするだけだった。
「なあ」
「何?」
コーヒーカップを持ち、立ち上がって歩き出した所で聞こえた声に振り返ると、未だにはっきりしない目が俺を見ている。
「今日も泊まっていいんだっけ?」
「いいよ。夜には帰るから好きにしてな」
「分かった」
右手で頬杖を付きながら、左手をひらひらと振った。多分また寝るな、そう思いながらシンクにカップを置き、リビングのドアを開けて、廊下に出る。この廊下は、灯りを点けないと常に薄暗い。それでも電気を点けるほどでもないからそのまま歩いた。スニーカーを履いて、玄関を開ける。外は春の空気が漂い始めていて、少しだけ憂鬱になる。この、少し甘みのある匂いが苦手だった。
階段を降りて、駐輪場に停めてある原付にエンジンを掛ける。この原付とももうすぐお別れだ。来週には新しいバイクがこの中に収まることになる。その為に働いているのもあった。自分でも物欲はない方だと自負しているけれど、あれだけは欲しかった。アメリカンタイプの400ccで、シャドウカスタムというホンダのバイクだった。忠の知り合いがやっているというバイク屋で見付けてから、ずっと欲しくてそこの店長と忠と三人で話し込んだのが半年前。それが手に入る。あの人に見せたらどんな顔をするだろう、それが異様に楽しみだった。自分でも珍しく浮かれていたのが分かって、何かが中心に収まらなくてすっきりしない変な気分だ。
今日のバイト先はファミレスだった。日曜日の昼間は引っ切り無しに客が来る。厨房に人手が足りなかったから、そっちに入った。客入りが疎らになった所で店長に、「もうちょっとシフト増やしてもいい?」と聞かれた。一瞬だけ考えたけれど、でかい買い物をした上にローンも組んだので二つ返事で了承した。「いいっすよ」と言うと、「助かるよ。水戸くん働き者だから」と彼は笑った。このファミレスでのバイトも一年近くになる。高校入学と同時に始めたからだ。店長も変わらずこの人で、人を怒ることをしない人だった。代わる代わる入れ替わるバイトの面接からシフト編成まで、何から何までやる真面目な人だった。俺と確か十以上年齢が離れているけれど、横柄な態度や店長だからといって暴君でもない。すげえなあ、と素直に思う。
その日もいつも通り時間は過ぎた。働くことは嫌いじゃない。労働に見合った対価がきちんとある。だからといって、この先ずっとこのバイトを続けるかは別の話だった。
帰り際店長から、「配達用の弁当が余ったんだけど要らない?」と聞かれた。有り難いことに二つあり、「遠慮なく頂きます」と頭を下げた。飯をどうしようかと考えていた矢先だったから幸運だった。それを持ち、着替えてファミレスの社員用裏口から出た。デニムのポケットから携帯を取り出し、ばあちゃんの名前を出した。今日は日曜日だから店は定休日の筈だ。掛けるとそれはすぐに繋がり、いつも通り若々しい声が聞こえる。
『もしもし』
「俺。昨日ありがとう』
『こちらこそ。三井さん大丈夫だった?』
「全然ダメ」
呆れたのが声から伝わったのか、ばあちゃんは笑った。
「ごめんな、何か騒々しくて」
『楽しかったよ、凄く』
それに、と続けるので、そのまま黙って聞いていた。
『わたしご馳走するつもりだったのよ?』
え?そう言うと、まだばあちゃんは続けた。
『洋平からこんな風にしてもらえる日がくるなんてね、思わなかった』
泣いているのかもしれない、そう思ったから一度唾を飲み込んだ。
「ばあちゃん孝行だよ」
そう言って笑うとばあちゃんも笑って、ばあちゃんって歳じゃないよ、といつもの言葉といつもの口調が返ってくる。
『洋平』
「何?」
それから少しだけ話して電話を切った。原付のエンジンを掛け、シートに跨った。昨日、あの人のことだから支払いを遠慮されるのは分かっていた。だから高橋さんに頼み、二人が呑んだくれている間に先に支払いを済ませたのだ。まさかそんなことで泣かせるとは思わなくて、一瞬だけ言葉が詰まった。
走り出して、エンジン音を聞きながら昔のことを思い出した。夜になると、春の匂いは少しだけ和らぐ。潮の香りが仄かに鼻先を擽ったのも相俟ってか、それは妙に郷愁を誘った。
ばあちゃんには今まで嫌というほど心配を掛けた。小学生の頃は、四年の時花道と連むようになるまであまり口を聞かなかったし、聞いたとしても業務連絡程度だった。あの人はそれでも、教師に呼ばれれば頭を下げて、酷い喧嘩をして警察沙汰になれば頭を下げて、いつでもどこにでも駆け付けて来た。一種の嫌がらせのように迷惑を掛けようと、見放すことはしなかった。あの人は、母親がしなかった全てのことをした。朝食と夕食は必ず作ってあり、一緒に食べられない時は書き置きもあった。それなのに小学四年までの俺は、あの書き置きを容赦なく捨てていた。それを分かっていても、俺を見限ることもしなかった。
中学に上がり、市営アパートに引っ越してすぐ、母親が出て行った。それからもしょっちゅう来て、「自分で生きられるようになりなさい」と衣食住の全てを俺に叩き込んだ。あの母親は学費家賃光熱費以外の生活費を寄越すほど母親として生きてはいなかったから、他は稼がなくてはならなかった。ばあちゃんがアパートに来ない日を狙って、歳を誤魔化して働ける場所を探した。人には言えないバイトもした。母親に頼まれたらハエ退治もした。ばあちゃんは、それに気付いていたかどうかは分からない。多分気付いていた。俺が怪我をしているのを見る度、ばあちゃんは何とも言えない顔を見せるのだった。大丈夫だよ、そう言うと、俺を抱き締めた。その腕の感触は、昔よく殴られたことを思い出させた。それくらいの歳になると、警察沙汰にならない方法を学んでいて、ばあちゃんが駆け付けて俺を殴ることもなくなっていたから余計に。
