長編

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考えるのはもううんざりだ。答えが出ない問題に悩むのは性に合わない。どうにでもなれ。




「お前、今度の日曜って何かある?」
「ないけど」
「よし」
言っていたコーヒーメーカーを買いに行くから、と水戸に言うと、笑うだけで何も言わなかった。水戸は最近、ぼんやりすることが増えた気がする。朝食の時も夕食の時もコーヒーを飲む時も、ローテーブルに肘を付いて外を眺める。今もそうだ。朝食が終わってコーヒーを飲みながら煙草を吸い、例の深皿に灰を落としながら。カーテンを開けた朝の景色は、冬の気配に似合わず清々しく晴れている。太陽が当たって暖かいくらいだった。ベランダの向こう側から見える青い空を眺めると、無駄に空気が澄んでいそうな気がして、吸い込むだけで喉が冷えそうだと思った。
光に照らされた水戸の横顔は、何かを考えているようにも考えていないようにも見える。水戸がここに住みだして、一ヶ月が過ぎた。世間はクリスマスの匂いで溢れていて、コーヒーメーカーと一緒にケーキも買って帰ろうか、とすら思う。幸いなのか何なのかは分からないけれど、今年の二十四日は日曜日だ。明日の土曜日は仕事だったので、丁度良かった。考えて一人苦笑した。年甲斐もなく、何を一人で浮かれているんだか。それに、甘い物が好きかと聞かれたら可もなく不可もなく。水戸はどうだろうか。聞くまでもなく嫌いそうだ。
「あー……」
まい物好き?言いかけて言葉を飲み込む。そして、それを言おうとした自分にげんなりした。二人でクリスマスにケーキとか、甘過ぎて吐きそうだ。
「何?」
「いや、お前最近何か変じゃね?」
「そう?」
「ぼーっとしてる」
そうかな、水戸はそう言って頭を掻いた。
「……ヘマはしてない筈なんだけどな」
「は?」
「いや、何でも」
水戸はコーヒーを飲み干して立ち上がり、カップをシンクに置いた。そしてオレに、そろそろじゃない?と聞いた。時計を見ると、本当に出る時間になっていた。やべ、と短く言って立ち上がり、同じようにカップをシンクに置く。すぐにリビングに戻りコートを羽織って鞄を持ち、玄関に向かうと背後に水戸も立っていた。外に出る時に羽織っているジャケットを着た水戸に、どうした?と聞く。
「俺も行くよ」
「仕事か?」
「まあそんなとこ」
ふーん、と適当に返事をして玄関のドアを開ける。外に出ると、やはり空気は澄んでいて、一層冷えている。思わず身構えた。
「年末はいつから休みなの?」
「確か二十九だったかな、それが何?」
水戸は右手の親指で一度顎をなぞる。
「明日辺りから休めねえ?」
「はあ?何言ってんの?」
「……別に。一緒に居たいだけ」
「は?」
驚くというよりぎょっとした。多分オレは訝しんで、は?と言った気がする。
「まあいいや。早く行きな。何かあったらすぐ電話して」
そう言われて腕時計に目をやると、本格的に電車の時間が迫っていた。やべ、とまた言い、水戸に背を向けた。コンクリートの上を走りながら一度だけ振り返り、行ってきます、と少しだけ大きな声を出す。水戸は、行ってらっしゃい、と言って手を挙げた。それを見届けてから、また走る。階段を降りてアパートの敷地から出た。そこから空を見上げると、開けた世界のように青空が広がっている。雲一つないそれは、海のように真っ青だった。八年前に見た空は鱗雲が流れていて青と白が混ざっていたのに、今朝は青以外何もなくて、はーと吐く息の白さがやけに強調される。
もう一度アパートを見上げるけれど、当たり前に水戸の姿は見えない。オレはまた一人苦笑して、駅に向かった。
職場はいつも通りの忙しさで、年末のそれも相俟ったせいかお陰か何なのか、とにかく外出をしたりパソコンの前に座ったり、週末の慌ただしさも加えて、とにかく仕事のことばかり考えていた。今朝の水戸のおかしい所など一切忘れていて、目の前のことに没頭した。気が付いたらデスクに座っているのは、オレと宮城だけだった。横にはコーヒーが置いてあり、宮城を見ると彼も飲んでいる。もしかしたら一緒に淹れてくれたのかもしれない。さんきゅ、と小さく言うと、ついでなんで、とパソコンを見たまま答えた。
周囲が酷く静かで、二人のパソコンを叩く音だけが聞こえる。完全に集中が途切れた気がする。時計を見ると、九時を回った所だった。こうなると早く帰りたくなる。さっきまでは横にコーヒーを置かれたことすら気付かないくらい、朝の水戸を忘れていたくらい仕事に集中していたのに。今朝の水戸は、やはり少し変だった。今朝、という訳ではなく、ここ二、三日水戸はぼんやり外を眺めていることが多い。その上、いつもは言わないようなことを言い出した。明らかにおかしいけれど、今更あいつがおかしいことを気にしても仕方がない気もする。分からないのは以前から一緒なのだ。気にすることでもないと、息を吐いた。
