長編

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寿は結局わたしのことを何も見てくれなかったね。
知るか、ばーっか!
勿論三井はそんなことは言わなかった。実際に返した言葉は「ごめん」だった。大学生時代から付き合っていた彼女とは、初めて赴任した高校の実務が忙しく、会える時間はほぼ皆無に等しかった。平日は学校であることは勿論、土日にも月曜日の授業の準備、それから自分の時間も必要だった。よって、彼女と会うという選択肢はハナからなかった。そして別れを告げられる。思い返してみれば、さほど好きでもなかったのかもしれない。告白されてその流れで付き合って、結婚の話が出て来る前に面倒になった挙句自ら手を出すことなく相手から言わせるように仕向ける。我ながらよく出来た頭だと感心した。もっとも、負け惜しみだと言われたらそれまでだけれども。それでも、それなりに楽しくもあった。会えなくなると寂しさも募った。好きではあった。けれどもいつしか消えて行く寂しさに気付いた時、時間を乗り越えるほどの愛情はないのだと知った。その時に薄情だとは思えなかった自分は、相当厄介だと実感した。
三井は元々、教職に就きたいと願っていた訳ではなかった。免許を持っておけばとりあえずは良いだろうと、言わば軽薄な気持ちだった。実際免許は持っていても、県の採用試験には未だに受かっていない。三井は自分を酷く中途半端にぶら下がっている人間に思えた。その上三井は、高校生という存在自体が酷く苦手だった。それでも生徒達は、三井を慕った。相手にとって、採用試験に受かったかどうかなどは全く問題ではないのだと知る。それ以前にそんな内部情報は知りもしないのだ。彼らにとっての三井は、目の前の教壇に立つ若い教師でしかなかった。
初めて教壇に立ってから二年経った頃、転勤になり今の高校に赴任した。二年も経てば、ある程度は慣れた。授業のやり方は勿論、生徒との距離感の掴み方も。彼等はまた、三井を慕った。ミッチーという愛称まで付けた。悪くないと思いながらも、高校生という括りでの苦手意識は消えなかった。それを悟らせない為、彼等と積極的に関わった。
初めて赴任した年の秋の頃、この高校の学園祭に初めて関わった。祭りの騒がしさを三井は好きだった。生徒も教師もどこか浮き足立っていて、大規模な活動が結束を強くさせる雰囲気を三井は好んでいた。他校の生徒も大勢来るし、催し物も多くある。様々な生徒や教師が垣根を超えて行き来する中で、数人の女子生徒達が体育館に続く渡り廊下をばたばたと走っていた。
「おーい、走るな。危ねえぞ」
「だってミッチー先生、始まっちゃう!」
「何が?」
「知らないの?水戸くんが歌うんだよ!我が校名物!」
知らねえ何だそれ、三井が首を傾げると、女子生徒の一人が忙しく説明し始めた。ギター弾いてね、歌うの、音源もちゃんと自分で作ってるんだって!凄いんだよ、見に行ったら?そう言うと彼女は、背中を向けて体育館の方に走り出した。その走り去る姿を何の気なしに目で追いながら、水戸くん、と呼ばれていた生徒のことを思い出した。水戸、水戸、誰だっけ?ああ隣のクラスのスカしたガキね。三井は鼻で笑った。「水戸くん」の正式名称は水戸洋平という。彼は三井が担任する二年四組の隣のクラス、二年五組の生徒だった。時々廊下で擦れ違えば会釈される程度だったかも不明で、喋ったことは勿論、挨拶したことがあったかどうかも思い出せないくらい全く関わりのない生徒だった。現代文の授業は担当しているけれど、いつも窓の外を眺めていることだけは鮮明だ。その割に、テストの成績はいつも上位だった。そうそう思い出したああいうガキが一番世間を舐めてる、三井はそう思っていた。
彼を見た時、三井が何故高校生そのものを苦手とするのか再確認した気がしたのだ。世界は素敵で自分も無敵、キラキラ輝いて周り全てが美しい。高校生が思う自分の周辺なんてそんなもんだ、三井もきっと彼等と同じ歳の頃は同じように思っていただろう。けれどもそれは、社会に出て思い知ったのだ。素敵でも無敵でも美しくもない、目の前に広がるのは、眩しくもなければ逆に薄暗くもない色も変わらぬ現実だけだ。この箱の中は仮初めの輝いた世界。けれども水戸は違った。彼はどこか浮いていた。箱の中の現実も知っていそうだったし、外から見る箱の中の素晴らしさも知っていそうだった。見透かしたみたいに窓の外眺めやがってあのガキお前みたいなヤツがオレは一番いけすかねえ。三井はまた鼻を鳴らした。しかもギター少年かよ、三井は今度小さく笑った。ガキが作る音楽も歌もどうせ大したことねえんだろ、そう思った。
