長編

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病院に着いて、救急の入り口を開ける。そこの事務室に居た警備員が水戸を見ると、ぎょっとして口を噤む。どうも、と一言言ってそのまま進み、勝手知ったるという足取りで歩いて行く。夜だからか人も居なくて閑散とした廊下を少しだけ歩くと、救急外来と書いてある自動ドアがあった。そこで止まることなく水戸は進むと、音を立ててそれが開く。待合室にあまり患者は居なかった。が、数人のその人達はやはり今までの人と同じように水戸を見る。水戸はもう慣れているのか気にもせず、すぐに受付へと向かったのだけれど、ちょうど診察室が開き、そこから出て来たナースと目が合う。
「水戸くん?」
「あ、今日ゆりこさん居たんだ。ねえ、花道居る?」
「居るけど、どうしたのそれ」
「はは、まあいつものってことで」
ゆりこさんと呼ばれていたナースは一つ溜息を吐き、ちょっと待ってて、と言うとまた診察室に戻って行く。水戸が長椅子に座ったので、オレも続いた。
「おい」
「何?」
水戸が傷だらけの顔でオレを見た。
「お前、あのナースと何かあったろ?」
「さあ、どうだったかな。はは」
誤魔化すような水戸に、オレも乾いた笑いで返した。あれはまあ、分からんでもない。というより分かる。多分男なら誰でも好きだ。綺麗だけど少女のような可愛さもどこかに残っていて、その癖何か妙にエロい。
「三井さん、まさか嫉妬?」
「アホか、あの人ならオレだってお願いしてーよ」
「あんたと兄弟とか死ぬほどやだ」
「あーあーあー!認めやがった!」
「うるせえな、病院で騒ぐなよ」
誰のせいだ、誰の。ただでさえ目立っているのに、余計に注目されてしまった。それが妙に罰が悪くて、仕方なしに黙ってしまう。急に居心地が悪くなり目線が定まらなくなる。不意に斜め上を見上げると、それは病院らしい白くて清潔感の溢れた天井だった。
首が痒い。急に首の辺りに違和感を感じて、天井を仰ぎながら首を掻いた。何の気なしに痒いと思って、何気なく掻いた。すると、酷く滑りがある感触が手に残り、特に構わず掌を見る。
「うわ!」
思わず大きな声が出た。周りの人間がオレを見る。水戸も勿論その一人だった。見た先の水戸は傷だらけで、その姿を今初めて見た訳でもないのに、目を見開く。目の上は切れていて、それを乱暴に拭ったのか顔の半分は既に乾いた血が付いている。鼻血も出ているし、唇の横にもそれはある。鬱血した両頬と、目と、自分の血か相手の返り血か分からない点々と赤いが付いたTシャツ。
そして、血塗れの掌。
オレの掌にも付いているのだ。血が。
初めて見た訳じゃない。小さな傷は今までもあった。でもそれは、こんな風に掌が血に塗れるほどじゃない。足が冷えた。下から這い上がる寒気のような物を感じた。体全体が震えているのか、掌もそうなっているのが分かった。殴られた頭部。喉元に当てられたナイフ。縛られた手首。一歩間違えたら、多分オレは今この場に居ない。急に襲った震え、これは恐怖だ。掌には未だに血が付いていて、それは鮮やか過ぎて目を逸らしたくなる。赤い。否応無く赤い。
「三井さん?」
水戸がオレを呼んだ。奴らに暴力を振るい、振るわれ、それを日常に身を置いている水戸が、オレを呼ぶ。
「酷え顔」
手が伸びる。オレに近付くそれは、乾いた赤が全体的に滲んでいる。赤い赤い、首から流れている物と同じで、赤い。その手が触れる瞬間、体が震えた。反射的に引いた。初めて水戸を、この手を。水戸から目が離せなくて視線が交わったまま数秒、赤と青紫に染まった顔を再確認しながら、気付く。怖いと思ったのだ、水戸自身を。あの手が、触れる手が、怖い。
水戸は笑って俯いた。その手はもう、膝を開いた足の間にぶらりと下がる。その姿を見た瞬間、オレも俯いて歯を食いしばった。
「水戸くん、どうぞ」
その声に顔を上げる。ゆりこさんと呼ばれていたナースが、診察室を開けて水戸を呼んだ。水戸は立ち上がると、オレも来るようにと顎で示した。立ち上がり、水戸の後に続く。震えはもう治っていた。
診察室を開けると、赤頭の桜木先生が待っていた。口を曲げて、それは酷く不機嫌そうに見えた。でかい図体と赤頭と相俟ってか、やはり医者には見えない。
「よう、花道」
「座れ」
「俺じゃない。先にこの人診てやって」
桜木先生とナースの視線がオレに集中する。水戸の怪我具合が酷過ぎて気付かれなかったけれど、一応首元が切れているのだ。何かすいません、という気持ちになるのはオレだけでしょうか。
「分かった。洋平は先に手と顔洗って来い」
水戸は何も言わず、奥にあるらしい洗面台に向かう。オレの横をさらりと通り過ぎる姿は、知らない人間のようで目を逸らしたくなった。それを悟られないように先生の前にある黒のスツールに座るけれど、何も話せなくて自分でも驚いた。少し前に彼は、「洋平を頼む」と言っていたのだった。頼むも何も、オレには多分、何も出来ない。
「襟」
「は?」
「そのシャツ、もう捨てた方がいいな」
「え、何で」
「血が結構付いてる」
あ、と小さく言って、また首の辺りに手をやる。そこは未だに滑っていて嫌になった。桜木先生は手を消毒し、ビニール手袋を付けた。
「ナイフだな?」
答えるのも少し億劫で、オレは目線を逸らして軽く頷いた。
「ちょっと痛いかも」
