長編

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水戸が居候をし始めてから二週間、初めて休暇の申し出があった。申し出、というのもおかしな話だけれど、夜に別の仕事があるから飯が作れない、と言われたのだった。作られた朝食を頬張りながら淡々と話されるそれに、オレは「分かった」と言うしか出来なかった。別の仕事って何?と聞きかけたけれど、寸での所で飯と一緒に飲み込む。オレ達も仕事で作られた間柄だからだ。もっと違う関係だったら聞けたかもしれない、と思ったけれど、この関係以外だったら一緒に住んでいないだろう。そう考えればどちらがマシか、天秤に掛けなくても簡単に分かることだった。
ごちそうさま、そう言ってオレは、皿をシンクに運ぶ。それからコーヒーの準備をした。湯を沸かしてインスタントコーヒーの粉をスプーンでマグカップに入れる。簡単に出来るそれを、水戸は文句も言わず毎日飲んでいた。あれから二週間、暦は十二月に入った。朝晩は冷えてきて、コートを羽織るようになった。あと二ヶ月と半分、それを過ぎたら水戸は、どこへ行くのだろう。水戸は何も言わず食後の一服をしてから、シンクで洗い物をする。オレは湯が沸くまでの間に着替え、会社へ行く準備をする。ローテーブルを横目で見遣ると、灰皿代わりの深皿が見えた。新しく灰皿を買って来ると言ったけれど、それはばっさりと断られる。三井さん吸わないんだろ?使わなくなるよ、と。いずれ出て行くことは決まっている、と念押しされているような気がして虚しさが襲った。オレは水戸がまた消えたら、どうするのだろう。
ネクタイを締める前に湯が沸いた。時間はまだ余裕があった。オレは水戸と住むようになってから、早起きするようになった。朝食の香りで目が覚めるからだ。キッチンへ行き、ガスの火を止めた。ヤカンのお湯をマグカップに注ぐと、コーヒーの良い香りが鼻を掠める。湯気がゆらゆらと舞って、暖かい空気が目の前に立つ。水戸もちょうど洗い物が終わったようで、タオルで手を拭いていた。何も言わずに立ちながらコーヒーを飲んでいると、水戸もそうやって飲んだ。水戸の目は今日、いつもより穏やかではない気がする。
「コーヒーメーカー買おうかな」
「何、急に」
水戸が少し笑った。意外とこういう、どうでも良い話が効くんだ、と思った。
「インスタントより美味いだろ」
「どっちでも良いよ、淹れてくれんなら」
「やっぱ買う」
そう言ったオレに水戸は、好きにしな、と言って笑うと、マグカップを持ってリビングへ戻った。それから煙草に火を点ける。背中を向けたからどんな顔をしているかは分からなかったけれど、ライターの音がしたからまたあの深皿が使われるんだな、と思った。その後ろ姿を見ながら、水戸は何を考えているんだろうと思う。
コーヒーを飲み終え、シンクに置いた。リビングに戻りネクタイを手に取る。鏡を見なくても、もう簡単に結べるようになってしまった。水戸をちらりと見ると、やはり何かを考えているようだった。オレは何も言わず洗面所へ行き、ネクタイが歪んでいないか一応確認する。歪みがないことを鏡で見てから、またリビングへ戻った。そして鞄を手に取ってコートを羽織り、行ってきます、と告げた。水戸は、行ってらっしゃい、と手を挙げ、立ち上がった。玄関に向かうと、珍しく見送るようで付いて来る。
「何?今日は」
靴を履いた所で聞くと、水戸の顔が近付いて触れるだけのキスをする。
「恋人っぽいだろ?」
「バカじゃねーの?」
オレは笑った。水戸も笑っていた。それから、じゃあね、と言われたのでオレも玄関を開けて外に出る。
風が吹きつけて、やっぱり十二月だと思い知る。歩いて駅まで向かいながら、風の冷たさに一瞬肩を竦めた。さむ、と小さく呟いて、唾を飲み込む。革靴とコンクリートの擦れる音が、いやに響く気がする。冬の空気は硬い。だから余計だ。硬質で冷たくて、嫌になる。早く終われば良いのに。そう考えて気付く。今から二ヶ月後の二月、冬が終わる前に、水戸は消える。抗えないだろう事実に、体の底から冷えた気がした。
水戸の顔は、今朝はやはりいつもと違ったのだ。行ってらっしゃいのキスなんて今までしなかった。また何か危ない仕事をするんだ、水戸の笑う顔を見て、そう思った。