三井は廊下を歩き出した。歩く生徒達は疎らで、酷く少なかった。あれほど居た高校生達は何処へ消えてしまったのか。その上、見回りに歩く教師達とも擦れ違わない。おーい何が起きてる、三井は誰に問うでもなくただ独りごちるように思う。何か食おう、仕方なくしばらくぶらぶら歩いてみるものの、手作り感満載の出店は並んでいるだけで店番の連中すら居ない。消えた?まさか。オカルト的なことを考えた自分自身に思わず苦笑する。何で?三井は腕を組んで思案した。結局答えは出ず、またぐるぐると徘徊する。それでも生徒達は居ない。まさか、と思った。体育館?と。腹立つ、何か腹立つ。三井は酷く苛ついた。腕時計を見ると、水戸くんが歌うの!と目を輝かせて忙しく説明した女子生徒と擦れ違ってから三十分近く経っている。舌打ちを一つしてから、三井は踵を返した。見てやる水戸洋平!勝負!それでも早足で進むのは癪に触ったので、普通の速度で歩いた。体育館の側まで近付くと、外にも音が漏れている。そこから、熱気のような空気と生徒達の声が満ちている気がした。益々気に入らない、三井はまた一つ舌打ちをした。すると、音が消える。何?そう思った。同時に体育館の引き戸を開けてそこに入ると、我が校の生徒だけではなく見たことのない他校の生徒、それから教師達が集まっていた。
水戸は作られたステージに乗り、スポットライトを浴びて一人立っている。そこで歌っていた歌は、三井も聞いたことのある歌だった。確か随分前の女性シンガーの歌で、これもまた随分前に他の女性シンガーがカバーしていた。三井は原曲は聞いた記憶がない。ただ、カバーされた歌は聞いたことがあった。女性の声と歌い方に何となく惹かれて歌詞を読んだ時、容赦ねえ、と思ったことを覚えている。それを今は水戸が歌っていた。容赦なく残酷に目の前にある別れの歌を、ギターを弾いて歌っている。
「今年は木綿のハンカチーフですか。いい選曲するね」
その聞き慣れた声に右側を見ると、数学教師の宮城が立っている。
「どういうことですか?」
三井が聞くと、小柄な宮城は三井を見上げ、先生初めてですもんね、と言った。
「学祭だけじゃなくて他にもレクリエーションがあれば歌うんですよ、水戸が。自分で作った曲と、必ず最後に昔の歌謡曲を歌うんです。それがまたおっさん教師達にも人気なんですよね」
「へえ、おっさんね」
「今度メシ奢るんで黙っといてください」
「はは、了解です」
だからか、三井は思った。だから生徒は勿論教師すら彷徨いていないのか、と分かった。そしてその理由が分からなくもない、とも思った。水戸は特別、歌が上手い訳じゃない。勿論下手ではないし、上手いことは聞いて取れる。ただ、水戸よりも上手く歌える人間は大勢居るに違いない。ただ、違う。酷く刺さる、そう思った。この曲の歌詞を歌い上げる水戸を見て、刺さると思ったのだった。三井は以前付き合っていた彼女のことを思い出した。嫌いではなかった。好きだった。けれども三井はこの歌詞の「あなた」のように都会で就職した訳でもなければ、美しくも残酷に描かれるような付き合いをした訳でもない。ただ忘れたのだ。忘れただけだった、彼女のことを。それを鮮明に思い出した。
水戸よ、やっぱりお前浮いてるよ。
三井はそう思った。時々掠れる声が色っぽいと思った。その声を好きだと思った。その反面、箱の中からぼんやり外を眺める水戸を思い出し、高校という限られた世界の素晴らしさも、外の現実も知っているのではないかと苛ついた。その歳で知るな、と思っていた。あの輝いた場所であの声で表情で、「あなた」と「私」の別れの曲を切なげに歌う水戸を見て、そんなこと興味すらないくせに、と何も知らない筈なのに確信するように思う。




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