水戸はあれから、オレとのことを仕事じゃないと言ってから、食費も受け取らなくなった。要らない、と言う。だから余計に、そういうことなんだと思っている。居なくなることが嘘のようだ。
「ダメだ、帰る」
これを考え出すと駄目だ。仕事にならない。今の時期、逆に仕事が忙しくて良かったとさえ思った。
「明日出るんすか?」
「出るよ。終わんねーもん」
「オレも明日にすっかなー」
一瞬顔を見合わせ、帰ろうと席を立ったのはほぼ同時だった。互いに仕事のことをぼやきながら、タイムカードを押す。それから営業課を出た。宮城がエレベーターのボタンを押し、開くのを待つ。この疲労感は久々だ。仕事に没頭して何も考えられなくなるこの感覚、エレベーターを待ちながら疲れたーなんて思うこれ。本来オレは毎日こうだった気がする。今更のように思い出した。
宮城と、明日めんどくせーなー、と話しながら、到着したエレベーターに乗る。1を押しドアを閉めると動き出した。
「三井さんはいーっすね」
「何がだよ」
「クリスマスは恋人と一緒じゃないっすか」
「あー、まあ」
オレなんか一人、と呟く宮城を笑いながら、妙に照れた。仕事じゃないって言ってたもんな、と考えた。でも決定的なことを言われた訳じゃないし、オレも言わなかった。消えると分かっていたからだ。
エレベーターが止まり、エントランスに出る。そのまま社員入り口に向かうと、見知った人影が居るように見え、目を凝らした。宮城がドアを開け、立ち止まる。オレも止まり、あ、と声を出した。
「水戸?」
水戸は歩道のガードレールに凭れ、片足を引っ掛けていた。オレに気付くと手を挙げる。
「三井さん、知り合い?つーかこないだバーで会った奴じゃん。赤頭先生と友達の」
「あー、うん、まあ」
それが件の恋人です!とは言える筈もなく、口の中で適当に返事をするしか出来ない。水戸は二、三歩歩いてオレに近付き、お疲れ、と声を掛けた。
「何で?」
「近くまで来たからついでに」
以前話の流れで職場のことを一度だけ言ったことがあったけれど、まさか覚えているとは思わなかった。どこの近くだ、と思いながら、水戸が持っている荷物を見る。
「お前、それ何?」
「コーヒーメーカー。買うって言ってたろ?」
「え?もう買っちゃったの?」
その時斜め下辺りから含み笑いのような、くぐもった声が聞こえる。宮城がおかしな顔をしていて、訝しんでそれを見遣る。
「何か、恋人同士みたいな会話っすね」
それを聞いて一瞬止まる。
「ば、ばっかじゃねーの?ちげーよ!ふ、ふざけんなてめー!」
それから早口で捲し立てるように言うと宮城はにやにやしながら、お疲れっした、と背中を向けて逃げるように去った。あっさり居なくなるそいつを見て、明日絶対会いたくないと思った。あれ絶対間違えた。オレ絶対間違った言い方した。
「三井さん、バラしたいわけ?それとも隠したいわけ?」
「お前がこんなとこまで来るからだろーが!」
「はいはい、ごめんね」
呆れたように一つ息を吐いて水戸は笑うと、一人駅の方向に向かい始める。それの一歩後に、オレも続いた。
「なあ?」
「何?」
「何で買ったんだよ、コーヒーメーカー」
「暇だったからだよ。そんだけ」
「ふーん」
暇だったから、ねえ……。それなら灰皿買えば良いのに、そう思ったけれど、言わなかった。オレは未だに水戸の後ろを歩いている。水戸の歩き方はいつもどこか気怠そうだ。ポケットに手を突っ込んで、いつも遠くを眺めるように歩いている。余計な会話はいつもしないで、沈黙していることが多い。言葉数が少ないのは八年前から変わらなかった。
「水戸ー?」
「何?」
「お前、昼間って何してんの?」
どうすればこれが崩せるのか、核心を付けるのか、今なら聞ける気がした。
「最後の仕事」
「最後?」
「……になるかもな」
「何でも屋やめんの?」
「そうだなぁ、辞めたいね。いい加減」
ふーん、と返し、また会話が止まる。聞けば喋らない訳ではなさそうだった。また沈黙が続き、しばらく歩いた。駅まで着いて、水戸は切符を買う。オレは定期だからその場で待っていた。ちょうど良い時間で、すぐに来た電車に乗る。その間もやはり沈黙が流れて、一言も言葉を交わすことなく吊革を持って揺られる。横目で見ると、水戸は欠伸をしていた。欠伸が出るのも分からないでもない。この揺れは酷く眠気を誘う。
