長編

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掌にバスケットボールの感触が当たるのは久々だった。突くとそれは、小気味良い音が公園内に響き渡る。見上げた空は快晴で、雲一つなかった。澄んで冷たい空気は頬を容赦無く突き刺すけれど、それは決して不快ではない。むしろ心地良かった。この音を聞いたのはいつ振りだろうか。大学二年の時に膝を怪我して、それから遊びで触ったことはあったけれど、すぐに本気になるからやめたのだ。
ドリブルをして軽く走る。全く違和感のない膝に、もしかしたら治ったんじゃないかと期待した。でもそれは、すぐに諦めに変わる。どうせもう出来ない、と。
公園のコンクリートの上を走ると、時々砂とゴムの擦れる音がした。オレが今履いているのはバッシュではなくスニーカーで、ボールが叩かれる先はコートの上ではなく簡単なコンクリートだ。これはお遊び。脳内で反芻する。
学生時代、オレはスリーポイントシュートが得意だった。バスケ推薦で入学したから、とにかくひたすらシュートの練習をした。朝練でも、練習後も、ずっと。だから長らくバスケをしていなくても、距離くらいは覚えている。ドリブルをしてその距離を測り、一度止まる。また何度かその場でボールを突いて、膝に力を入れた。少しだけ怖かった。それから足の裏に力を入れて飛ぶ。飛べる、そう思った瞬間、手首を返してボールを離した。
ずっと忘れていたこの感触。入った、と確信出来る瞬間。身体中に電圧が走ったみたいにぞくりとする。紛れも無いこれは快感だ。こんなにも健全で高揚する感覚は、バスケを辞めた時から感じたことがなかった。革紐の乾いた音が耳に届く。オレはこの音が、昔から好きだった。
「すげ……」
近くのベンチから隠しようもない感嘆の声が聞こえ、オレは得意げに笑う。
「だろ?すげーんだよ、オレは」
なぜこの公園でバスケをしているのか、それは水戸が言い出したことだった。アパートで昼過ぎまでだらだらと寝ていて、もう起き上がることも億劫になっていた。水戸はローテーブルの前を陣取り、コーヒーを飲んで煙草を吸っていた。本来、コーヒーはオレの担当になるのだけれど、エアコンと太陽光で充満した室内の、それはそれは心地ベッドから抜け出すことは至難の技だったのだ。もう動けない、というより動きたくない。ここは水戸の匂いも混在しているから、目を閉じればまた眠りそうになる。
室内では煙草の煙が揺れていた。白くてぼんやりして、不規則的に揺れて消える。その漫然とした動きに、また睡魔が襲う。今は何時だろうか、昼過ぎということは分かっているけれど、それ以外は分からない。
午前十一時頃、遅めの朝食を食べたのだけれど、それからどうしても動く気にはなれず、またベッドに入った。うつらうつらと気持ち良くなって来た所で、後片付けが終わった水戸も入って来る。もういいんじゃねえ?と思いながらも、その乾いた指先と乱暴な唇が触れると体が反応するのは、ごく自然なことのように思えた。結局、真っ昼間の明るい室内で最後までするのだった。あの指と唇は、とことんオレを駄目にする。そして平気でオレを傷付ける。散々傷付けて立ち上がらなくさせておいて、欠片も残さないまま立ち去るに違いない。
その後、少しだけ眠った。目が覚めると、水戸はローテーブルの前に座っていた。そして煙草を吸っていて、オレはその煙を眺めている。睡魔と戦うこともしたくないけれど、水戸の背中を眺めているのも悪くない。今はスウェット着ているからきちんとした形は分からないけれど、水戸の背中は酷く無駄がない。無駄な脂肪もなければ、無駄な筋肉もない。多分、喧嘩に必要な適度な筋肉しか備わっていない気がした。昨日のあれを思い出す限り、奴は喧嘩でさえ無駄を全て省いている気がする。平気で急所を狙い、相手を薙ぎ倒す為なら道具だって使うのだろう。躊躇いなくナイフを手に取ったのがいい証拠だ。
