長編

□1
1ページ/1ページ


屋上から見下ろした先に見えるあの人は、いつも汗塗れだった。毎日かどうかは分からないけれど、水戸が屋上に居てそこから校庭を見下ろす時はいつもだ。生徒と戯れるように遊んでいる。教師であるのにもかかわらず、生徒のように同じように駆け回り笑顔で。お遊びのバスケットであったり野球であったりそれは様々だけれど、彼は酷く汗塗れで楽しそうだった。手摺に肘を掛け、それを水戸はただ眺めていた。昼休みの為にジャージ持って来てんのかね、あの人。水戸はそう思っていた。高校三年の初夏五月、どことなく気怠く生温い空気が水戸の背中をなぞる。背後では親友達が、花札に勤しんでいた。きたきた!よっしゃー!笑い声と混じったくだらなくも安堵する複数の声が飛び散っている。それもまた気怠く、どこかフィルターが掛かったように覚束なかった。陽気のせいだ、水戸はそう思った。五月の空気は、どこかぼんやりしていた。春でもなく夏でもない。それでも気温だけは段々と上昇していくのが分かる。今だってもう、十分暑かった。背後に太陽があるからそれは余計に。もうすぐ夏になる。
あち、水戸は自分にしか聞こえないほどの声で呟いた。屋上の手摺に掛けていた肘を起こし、頬杖をついた。見下ろした先の校庭では、彼が他の生徒と笑い合っている。よく笑う人、水戸はそう思った。その時だった。笑顔がぴたりと止まり、その顔が動く。何メートルも先のその人の目が、水戸を覗くように見上げる。水戸は頬杖をついたまま、その姿を見下ろした。目が合って一秒、二秒、三秒、まただ、水戸は思った。
「洋平、やらねーの?」
「んー?んー、昼休み終わるだろ」
手摺から腕を下ろし、振り返り目線を親友達に移す。水戸の目にはもう、あの人は映っていなかった。そこにあるのは、屋上とコンクリートと、笑って花札をしている親友達、それだけだ。その時ちょうど、予鈴がなる。あと五分、そう思った。すると彼らは、慌てて花札を片付け出した。やべ急げ、そんなことを言いながら。五限目の授業は出席するらしい。自分はどうしようか、水戸は手摺に体を預け、空を仰ぎながら考えていた。出ても出なくてもどっちでもいいや、本音はこれだ。
あの人はこれからどうするのだろうか。五限目に授業が入っていなければ、きっと水泳部のシャワーでも借りるのかもしれない。少なくとも水戸のクラスは、彼が受け持つ現代文ではなかった。ジャージからスーツに着替え、教官室に戻るのだろう。それもまた、水戸にしたらどうでも良かった。手摺に体を預けながら首だけを軽く回す。校庭を見下ろす。そこにはもう、あの人は居ない。お疲れさんまた明日、水戸はそう思った。
花札を片付け終わった親友達は、各々立ち上がる。そして腕を伸ばし、だりー、と呟いている。授業には出るらしい。水戸もその中で、屋上から降りようと決めた。彼らが歩き出し、水戸も後を続く。一人がドアを開け、それにもまた続いた。リノリウムと擦れるように、上履きの靴底が怠惰に鳴る。それが階段の辺りでいやに響いた。煙草吸いてえ、水戸は的外れにもそんなことを考えた。春の終わりだった。
親友達は皆同じクラスだった。教室に入ると、生徒達は未だに騒ついていた。思い思いに雑談を交わし、席には着いていない。水戸は自分の席に座り、また頬杖をつく。それから窓の外を眺めた。青空に雲が並んでいる。晴天だった。
