長編

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嫌だろ?自分が的になってるかもしんねえのに。
その時オレは本当に恐怖も何もなくて、だからといって何かが起きた時に水戸がどうにかするだろうと高を括っていた訳でもない。ただ、もしかしたら何かが分かるかもしれないと打算的な考えを持っていたのは確かだった。それがどれだけ浅はかだったとも知らず。
真っ暗だった世界がぼんやり白ずんできたのは、あれからどれくらい経った後だったろう。何度か瞬きして目の前に見えたのは、灰色のようなコンクリートだった。頭が重くて、未だに規則的な痛みがある。とりあえず声を出してみると、呻き声のような唸り声のような、低い自分の声が耳に届く。どうやらここは、天国ではないようだ。
「よう、兄ちゃん」
コンクリートと靴の擦る音が聞こえ、そちらにゆっくりと目を向ける。オレの目の前に座ったのか、靴の先としゃがんだ膝が見えた。視線を上げると、長髪で咥え煙草に髭面の男が居た。体を動かそうとするも、どうやら後ろ手に縛られているようだった。だから上手く体が動かない。
「手荒な真似して悪かったな。起きれるか?」
この格好を嘲笑されているように感じて悔しくて、かっこ悪かろうがずるずると膝を動かし、辛うじて起き上がる。胡座をかいて長髪髭面男を睨み付けると、男は未だに笑っていた。辺りを見渡すと、廃ビルのような古臭くて埃っぽい場所にざっと十人程度だろうか、ガタイの良い男が所かしこに散らばっていた。匂いもどこか黴びたような、湿った空気で充満している。
さすがに水戸さん、これはヤバそうな予感がします。
「オレにどういったご用件でしょうか?」
「兄ちゃんなかなか肝が座ってんな」
「座るも何も、この状態でどうしろっつーんだよ」
そう言うと、長髪髭面男(もうめんどくさいから長髪でいいや)は今度は盛大に笑い出して煙草をコンクリートに押し付ける。オレはというと、未だに頭が重くて痛くて、あの時の衝撃が何かで殴られたのだとようやく分かった所だった。気絶する程度にされたのだろうとは思ったけれど、ここまで酷くするものなのか。やはりこっちの世界のことはまるで分からない。
「質問に答えてくれたら手出しはしねえ。もし兄ちゃんが水戸を呼び出すエサになりそうにねえなら逃がしてやる」
だからちゃんと答えな、長髪は最後、低く言った。肝なんか座ってねーよ逃げてーよまじで。心底思った。
「お前と水戸の関係は?」
「ただの同居人。一ヶ月普通に住んでただけだ」
「一ヶ月?」
長髪はその言葉に引っ掛かったらしく、目を丸くする。オレにはそれのどこに引っ掛かりを見付けたのか、全く分からない。
「お前、水戸の仕事の話は聞いたか?」
「そんなのこっちが知りてーよ。あいつは普通に住んでただけだ」
「普通って?」
「普通に飯食ってくだらねー話して、そんなもんだよ」
今度長髪は眉を顰める。嘘は吐いていない。やったやってないは多分質問の内容には無関係だ。
「水戸が何て呼ばれてるか知ってるか?」
「は?」
今度は、意味が全く分からなかった。とにかくオレは、仕事内容は勿論、過去の話は水戸から聞いたことがないのだから。
「狂犬だ。もっとも犬なんて可愛いもんじゃねえけどな」
納得がいくようないかないような。オレは多分、水戸の裏か表か、そのどちらかは知らないけれど、どちらかしか知らない。いや、どちらも知らないのかもしれない。今思い出すのは、笑った水戸しかない。
「狂犬だか何だか知らねーけど、オレは笑った水戸くらいしか知らねーよ」
「……ビンゴだ」
長髪はデニムのポケットを探り、何かを取り出す。そこから出したのはオレの携帯だった。
「これは兄ちゃんのだな?」
「そうだよ」
慣れた手でそれを構うと、コンクリートに置いた。反射的に目をやると、水戸の名前が出されていて水戸の携帯に繋がっている。スピーカーボタンは既に押されているのか、しんと静まり返っている廃ビルにコール音が響いていた。それは鳴ったかと思えばすぐに切れる。
『てめえ、誰だ』
それに出た水戸の声は今まで聞いたことのないほど低かった。怒りだ、誰が聞いても分かるほど、それは狂気に満ちていた。