小さく言って、首に触れた。その動きに思わず体が驚く。息を吸うように声が出た。結構痛い。これは痛い。
「傷見たか?」
桜木先生はナースに「ガーゼとテープください」と言ってから、鏡を取り出す。見てみな、そう言われて見てみると、うわー、と勝手に言葉が出て来る。
「傷の幅は五センチくらいなもんだけど、深さがちょっとあるな。縫うほどじゃないし自然に塞ぐと思うけど、化膿止めの抗生剤と塗り薬、それから毎日ガーゼを変えること。まあ五日だな。それでも何かあれば必ず来てください」
「はあ」
急に医者らしい言葉遣いになる先生に、若干動揺した。ナースからガーゼを受け取ると、傷口に消毒を始める。ぴりぴりと針を刺すような痛みが身体中に走った。自然と掌に力がこもり、いってーなー、と脳内でそれだけがぐるぐると駆け巡る。
「他は何かあったか?」
「え?」
手を止めないまま聞かれ、首の痛みのことしか頭になかったオレは、返答に困った。
「巻き込まれたってとこだろ?」
桜木先生が笑って言った所で、水戸が帰って来る。そうだよ、とオレの代わりに答えた水戸の顔は、酷く冷静に見えた。淡々と無表情で、目は黒く冷たかった。顔自体は水で洗った後だからかいくらかすっきりしていて、血も流れていない。表情が冷えていたとしても、あの傷だらけの赤い顔を見なくて済むと思うだけで自然と胸を撫で下ろしている自分が居た。
「例えば他に殴られたとか。オレには状況が分かんねーから」
「あーっと、頭殴られて気ぃ失っちまってよー。でもそっからすぐ意識が戻ったから何でもないと思うけど」
余りに間抜けな状況だったと今でも思う。酷く罰が悪くて、それを隠すようにオレは笑った。
「頭?」
頭上から水戸の怪訝な声が聞こえる。見上げるとそこには、眉を顰めた表情が見えた。
何かもうまじで雰囲気が悪い。首はいてーしオレのせいじゃねーだろ。吐くつもりのなかった溜息が漏れた。
「聞いてねえよ」
「だって言う暇なかったろ」
オレ達の遣り取りなど特に気にもせず、桜木先生は処置を続けた。ガーゼを当て、上からテープを貼り付ける。いつも内科診療しか見ていなかったから、その手際の良い処置に感心した。医者ってすげーんだなぁ、と的外れなことを考えた。
「終わり。次は頭。殴られたのはどの辺りだったんだ?」
えーっと、と言いながら、頭の後ろを探る。そこは盛大なコブがあって、触ると痛いの痛くないので、まあ痛いのだった。旋毛の辺りが腫れているのが触れるだけで分かる。桜木先生は、後ろ、と言って、スツールを回した。
触診を始め、それからボールペンを持った先生を見て、目の動きをチェックした。
「特に異常はなさそうだけど、一応月曜にCTの予約入れとくな」
「えー……、まじか」
「行けよ、いいから」
上から睨み付ける水戸を見ると、誰のせいだよ、と思う。それでも、憎いか、と聞かれたら違う。ありがとうございました、と小さく言って軽く頭を下げ、スツールから立ち上がった。水戸を一瞥すると、先出といて、と言う。もう一度会釈して、オレは診察室を後にした。
そしてまた、さっきまで座っていた長椅子の同じ席に座る。とにかく今は、何も考えられない気がした。ただ天井を仰ぎ見ているしか出来なくて、静かな待合室は物音が余りないからぼんやり出来るのが今は救いだった。時々人が診察室から出ては入ってはの繰り返しで、それ以外話し声も物音もない。静かで静か過ぎて、掛け時計の秒針の音もない。時間を見ると、午後八時半を回った所だった。多分帰宅は九時を過ぎるだろう。今日は体が酷く疲れた。怠い気がする。何をするにも億劫だった。しばらくそのままで座っていると、受付から呼ばれ、支払いをする。同時に薬と月曜日の予約表を渡され、それを見ると月曜日の朝十時に放射線科と記載してあった。また長椅子に座り、もう一度見る。それは当たり前に手書きなどではなく、綺麗にプリントされた文字で、今何故かブラックジャックから渡された汚い手書きの紙袋を思い出した。
診察室が開いた音がして、そちらを見る。そこからは水戸が出て来て、特に処置された様子はなかった。洗われて血の出ていない顔と、鬱血した肌、そこにはオレのようにガーゼとテープを貼られた様子もなければ、小さな絆創膏すらない。何も言わずオレの隣に座り、また沈黙が走る。会話もなければ、また物音すらない。次は受付から水戸が呼ばれ、支払いを済ませる。長椅子に戻っていた時には薬も持っていた。痛み止めや化膿止め辺りだろうか。
「帰るよ」
「ああ、うん」
また来た道を戻り、病院を出る。暖かい院内とは真逆の寒さが体に触れた。水戸は病院に停まっていたタクシーの方へ歩き、運転席の窓をノックした。お願いします、と一言言うと後部座席のドアが開く。乗るのか、と思い、それに乗った。続いて水戸も乗ると、手際良く住所を告げる。車内は暖かくて自然と力が抜ける。タクシーで良かった。今日はもう、歩くのも電車も嫌だったからだ。とにかく体が疲れていた。食欲もないし、考えることも億劫だった。車内で会話はない。ずっと黙ったままだ。互いに。しばらくタクシーは走って窓から街並みを見る。それはいつもと変わらない景色で、いつもと同じように人は歩いている。あの人達はオレに何があったのか、水戸がやっていることも、何も知らない。その当たり前のことを、ただ流れていくことだけを、初めて知った気がした。




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