彼の名前は三井寿という。現代文の教師でもあり、彼はこのクラス三年七組の担任でもあった。彼は普段、とても気さくだった。生徒にも好かれていた。顔も良いから勿論女子生徒達からの人気もあった。ミッチーという愛称で呼ばれていて、ミッチー、ミッチー先生、そのように皆呼んでいた。彼は、ミッチー言うな!と一応はやかましく返すものの、拒絶とは真逆の表情を見せていた。けれども彼はその反面、厳しくもあった。生徒が間違ったことをすると、きちんと注意した。分かりやすく丁寧に説明した。彼は酷く丁寧な日本語を使う人だった。且つ遊ばせた日本語を使う人でもあった。こんな面白い言葉を使う人他に知らない、水戸はそう思っていた。
本鈴が鳴った。それと同時に生徒は皆席に着いた。水戸はギターの音を思い出す。何故か今、弦を弾いた音を思い出した。譜面が頭の中に生まれる。数学教師がドアを開けた。がらりと引き摺る音がした。年老いた数学教師だった。クラス委員か号令を掛け、水戸は立ち上がる。起立、礼、着席、それが終わると、老いた教師は、今日は五十七ページから、と間延びした声で授業を始めた。水戸はノートを開いた。けれどもそこに書いたのは数字ではなく、頭に浮かんだ譜面だった。幾らでも浮かぶ譜面の中に、歌詞はない。
三井の言葉に興味を抱いたのは、春の始めだった。三年に進級し始めたばかりで、どこか緩慢で怠惰な空気が流れている五限目の授業だった。陽射しが暖かで、気を緩ませると眠気が漂う日だった。人気者の「ミッチー」の授業でさえ、皆が集中出来ない時間だった。水戸は窓の外を眺め、三井の現代文の授業を聞き流していた。その日の授業内容は、未成年の犯罪をテーマにしたある作家のエッセイだった。三井が当てた生徒が、それを少しずつ読んでいく。その日も水戸は、現代文など頭にはなく、ただ譜面が並んでいた。窓の向こう側を頬杖をついて眺め、生徒の声が流れるように耳を素通りした。全てを読み終えた所で、言葉を発したのは三井だった。
「未成年の犯罪というのは、まあ八割型大人の責任であると僕は思います。SNSが多様化して、若い人達が口で言葉を使うのが苦手になったのも原因ではあるかなとも思うんですけれども。いや、オレも若いか、はは。だからもし、何かあれば親御さんや教師でもいい。誰でもいいから誰かに話すことも大切です。……つっても分かりづれえよな、ごめん」
それは大した言葉ではなかった。流せる言葉に等しかった。それでも水戸は、三井を見た。丁寧な言葉を使ったかと思えば、途端に砕ける。作家のエッセイよりも何よりも、彼の言葉は酷く興味を抱かせた。その時だった。水戸は三井と目が合った。時間に換算すれば凡そ数秒。思い返せば幻覚だったのかもしれない。そんな覚束なく短い時間で、証拠もない。違うと言われれば納得もする。けれども水戸は、その時の言葉と三井の目線が酷く脳裏に焼き付いていた。あの視線の意味は何?水戸はそう思った。水戸は他人の、視線や感情に酷く敏感だった。彼の目に敵意はなかった。逆に好意的な何かを感じた訳でもなかった。水戸は三井と、必要最低限の会話以外したことがない。けれども、彼が水戸に対し、他の生徒と同じような笑顔を見せたこともなかった。
その日から水戸は、三井の視線を感じるようになった。ホームルーム、授業中、その他諸々。昼休みの屋上でも必ず、水戸は三井と目が合った。全身目かよ、水戸は三井とすれ違う度に思った。会釈して言葉は交わさず通り過ぎ、その体から滲む視線だけを感じた。こういう時、水戸は必ず譜面が頭の中に浮かぶ。