「水戸だな。やっとお前に辿り着いたぜ」
『誰だって聞いてんだよ。答えろ』
「セントラルビルで待つ」
『待てよ、そこに連れてった奴が居るだろ。変われ』
長髪が、オレに声を出せと、顎で示す。
「あ、オレ」
おっかねー……。長髪に対してではなく、オレの方が水戸の声に気圧され、何を言えば良いのか分からず的外れな言葉を喋った気がする。
『無事なの?』
「まあ」
頭を殴られて気絶したけれど、水戸が余りにおっかな過ぎて言える筈もない。罵られるに違いないからだ。
『気を付けろっつったろ。人の話聞いてねえからこんなことになんだよ』
「お前なあ!あの状況でどうしろっつーんだよ!知るか!」
ほら見ろ。こっちは被害者だっつーのまじで。
『元気そうだね。じゃあいいや』
代わって。水戸が続けるので、オレは長髪を見る。
「来るんだな」
『お前テツオだろ?』
「ご名答』
『そいつに手ぇ出してみろ。真っ先にてめえの首へし折ってやる』
無機質な機械音が規則的に聞こえ、通話が切れたことが分かった。オレが分かったのは、水戸がおっかなかったことと、長髪の名前がテツオだというくらいだった。自分で逃げ出す為に足を進めることなく、話は進んでいるらしい。呆気に取られる、とは正にこれだ。
「兄ちゃん良かったな。お前さんに感謝するぜ」
「されねー方が良かったよ」
「度胸あんなぁ。水戸が一ヶ月も住む訳だ」
そこだ。長髪が言うには「やっと辿り着いた」、らしい。ということは今まで見付からなかった。それは多分、一ヶ月も同じ場所に居なかったからだ。拠点はあったにしても、所在地を転々としていたに違いない。明らかに柄の悪そうなこいつらが水戸を探している。聞いた所でろくなことにならないことは分かっている。でもオレが知らないことを多分、こいつは知っている。
「オレも聞いていいか?」
「いいぜ」
「何で水戸を探してんの?」
「あいつはな、兄ちゃんが言うような普通じゃねえんだよ。尻尾捕まれねえように三日同じ場所に居たこともねえ。俺の首へし折るのも本気だ。頸動脈咬み千切って人殺すくらい平気でやる狂犬なんだよ」
もうこんなことになっているのだ。この程度、聞いた所で何でもない。特に驚くことでもない。
「答えになってねーな」
「続きがある。そいつが今、サツの犬になってんだよ。八年前、急に消えたと思ったらいつの間にか奴らと組んでやがる。お陰でやり辛くてしょうがねえ。仲間も捕まったしな」
「八年前……?」
八年前に急に消えた、オレと一緒だ。水戸は一度、誰の目の前からも急に消えたのだ。どうして。
「なあ!」
こいつなら他にも何かを。
「お喋りはここまでだ。来たぜ」
その時、何メートルか離れた先のドアが、錆びたような音を立てて開く。見るからに重そうなそれは、暗い廃ビルによく似合っていた。この重苦しい雰囲気そのものだ。開いたそこに立っているのは明らかに他の奴らより小柄なのに、それを感じさせないほど得体の知れない気配を纏って大きく見える水戸だった。背負う空気が酷く重い。オレは水戸を見て初めて息を飲んだ。ごくりと飲んだ唾の音が、脳味噌に響く。その目は異様な眼光を放って見えて、人を喰らって生きる獣のようだった。水戸の体中の皮膚から電圧が走っているような感覚を覚え、背筋が一瞬粟立つ。初めて見る水戸で、これが本来の水戸なのかとオレは疑う。毎日一緒に過ごしたそいつとは別人のそれで、長髪の言う狂犬が酷くしっくりきた。
それでも水戸が怖いかと聞かれたら違う気がする。オレは多分、どの水戸を見ても普通としか思えない気がした。何故か今、一緒に過ごした小さなあの日々が、妙に脳裏を過る。
「よう」
「早かったな、水戸」
「こんな悪趣味なことすんの、てめえくらいなもんだろ」
「察しが付いてたってやつか」
今ここで、オレが「おーい」と呼んでも返事すらないんだろうな。この妙な空気が嫌になる。とりあえず水戸も来たんで、後ろ手に縛ってあるロープ解いてもらっても良いですか?そう思って辺りを見渡すけれど、全員が水戸に注目していて、オレになど目もくれない。これ、普通に逃げられるんじゃね?
