長編

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今日の夜鎌倉駅の東口集合で。
その連絡を水戸から受けたのは、卒業式から二週間経った時だった。オレは引っ越しをする為の荷造りをしようかと段ボールを広げた所で、急に今日の夜と言われたから若干驚いた。いきなりかよ、と言って不満を露わにすると、じゃあ明日にする?と簡単に予定を変更しようとする。待て待て大丈夫、とこっちが慌てれば、どっちだよどうすんの、と冷めた声で一蹴する。変わっていない、こいつは全く変わらない、それはオレが学んだことの一つだった。
江ノ電に揺られながら、ぼんやり外を眺めた。海が続いて、あの卒業式から二週間経ったということが未だに現実味を帯びない時がある。例えば今のように、ただ海沿いをひたすら眺めている時。砂浜を二人で歩いたあれは現実だったのだろうか、と。
あれから、二人で会ったのは一度だけだった。それは母親とこの世で一番苦手な人間である姉が水戸に会いたいと言ったからだ。まだ高校在学中の頃、一度だけ水戸に家まで送ってもらったことがあった。その時出迎えた母親が水戸をいたくお気に召したらしい。親子って趣味が似るのか、と考えたら悪寒が走った。心底ぞっとした。基本的に人当たりのいい水戸は(言っとくけどオレには良くなかった最初から)、母親の噂が噂を呼び、姉まで会わせろと言い出した。この姉が、また非常に手強い。突然何を言い出すか分からない、言うなれば自分を女王様だと勘違いしている女だった。徳男なんて既にパシリと化している。オレが連れて来る友人知人を平気で値踏みするのだ。嫁に行ってせいせいしたと思ったのに、子供を連れてしょっちゅう帰って来る。姪っ子は正直可愛いけれど、姉は別だ。だからオレは、特に姉には絶対会わせたくない。
水戸に聞いた。「会いたいって言ってんだけど」と。オレは正直、断れ!と思っていた。めんどくせえって言え今こそ!と念じた。しかしその願いは通じることなく、「いいけど」と返って来るのだった。その上、「お母さん綺麗だったね、そういや」と付け加えるのだ。多分水戸のこういう、取って付けたような褒め方ではなく自然と流れるように女の気分を上げさせることを、母親は気に入ったのだと思う。仕方なくその週の週末に約束し、昼過ぎに水戸はやって来た。水戸はいつもオレと部屋で会う時に着ているようなよれたパーカーとスウェットは着ていないし、誰かにもらったというおかしな柄シャツも着ていなければ、ビーサンも履いていない。それなりに真面目に見える格好でやって来て、オレは目を疑った。誰お前、そう思ったけれど言わなかった。そして出迎えた母親と姉プラス姪っ子に、それはそれは爽やかに挨拶をするのだった。
「お久しぶりです。お姉さん、初めまして。水戸洋平です」
と。しかも手土産付きで。誰お前、また口から出そうになったけれど黙っておいた。人見知りが終わった姪っ子は水戸に近付き、手土産を覗こうとする。姉が、だめだめ、と窘めるのにも全く動揺も見せず、そこでも水戸は姪っ子を軽々と抱っこして「今度はちゃんと買っとくから。ごめんな」と言うのだった。こいつは水戸の面の皮を被った別人だ、と本人を前に訝しんだ。
その様子を見ていた姉は、姉ではなく女の顔になっていた。こいつダメだ、そう思った。案の定姉も水戸が気に入り、「水戸くんと結婚したかった!」と本人の前でも平気で言うのだった。水戸はと言えば、「お姉さん、可愛い人ですね」と笑っている。こいつの女性遍歴とか絶対聞きたくないと思った。しかも水戸のこれは多分素だ。素でやっている。その元来備え付けられている装備に、オレは若干引いた。もっとも、目が恋する乙女になっている姉にもだけれど。しばらくリビングで話してラチがあかないと、オレの部屋に水戸を呼んだ。母親と姉から散々文句を言われながら。オレは一体何なんだ。
部屋に入れば入ったで、自分の部屋に水戸が居ることに酷く違和感を感じた。いつも自分が出向く側だったからだ。どことなく所在なくて、水戸は黙ったままだし、やることねーなと思っていた。
「本日のイベントはこれにて終了です」
そう言うしかなかった。
「あ、そうなの?」
「悪かったな、まじで。あいつら騒がしいし」
「いや、楽しかったよ」
お姉さん可愛い人だね。続けてそう言う水戸が、別段変わりない口調で言うことに呆気に取られながら、どこがだよ、と溜息を吐いた。