「そんなに男前?」
「え?」
水戸が振り向いた。目が合ってどきりとする。呆れるように笑う水戸は、いつもと何かが違う気がした。
「気付いてたのかよ」
「あんだけ見られりゃ気付くよ」
深皿に煙草を押し付け、水戸は立ち上がる。オレは急に目が冴えてしまい、水戸が歩く先を見た。着替えが入っているクローゼットを開けたので、スウェット上下の部屋着を変えるのかと思ったら、違う。何かを奥の方から出している。オレも起き上がり、ベッドの下に投げっぱなしの長袖Tシャツとスウェットを着る。暖かい室内は、パーカーを羽織らなくても平気だった。何気なく窓から見える空を眺めると、今日は快晴過ぎるほど快晴だ。こんな日に部屋で昼過ぎまでセックスとか、不健康過ぎて笑える。
水戸がクローゼットを閉じた。何を出したのかと聞こうと思っていると振り返り、着替えて未だにベッドの上に居るオレに球体の物を投げる。反射的に受け取ると、見るのも久々なバスケットボールだった。
「何で?」
「前に掃除した時出てきてさ。というわけで、俺にクリスマスプレゼントくれよ」
「は?何がというわけだ。用意してねーよ、アホか」
「バスケ」
は?もう一度聞いた。
「あんたがバスケしてるとこ見せて」
「いやいや、言ったろ?膝壊してんの」
「遊びでやるくらい大丈夫だろ」
水戸は引く気がないのか、こっちが言うことなど聞く気がないのか、平然と言う。それどころか、行くよ、と言って一人玄関に向かっている。あいつは着替える気もないのか、上下グレーのスウェットのままだ。ちょ、とりあえず声を出してみた。それでも水戸は、早く、と気にすることなく進んでいる。
くそ!と、結構大きな声で言った。当然の如く、水戸は無視している。もう一度クローゼットを開け、適当にチノパンとパーカーを取り出してそれを着た。外は暖かそうだけれど、とりあえずボアが付いているデニムジャケットを手に取る。
「水戸ー!お前上着は?」
「あー、じゃあ適当に持って来て」
上下グレーのスウェットに合うアウターって何?そう思ったけれど、水戸がいつも着ているスタジャンで良いやとそれを手に取った。
小走りで玄関に向かうと、水戸はもうスニーカーを履いていた。オレもスニーカーを履きながら、水戸にスタジャンを渡す。手にはバスケットボール。この感触がまた掌に張り付くなんて、こいつに取り出されるまで、考えてもいなかった。
そして現在に至る。
一本シュートが決まると、体が疼くのは当然だった。ドリブルをして軽く走る。なるべく膝に負担が掛からないように止まり、シュート。それを何度か繰り返した。ボールに触れて思う。これが全てだった時間が、オレには確実にあったのだ。あの日を境に辞めてしまったけれど、それは紛れも無い事実だった。
「よく決まるね」
「そういうポジションだった」
そう言って走って、今度はレイアップをしてみる。驚くほど体が軽くて、外す気がしなかった。また一本決めると、水戸は軽く拍手をする。ライターの音が小さく耳に届いたから、煙草を吸うのだと思った。
「やっぱ花道とは違うわ」
「桜木先生ってポジションどこ?」
「分かんねえよ、そこまで。ただ応援するだけだし」
ふーん。そう返して、次はジャンプシュートをしてみると、やはり決まる。……現役時代より決まってんじゃね?と軽く苦笑した。
「花道のプレイは何つーか、全然バスケ知らねえ俺でも圧倒されんの。会場全部巻き込んで、何かやる度に沸いてさ。次何やるか分かんねえし、見てて飽きなかった。多分推薦も来てたんだろうなぁ……」
「だったら何で」
「言ったろ?バカヤロウが無茶やっから医者になるって聞かなかったんだよ」
オレはボールを突いた。とん、とん。その音が、二人以外誰も居ない公園内に響き渡る。
「なあ?」
水戸に声を掛けた。ボールを突くことは止めない。とん、とん。一定のリズムで響いている。水戸はオレを見た。
「お前の宇宙船にオレも乗せろよ」
「宇宙船?ああ、言ったね。宇宙に帰るって」