「三井さん、無事?」
「お陰様で」
「あんたはほんと、この空気が似合わねえな」
「オレだって似合いたくねーんだよ」
水戸が急にいつもの顔で笑うので、やっぱり変わらないと思った。狂犬だか何だか知らないけれど、水戸はオレの中で水戸でしかない。
「お前も笑うんだな」
長髪がオレの横で話し出すと、また水戸の表情が一変する。
「生憎ロボットじゃないんで」
「何で狂犬がサツの犬に成り下がった」
「元々狂犬でも犬でもねえよ」
「俺のこともはってやがったな?」
「お陰で手間が省けたぜ。そっちから現れてくれりゃ好都合だ。あいつら捕まったくせに口割らねえってよ」
すみません。お話がさっぱり分からないんで、とりあえずこのロープお願いします。また辺りを見渡すと、一人じりじりと水戸の方向に近付く奴を発見する。そいつに、おい、と声を掛けるとこちらを見た。外せよ、と言うとおもむろに首を腕に挟まれ、体が固定される。篭る力と圧迫感に、喉が詰まった。
それを合図に水戸が動く。オレを固定している奴以外の連中が、水戸の方向へ走る。まず一人、水戸の右ストレートが顔面に喰らわされ、反動もあってか吹っ飛ばされた。すげー痛そう、と他人事のように考えていると、相手が水戸を殴る。次の奴が蹴り付ける。それでも水戸は倒れず、鳩尾、喉元、耳、と次々に急所を狙い、運動量を減らすように最短で相手を倒していく。その時、一人が水戸を羽交い締めにした。間髪入れず、腹に一撃を喰らわされる。噎せ上げるような水戸の呻き声が聞こえ、思わず目を逸らした。それで急に足元が寒くなる。自分が震えているのが分かった。未だに殴る鈍い音は止まらず、ちらりと目線を上げると、水戸は顔を殴られていた。背筋が粟立ち、ぞっとした。この世界で水戸は生きてきたのだと思うと、体の力が抜ける。その瞬間目が合った。水戸がオレを見た。伏し目がちなそこは、未だに眼光を放っている。顔中血だらけのくせに、奴が血を求める獣のようだった。あいつ自身が獣だ、もう一度そう思った。
水戸の足が動く。殴り付ける奴の鳩尾を踵で蹴り、羽交い締めにしている人間の力が緩んだのか足が返る反動で背負い投げる。そして投げた後に肘を落とした。起き上がる連中に対してはひたすら殴る、蹴る。するとまた違う奴に殴られ、蹴る、蹴られるの繰り返しだった。それでもコンクリートの上に沈められるのは水戸ではなく、囲んだ相手側だ。みるみる内に固く冷たいそこに叩き付けられていく。残るのはオレの首を捕まえている男と長髪だけになる。
辺りは妙な程に静まり返っていて、張り詰めた空気がオレを攻めているとさえ思った。耳鳴りがする。きんきんと、何かがうるさい。心臓が早鐘のように鳴っている。目の前の水戸は明らかに血だらけで満身創痍だった。それなのに、オレを捕まえている男は震えている。返り血か自分の血すら分からない液体に塗れている男に、一つも怪我のない無傷の男は怯えていた。
その時、オレの首に冷たい物が当たる。ナイフだと気付くのに時間は掛からなかった。おいおい、それはまずいんじゃねーの?男の震える手が、オレの首元にナイフを当てている。
「そんなんで人が殺せるかよ」
水戸の言葉も相俟ってか男の手は未だに震えが治らず、首元のナイフも揺れた。ちくりとする。オレは眉を顰めた。当たって少し切れたのが分かる。水戸は笑う。血塗れの顔が不敵に笑う。怖い、そう思うのは隣で震える男だけじゃない。オレにも恐怖が走る。
「頸動脈はもっと上だ。分かんねえのか?」
水戸が近付く。一歩、二歩、三歩、そして走る。
「ひっ!」
男が叫んだと思った瞬間、オレは目を閉じた。肉が弾ける音がする。その直後、首の圧迫が無くなり、コンクリートと何かが擦れる音がする。目を開けて斜め下を見ると男が横たわり、呻いている。顔面が崩れていて、見るだけで気分が悪くなりそうだった。その横にはナイフが転がっていて、それがついさっきまで自分の喉元に向かっていたかと思うとぞっとする。
水戸はナイフを手に取ってその場にしゃがみ、転がる男に向けた。
「使い方も知らねえ奴が向けてんじゃねえよ」
そう言うと、男の首元に向ける。それを容赦なく喉仏に当て、笑う。
「勝手に傷付けやがって。殺すぞてめえ」
水戸はナイフを振り上げた。それを思い切り振り下ろす。
「水戸!」


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