「お前ガキ好きなの?」
「普通」
「その割には扱い上手くねえ?」
「そう?バイト先によく来るからかなぁ」
「何やってんだっけ」
「ファミレスとガソスタ」
なるほど。確かにファミレスには子供がよく来るかもしれない。
「あ、煙草吸うか?」
「いや、いいよ」
「何で、別にいいけど」
「嫌われたくねえから」
誰に?母親?顔を見て真意を伺おうとしたけれど、無表情のまま頬杖を付いて窓の外を眺めていたから聞くことは憚られた。
「そういやお父さん居ないね。仕事?」
「ああ、休日出勤じゃね?普通のサラリーマンだけど、休みの日も家にあんま居ねーなぁ」
まあオレもだけど。
「へえ」
「あの親父とは相当やりあったんだよ」
「いつ?」
「バスケ辞めてた時。もう何回殴られたか覚えてねーくらい」
思い出したら気が滅入ってきた。あの頃は顔を合わせる度に言い合いして最後は必ず手が飛んできた。まあ、飛ばす気持ちも分からなくはない。今思えば。それが分かったのか、水戸は声を出して笑う。
「愛情のある暴力を振るう大人が居るのはいいことだ」
「愛情、ねえ……。どうだろ」
「それしかないでしょ、この家は」
水戸はそう言うと、また外を眺める。あ、と思った。ただ、あ、と。その続きはその時は分からなかった。ただ、掴まなくちゃいけない、ということしか分からなくて、水戸の手を咄嗟に握った。
「何、どした?」
「あー、いや、うん」
「何だよ、したくなった?」
ここはちょっとなぁ、と揶揄するように笑われたのが頭に来て、思わず握っていた手を外す。
「ちっげーよ!お前は!そういうことばっか考えやがって!」
「いやいや、先輩には負けますよ」
それからまた少しだけ話をして、結局外に出た。あの時感じた、あの手を掴まなきゃいけないと思った理由は、今もまだ分からないままだった。次は鎌倉駅というアナウンスが流れ、頭の中が停止した。何で鎌倉、とは結局聞かなかったまま、電車が停車すると降りた。東口はそこそこ混雑していた。ここはいつ来てもそれなりに人は多い。午後七時を回った鎌倉駅は、灯りがそこら中に群がっていて、夜の匂いなど全くなかった。騒がしい場所は嫌いじゃなかったけれど、水戸とこの場所に来ることが妙な気分だ。二人で夜の街を歩くなんて今までしたことがなかった。
大体東口のどの辺りだよ、小さく悪態を吐いて携帯を取り出した。水戸に掛けると、それはすぐに繋がる。
『はい』
「おい、東口のどこだよ」
『ああごめん、小町通りのとこ』
分かった、と言うとすぐに携帯を切った。小町通りの辺りまで歩くと、デニムのポケットに手を突っ込んだ水戸が立っている。今日はいつもの通りの格好で、いつも通り少しだけ怠そうだった。
「水戸」
声を掛けるとこちらを向いて手を挙げる。こんばんは、と言って目を細めた。
「どこ連れてく気?」
「飯でも食おうかなって。バイト代入ったし」
「お!奢りかよ」
「まあね」
「この辺美味い店あんの?」
「俺は好きだよ」
こっち、と言うと、小町通りに入っていく。相変わらず人が多いそこを並んで歩いた。特に会話はしなくて、周辺の店を眺める。ここに来るのも久々だった。
水戸が選ぶ店なんて定食屋くらいしか思い付かなくて、この近辺に並ぶ洒落た店に入るとはとても思えない。いや待て。意外とあいつは知ってそうだ。何しろ年上の女に平気で「可愛い」だの何だの言う奴だ。侮れない。
すると水戸は、脇にある小さな道に入って行き、更にその奥に進んで行く。おい、と声を掛けるも、黙って着いて来な、と返されるだけでどこに行くのか想像も付かなかった。洒落た店が遠ざかり、絶対こいつ知る人ぞ知る的なやっすい定食屋に連れてく気だ、と悟った。すると一件、小綺麗な構えの店の灯りが見えた。え、これは大人という大人が行く店なのでは高校生が行く店ではないのでは(オレは卒業したけど)。一抹の不安が過ぎる中、水戸は立ち止まる。
「お前は幾つだ」
「十六ですけど」
「え、誕生日いつ?」
「その話って今すること?」
ちげえだろ、水戸はそう言うと、それはそれは普通に引き戸を開けた。着いて入るのを躊躇われたけれど、手招きされて足を入れる。すると物の見事に丁寧な木の仕事です、という風格を露わにした、絶対入る店間違えたと思わせるには十分の内装が目の前に現れ、中のカウンターには何人もの中年が座っている。これ絶対親父が来るとこだろしかも給料出た後の金持ってる時に!お前は何歳だ水戸!