二駅で電車を降り、それからまた歩く。公園が見え、水戸と久々に会った場所がここだったんだよな、と何気なく考える。水戸は特に何かを言うこともなく、時折辺りを見るように軽く首を動かしていた。オレの少し前を歩き、まだ沈黙は続く。アパートに着き、階段を上がる。二人の靴が擦れる音がざらざらと重ならずに聞こえ、可笑しくなる。重ならないもんだ、と苦笑する。
玄関を開け、部屋に入る。水戸が真っ暗の部屋を明るくし、オレは何故か息を吐いた。それから小さく、ただいま、と言う。水戸も小さく、おかえり、と言ったので、まだ続いていると安堵した。
「三井さん、あんた気ぃ付けな」
靴を脱ぎながら水戸が言い、先に部屋に上がる。オレは何の話かさっぱり分からず、その場に立ち尽くす。
「は?何が?」
「ここんとこ、つけられてる」
「つける?って何を?」
ぽかんとした。我ながらアホっぽいことを言ったと思った。それを見た水戸は吹き出し、違う、と笑う。
「今日は居なかったけど、二、三日前から嫌な気配がすんだよな。狙いは俺だと思うけど、何があるか分かんねえから」
「だからわざわざ職場にまで来たのかよ」
「まあね」
今朝様子がおかしかったのもさっきのも、つまりこういうことだったのか。世界が違いすぎる話がなかなか飲み込めなくて、とりあえず靴を脱いで部屋へ上がった。水戸はとっくに上がっていて、ビールを飲む為に冷蔵庫を開けている。そこから二本取り出すと、一本オレに渡した。リビングへ行き、ローテーブルにそれを置く。いつも通り着替え、ビールのプルタブを開けた。それを飲むと冷えたビールが体を伝って、喉が痺れる。水戸はキッチンでビールを飲みながら、皿を電子レンジに入れていた。出来た料理を温めているのだろう。仕事じゃない、と言いながら水戸は結局朝晩の食事を作ってくれていた。その合間に、買ってきたコーヒーメーカーもセットしている。これでコーヒーを淹れるのが、これからオレの仕事になる訳だ。なるほど。
順番に出来た物が運ばれてきて、今日は焼き魚に煮物にほうれん草のおひたしで、その定食感丸出しのメニューにいい加減笑えてくる。
「お前、まじで料理上手いよな」
「簡単なもんばっかだよ。酒のつまみにもなるし」
こうして普通の話をする時、こいつは本当に普通なのだ。つけられているだの組対五課だの何でも屋だの、そんなけったいな物とは無縁に見える。
水戸はローテーブルに座り、いただきます、と手を合わせて食べ始めた。オレも続いて食べ始めながら、水戸の横顔を見る。それもどう見ても普通で、普通の二十代の青年の顔で、やっぱり水戸のことを何も知らないんだな、と思わせるには十分だった。
「つけられてるってさ、知ってる奴?」
「んー……、つけてる人間は知らない。でも多分、そいつらのボスが俺に用があるんだろうな」
「で、何でオレが気を付けんだよ」
「あんたが俺の弱点だと思われてんのかもしれない」
「弱点?」
「明日は休み?仕事?」
また話逸らしやがった、と思いながら、仕事、と言うと水戸はビールを飲んでローテーブルに置いた。それから肘を付いて、大きく短く息を吐く。
「終わったら電話して」
「……いいけどさー」
どうも腑に落ちなくて曖昧に返事をすると水戸は、何?と聞いた。
「オレにそこまでする必要あんの?お前に用があんだろ?」
「何もなきゃないで良いだろ。何か嫌な予感すんだよな」
「そんなもんかねー……」
オレはビールを飲んで、野菜の煮物を摘んだ。うま、と小さく言うと、水戸は笑った。
「出てった方が良いなら出てくよ」
「何で?」
「嫌だろ。自分が的になってるかもしんねえのに」
「それはダメ」
「あっそ」
不思議と怖くはなくて、自然と言葉が出た。普通怖いはずだよなぁ、と。何でだろう、と心の中で反芻して、気付くのだった。一番危険そうな奴が目の前に居た、と。だから恐怖も何もなかった。
その夜、久々に水戸と寝た。例の合宿後から何度かしたけれど、最近は何もなかった。だから驚いた。というより、少しだけ焦った。余りにも性急に求められたからだ。あの時は、仕事だからと思っていた。今日は何かが違った。自分の感情か、水戸が考えている何かか。それは分からなかったけれど、こいつに抱かれていると段々と下手な小細工が全部放り出されて、何も考えられなくなる。ただ、目の前の水戸に没頭すれば良いのだと知る。オレはただ、水戸を抱き締めれば良いのだと、今更ながら知るのだった。
水戸が体を探る度、オレの耳に入るのは聞きなれない声だった。でもそれを、いつも水戸は可愛いと言う。変だ、と思いながらも、それに高揚しているのも確かで、欲しがるのも確かだった。おかしいのはオレだけじゃない。




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