夜アパートに戻り、真っ暗の部屋に灯りを点けることに、最初は慣れなかった。けれど、慣れなかったのはほんの一瞬で、一人で居ることが気楽に思えてきた。人間は順応性の高い生き物だと実感した。
あの母親とばあちゃんの折り合いは悪かったと思う。二人は顔を合わせても、目も合わせなければ話をするなんて論外だった。理由は知らない。それでもばあちゃんは、俺には優しかった。愛情と生き方を教えてくれた。あの人に泣かれるのが一番困る。まだ何も返せていないのに。
エンジン音の向こう側から辛うじて波の音が聞こえる。午後八時を回った夜の海は、春夏秋冬関係なく変わらなく生きていた。音も匂いもなにも変わらない。そこに在り続けている。夜はまだ冷える日が多かった。今日もそうだ。風は未だに冷たい。それでも匂いが違う。風の匂いの変化は顕著に感じる。もう春が来ている。
アパートに着いて駐輪場に原付を停めた。三階まで上り、部屋の前まで歩いて玄関を開ける。そこは既に灯りが灯っていて、一瞬驚いた。ああそうか、そこで気付いた。今日はそのまま三井さんが居たんだった、と。自分で点けなくても良い灯りがあることを、俺は久々に知った気がした。スニーカーを脱いで廊下を歩いた。リビングに続くドアを開けると、頭にタオルを掛けた三井さんが座ってテレビを見ていた。服装も長袖Tシャツとスウェットに変わっていて、シャワーでも浴びたんだな、と思った。
「おかえり」
「……ただいま」
この言葉を言うことも久々で、他人がこの家に居ることが妙な感覚だった。
「気分どう?」
「すげー寝た。それでシャワー浴びたらようやくすっきりした」
「飲む量考えろってことだな」
はは、と笑うと三井さんはばつの悪そうな顔をする。
「メシどうする?」
「ああ、バイト先で貰ったんだよ」
弁当だけど。そう言ってビニール袋を見せると、腹減った、と力が抜けたように言う。結局朝から何も食えなかったんだな、と思った。飲み過ぎだよ、ともう一度言った。弁当が入ったビニール袋を一度置いて、台所に行った。手を洗ってから冷蔵庫を開け、烏龍茶を出した。グラスを二つ出してそれに入れ、テーブルまで持って行く。置いてから、柔らかそうな髪の毛が目に入った。
「髪、まだ濡れてる」
タオルから出ているそこに触れると、軽く湿っていた。この人はドライヤーを当てずに放っておくことが多かった。撫でるように触ると、三井さんは俺を見上げた。
「今日、すげー寝れた」
「二日酔いだからじゃねえの?」
「じゃなくて、ベッド、匂いがした」
お前の。短く切るように端的に喋りながら、未だに緩く髪を撫でている俺の手を握った。
「もしかして誘われてる?」
「誘ってなくはねーな」
「はは、どっちだよ」
握り返すと、誘ってる、と三井さんは小さく言った。俺は不意に、玄関の鍵を開けて廊下を見たことを思い出した。廊下にもリビングにも灯りが灯っていた。
「腹減ってんじゃなかったっけ?」
「減ってる」
「どうすんの?」
帰って来たらこの人が居て、おかえり、と俺に言った。その言葉を聞いたのも、それに返したのも、俺はいつから味わってなかったんだろう。
三井さんは何も答えなくて、俺の手を引っ張った。膝が下がって、そのまま彼にのし掛かる。口付けてその唇に触れると、俺はこれが欲しかったのだと今更のように知った。角度を変えて、何度もした。三井さんは舌を入れて欲しいのか、俺の唇を軽く噛む。けれどそれを無視して、首筋まで唇を下ろして吸った。
「ちょ、それまずいって」
「今日さぁ」
「話聞けよ」
「帰ったら明るかった」
「何の話?」
「ただいまって言ったのいつ振りだろ」
そう言ってから、ようやく三井さんの口の中に舌を入れた。掻き回して口の中を犯した。彼は首に腕を回し、俺を抱き寄せる。何度も繰り返しキスをして、掌で身体中触った。緩く撫でると、もどかしいのか三井さんは息を吐いた。Tシャツを捲って見えない場所に痕を付ける。吸ってから歯で噛むと、良い声を出す。この人はこの先、女の人が抱けるのだろうか。時々本気で心配になる。
それを考えると背中がぞくりとした。珍しく自分が我慢出来なくて、下着の中に手を突っ込んだ。もう勃ち上がったそこを扱きながら、俺もベルトを外してジッパーを下ろした。いきなり挿入するのは躊躇われて、でももう無理で、一緒に擦り合わせる。そうしながら後ろに指を入れた。この人が喜ぶ場所ばかり引っ掻くと、もっと良い声で鳴いた。俺の方が早いなんてどうかしてる、そう思ったけれど、止まらなかった。
「ごめん、もうやばいかも」
多分入れたらすぐイキそう、そう言うと、息を乱しながら三井さんは笑った。その顔を見ると、この人が愛しいと心底思う。
電話口でばあちゃんが言った言葉を思い出した。洋平、そう言ってからばあちゃんは、三井さんが居なくなったら寂しくなるね、と続けた。
寂しい、それの本当の意味を、俺はまだ知らない。




3へ続く

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