「お、洋ちゃん久しぶりだなぁ」
「え、洋ちゃん?」
こっちを見る中年連中はほぼ全員水戸を知っているようで、次々に声が掛かる。お前は何者だ水戸。水戸は、ご無沙汰してます、だの何だの返して木造りのカウンターの前の調理場を見る。そこには四、五十代くらいの割烹着を着た男性と、着物を着て髪を纏めた綺麗な女性が立っている。
「ばあちゃん、高橋さん、ごめんな。忙しい日に」
「ばあちゃん?」
言われた二人は笑顔だった。それで思い出した。「鎌倉で小料理屋やってて」「今度連れてくよ」口がぽっかりと開いて、なかなか閉じなかった。くだんの水戸のばあちゃんがまさかこんな大人の店で、しかも着物を着て料理を作っていることはもちろん、とてもばあちゃんと呼ぶような年齢には見えなかったから、驚くという感情を容易に超えた。
「は、初めまして。み、三井です」
たじろいで言うと、にこりと笑ってから頭を下げられた。
「洋平がいつもお世話になって。ありがとう」
めちゃくちゃ綺麗この人。何というか、顔だけじゃなくて表情だとか全体から滲み出るものが綺麗だと思った。それで少しだけどきどきして、どの言葉も口から出て来ない。顔を上げたばあちゃんは、またにこりと笑って、どうぞ、と奥を示した。水戸はそれを合図にまた歩き出す。中年達が、一緒に飲もうや、だとか、洋ちゃん座れや、だとか次々に声を掛けるけれど、今度また、と笑うだけだった。水戸が大人相手に動じない理由が少しだけ分かった気がした。
奥に進むと、小さな個室があった。スニーカーを脱いで上がると、畳の良い香りが鼻先を擽った。綺麗な店、と辺りを見渡してから座る。
「あの人がばあちゃんとかビビるわ」
「そう?」
「ありゃばあちゃんって歳じゃねーぞ。しかも超美人」
「本人に言ってやりなよ、喜ぶから」
「つーかこんなとこ連れてくるなら最初っから言えよな」
水戸は笑うだけで何も言わなかった。すると障子が開いて、またばあちゃんが登場する。着物を着ているからか仕草まで綺麗に見えて、見ているこっちが固まった。
瓶ビールを二本とグラスと、唐揚げやら春巻きやら小さな鍋に入った湯豆腐やら、湯気の立った料理が次々と並んでいく。
「三井さんがばあちゃんのこと若くて綺麗だって」
「あら、ほんと?ありがとう」
またこっちを見て笑うので、思わずかぶりを振る。
「未成年にお酒を出すのはダメなんだけどね、今日は特別」
どうぞ、と瓶ビールを差し出されたので慌ててグラスを持った。小気味良い音を立てながら、綺麗に泡が立つ。缶から直接飲むのとはまるで違う気がした。
「洋平も誕生日だったし」
「ああ、そうだね」
「だからお前いつだよ」
「三月十二日」
過ぎてる、ただそう思った。次は水戸のグラスにビールを注ぐ。また金色の液体がいつも以上に綺麗に見えるから不思議だ。
「洋平から聞きましたよ。お世話になった先輩が卒業したから一度連れて来たいって。東京の大学でバスケなさるんですってね」
「はあ……、はい」
「花道は元気にバスケしてますか?」
「あいつはもう、無駄に元気過ぎて」
ははは、と笑うと、またばあちゃんも笑った。そして、ごゆっくり、と軽く頭を下げて個室から出て行く。
はあ、と長く溜息を吐いてから思い切りビールを呷った。
「何その溜息」
「あのばあちゃん変にオーラがあって緊張感ハンパねえ。綺麗だし」
手酌でビールを注ぎながら言うと、水戸はえらく大きな口を開けて笑った。
「あれであの人すげえこえーから」
「え、まじか」
「俺何回殴られたかな。覚えてねえけどあんたと一緒だよ、ケンカして帰ったら殴られて、警察に呼ばれたら殴られて、ばあちゃんに殴られたとこが一番痛くてさ。あんたが傷増やしてどうすんのって思ってた」
「ぶはは!」
「花道達も何回もやられてるよ、あのばあちゃんには。多分一番おっかねえって思われてんじゃねえかな」
水戸は手を合わせて、いただきます、と言った。それから料理に手を付け始め、食べながら時々話した。オレも同じように手を合わせてから食べた。美味い、思わず声が出て来る美味さで、そりゃあの人に料理を習ったら上手くなる、と納得した。水戸は珍しく饒舌で、オレが一方的に喋ることもなかった。学校の話やバスケ部の話、それから引っ越し先と大学の話をした。いつ引っ越すのかと聞かれたので、来週末、と答える。手伝うよ、と言った水戸は目線を下げて笑っていた。
こいつはオレが居なくて寂しい、だとかそういうことを考えるのだろうか。今はよく分からない。


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