そうだった、水戸はそう言って笑った。
「ダメだよ。一人乗りだし」
「即答だな」
水戸は俯いて笑う。前髪で隠れて、目が見えない。
「じゃあお前も乗るのやめれば?」
「どうすっかなぁ……」
「ずっと居ろよ」
何も言わず口元で笑うだけで、水戸は黙ったままだった。ああもう駄目だ。そう思った。
「三井さんさぁ」
「何だよ」
「もう一回やってみなよ」
「何を?」
「バスケ」
こいつは自分のことは何も言わないくせに、オレには平然と吹っかける。駄目だ無理だと無言で分からせる上に、その目で追い詰める。
「だからオレ、膝やってんだって」
「もう一回診て貰えばいいだろ?遊び程度ならやっていいって言われるかもしんねえじゃん」
掌には、規則的にボールが触れる。小気味良い音はやまない。耳の先をずっと掠めている。とん、とん、と。跳ねる感触と振動が伝わって、それと同時に水戸が真剣だということも分かった。
「何で急にそんなこと言い出すんだよ。今まで言わなかったろ?」
「あんたさぁ、気付いてる?すっげえ良い顔してるよ」
「え?」
「花道も未だにやってる。お遊びでチーム作って暇な時に集まってんだって。今度会ったら聞いてみな」
オレは息を吐いた。どうにも出来ない、ただそう思った。でもボールが触れるのが心地良いのは確かで、今はボールを突くこの音だけが救いだった。時折吹く冷たい風に、オレは肩を竦める。動かして暖まった体が冷えるのはとても容易く、何故かそれは妙に終わりを見据えさせた。
「分かった」
そう言うしかなかった。だけれど、何に対しての「分かった」なのか、よく分からない。
ボールを突き続け、冷えた体をまた暖めようとドリブルを始める。こんなにも重苦しいのに、体は軽い。相反しているのが不思議で仕方なかった。
「三井さん」
「んー?」
水戸が呼ぶ声に適当に返事をして、走る。軽く走って一瞬立ち止まり、シュート。また決まる。嫌になるほど決まるのが、酷く滑稽な気がした。
「俺、あんたを傷付けたかっただけなんだよ」
「それは聞いた」
「ここで八年振りに会った時、本当はすぐに分かった。あんただって」
え?そう言って立ち止まる。水戸はまた煙草を取り出し、火を点けた。紫煙が空中に揺れている。
「何で分かったんだよ」
「これ」
水戸は咥え煙草のまま、右の人差し指で自分の左の顎下を二度ほど軽く叩く。その仕草に、オレは自分の傷痕に触れた。
「付けたかった。俺が」
吐き出した煙は当たり前に白くて、ゆらゆらと揺れるそれは、何故か酷く郷愁を誘った。八年前、自販機の隣の古びたベンチで毎日話したことを思い出す。
「何で消えたの?あの時」
「何でだろうね」
「どっか行くならオレも連れてけよ」
「ごめん」
水戸は頭を掻いた。俯いたまま煙草を吸っていて、表情が見えない。
もう本当に駄目なんだな、そう思った。ただ淡々と。受け入れるように、そう思った。分かっていた。水戸は決めたことを覆すような奴じゃないことも、話す気がないのなら決して喋らないことも。
それならせめて、水戸に傷付けられたいと思った。一生消えない傷痕を付けて欲しいと思った。今体についているようないつか消えるものじゃなくて、もっと鋭利で根深なものが欲しかった。
水戸は顔を上げた。オレを見て数秒、それから煙草を携帯灰皿に押し付けた。見届けてから、またオレはドリブルを始める。スリーポイントラインを測ってシュートをする。入った。ボールが手を離れた瞬間に分かる。それと同時に、革紐の擦れる音が聞こえる。水戸が、ナイッシュー、と声を掛け、手を叩く。オレは笑った。上手く笑えているかどうかは分からない。ただ、もう一度バスケをやってみようと思った。バスケを無くした日にも水戸が居て、またやるきっかけを作ったのも水戸だった。
どうせ居なくなるのなら、それが水戸の傷になればいい。



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