「……最後に、現代文の課題テストがあります。日程と範囲を掲示板に貼っておいてください。日直はー……、水戸か。後で教官室に取りに来てください。以上です」
授業が全て終わり、ホームルームも終わった。起立、礼。号令の直後、教室が騒ついた。カラオケ行かねえ?スタバ行こうよ、その他諸々、雑談が室内に飛び散った。それが漫然と響く中、水戸は日誌を取り出し、机の上に置いた。
「よーへー、先行ってっからなー」
「その前に腹ごしらえだろ」
「お前食い過ぎなんだよブタ!」
「何やる?花札の続きすっかぁ?」
その言葉達に水戸は、返答はせずに片手を上げた。ぞろぞろと連れ立って教室から出て行く連中はきっと、部室に行くのだろう。部室と言っても、使わない資料室を部室として借りているだけだった。水戸は、親友である桜木、大楠、野間、高宮と軽音部を作っていた。部と言ってもそんな大層なことはしていない。支給されている楽器など当たり前になく部費もない。用意したギターも自分の物で、その上、実際楽器を弾いて曲を作って演奏しているのは水戸だけだった。他の連中は遊んでいるだけだ。それでも水戸は、そこが好きだった。くだらない話、猥談、笑い声、時々曲の感想。それらを聞きながら弾くのが好きだった。活動内容は、文化祭やレクリエーションで弾いて歌うだけだ。そこそこ反応が良いから、毎年呼ばれていた。水戸は聴衆は気にならなかった。自分が弾いて歌えればそれで十分だった。聴衆の配列等は親友達が担当した。はいどーもどーも、並んでねー、あー手紙はこちらで!そんな対応をしていたのを見たような見ていないような、任せているからその辺りのことを水戸は知らない。手紙は確かに渡された記憶がある。
校庭からは、野球部の声が聞こえた。首を捻り窓の外に目を向けると、近くも遠い場所でキャッチボールをする野球部員の姿が見えた。頑張るねえ、そう思いながら、水戸は日誌に向き直した。内容は何てことのない言葉の羅列を書いた。三井先生は昼休みの為にジャージを持って来ているんですか?それを聞こうかと思ったけれどやめておいた。ギターの音が頭の中に響く。あの人の目とその視線は、水戸の見知らぬ何かを掻き立てた。
くだらねえ、書き終わった日誌を持って立ち上がった。教室にはもう誰も居らず、靴底のゴムの音が酷く室内に響く。教室のドアの音も然り。教官室に向かう途中、昼間とは違う日が射していた。夕暮れに近いものだった。オレンジと赤が混合した、絶妙な配色だった。それを横目で見て歩きながら、教官室を目指した。
「失礼します」
そのドアは、教室の引き戸と同じ音がした。辺りを見渡すと、彼一人しか居ない。
「ああ、水戸か」
三井に言われ、水戸は会釈した。そこは狭く、現代文の教師だけが集まる教官室だった。水戸は彼に近付き、日誌を手渡した。
「お疲れさん」
「どうも」
まただ、水戸は思った。また見てやがる、そう思った。
「三井先生」
「ん?」
俺のこと見てますよね?一瞬だけ、それを聞こうかと逡巡した。けれどもすぐに止める。無駄だと思ったからだった。
「先生は、昼休みの為にジャージ持って来てんですか?」
「え?」
「見えるんですよ。俺ら屋上で飯食ってるから」
「なるほどね」
三井は一度目を伏せて笑った。嘘つけ知ってるくせに、水戸はそう思った。今日も見てたろ?と。
「そうだよ、昼休みの為にジャージ持って来てんの。必死だろ?」
「そうですね」
今度は水戸が目を伏せた。その先には、三井の靴が見える。目を上げると、彼はまた、水戸に視線を向けていた。
「水戸」
「はい」
「お前さー、あの、あれだ。毎日弾いてんの?」
「は?」
「ギターだよ。あそこで」
「知ってるんですか?」
「そりゃ知ってるよ、担任だし。文化祭も見たことある」
へえ、水戸は小さく言った。そしてその後で、当たり前か、とも思った。もしかしたら校内で、水戸がギターを弾いていることを知らない人間など居ないのかもしれない。
「今日も弾くの?」
「弾きますよ」
「いつまで?」
「陽が沈むまでは。好きなんですよ、夕陽」
そっか、三井はそう言うと、現代文の課題テストの日程と範囲が記されたプリントを取り出した。そして水戸に、それを差し出す。水戸はすぐに受け取らなかった。三井を見た。一秒、二秒、三秒、その間二人の視線は絡み合った。そこでようやく気付いたのだ。三井の視線の意味を知った。そうか、そう思った。なんて単純、とも思ったのだった。
プリントを受け取ろうと、水戸は指を伸ばした。綺麗な指、水戸はふっと息を吐き、緩く笑う。紙を受け取る。その瞬間、一瞬だけ彼の指を撫でた。それからまた三井を見据えると、彼は当然のような表情をする。お前がそれをするのは当然だと、彼の目はそう言っているように見えた。上等だ、水戸はプリントを受け取り、その手を引いた。
「じゃあ、失礼します」
「おう、また明日」
それには返答せず、水戸は会釈して踵を返した。教官室の引き戸を開けると、またがらりとうるさいほど音が鳴り響く。窓の外からは、落ちるには未だ遠い陽が溢れていた。
「課題テストの範囲、ねえ」
水戸は教室まで歩きながら、そのプリントを翳した。
「現代文五十六ページから百六十三ページ。長えだろ、これ」
また俯いて、息を吐くように一度笑う。それから顔を上げ、窓の外を眺めた。
絡む視線、淀む表情、勝気な瞳、熱い指先、一曲書けそうだ、水戸は思う。好きなんですよ、夕陽。自ら発した言葉を思い出しながら、あの視線の意味とギターの音が混じり合うのを顕著に感じた。
あの人が好きなのは俺だ、水戸は何の疑いも迷いもなく、確認するようにそう思った。





2へ続く

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