そして夜、仕事も終わって帰るのも億劫だった。何故なら水戸が居ないからだ。夕飯がない。それだけで正直テンションがガタ落ちだった。久しぶりに定食屋、それとも飲みに行くか、どれもこれも気が乗らない。デスクに座りながら、盛大な溜息を吐いた。
「恋人とケンカっすか?」
「ちげーよ、うるせーなぁ」
ケンカならどれだけ良いか。振り返ると、にやにやした下品な笑いを浮かべている宮城が居た。
「おいてめー、暇だから付き合え」
「それが人に物を頼む態度ですか」
「後輩らしく先輩の言うこと聞け」
へーい、と心底嫌そうに返事をする宮城を見て、たまにはこういうのも必要かもしれない、と思った。宮城は付き合いやすい。後輩だけれど、気心しれた仲だし気も使わない。向こうも多分そう思っている。オレが先輩だからといって下手に立てることもしなければ、妙な詮索もしてこない。余計なことを一切考えず、ただ飲み食いする、それも良い。今日は特に。
会社を出て、どこ行くだの何だの、色々と話した結果、近くにある居酒屋へ行った。そこはまあ、どこにでもあるような、とにかく普通の居酒屋だった。会話は当然の如く上司の愚痴だとか、取引先の話だとか、会社の話が主だった。ある程度食って酔っ払って所で、オレよりペースの早かった宮城が次に行くと聞かない。仕方なく(と言ってもオレも結構酔っていた)次に行くことにする。宮城がよく通っているらしいバーへ行くということですんなりまとまり、自宅とは反対方向へしばらく歩いた。十五分程度だったけれど、酔った頭とアルコールでそこそこ暖まった体を冷やすには十分の時間で、それがとても心地良い。ぼんやりしながら空を仰ぐと、点々と星が見えた。水戸曰く、三ヶ月経ったら宇宙に帰るらしい。まじで奴は宇宙人なのか、そんな訳ねーだろ。ナメック星?でも緑じゃないし触角的なアレもない。ってオレばかじゃねーの。ただどっか行くだけの話だ。あいつを繋ぎ止めるのは容易じゃない、簡単な単語じゃ収まらない。そんなもんだ。
「三井さーん、何やってんすか?着きましたよ」
「あ、わり」
立ち止まっていたらしく、先に進む宮城に声を掛けられた。追いかけるように進み、路地裏から少しだけ入った先にあったそこには、木製の厚そうな扉が待ち構えている。そして、手作りで小さな看板がドアノブに申し訳程度に掛かっている。「boorish」と手彫りのような手作り感満載のそれは、一言で言うと味がある。バーのくせに無粋って、と笑ってしまった。
「おもしれー名前だな」
「ここねー、やってる奴も面白いんすよ、キンパツとデブ」
宮城はそう言ってドアを開けると、木製ならではの軋む音が聞こえた。店内は薄暗く、小さく音楽が掛かっている。カウンターと奥にテーブルが二脚、平日だけれどそれなりに客は入っていた。宮城は常連なのか、店員に手を挙げる。本当にキンパツとデブだ。その二人も手を挙げ返す。しかもデブって結構なデブだ。思わず吹き出した。そのままカウンターに座った宮城に着いて、オレも座ろうとする。その時カウンターの少し離れた席に、見たことのある人が座っていた、
「え?桜木先生?」
「ミッチーじゃねーか」
「すげー偶然」
そこでキンパツが、花道知り合いか?と聞いた。桜木先生は、外来の患者、と端的に言うと手元にある茶色い液体を飲んだ。麦茶?な訳ねーな、ウィスキーかバーボンか。話し振りからすると、どうやら桜木先生とキンパツは友人らしい。
桜木先生は、会社近くの市民病院の内科医だ。一度風邪を引いた時に掛かってから、何かある度に世話になっている。仕事も一度だけ一緒にしたことがあった。その市民病院のウェブ広告を作る話になり、桜木先生はインパクトがあるから出ましょうと誘ったのだ。その広告は効果を呼んだようで、するとまあ、「やはり天才は凡人とは違う」だの、「カッコ良さと優しさを備えた桜木」だの、とにかく面白かった。その頃から変なあだ名を付けられ、時々昼飯を一緒に食うこともある。もっとも、医師は忙しいから滅多にないことだけれど。
「三井さん、知り合い?」
「ほらあそこ、会社近くの病院。そこの先生だよ」
「は?医者?見えねー!」
宮城が割と大声を出して驚いた。言いたいことはよく分かる。でかい図体、赤頭、伸び掛けの坊主、とても医者には見えない。
「分かるよ、りょーちん。オレらも花道が医者とか未だに嘘だと思ってんだから」
キンパツが腕を組んで何度も頷いた。
「バカめ。頭の出来が違うんだよ」
「嘘吐け!ほとんど変わんなかったろうがよ!」
「嘘吐きはてめーだ、赤点ばっか取ってたくせに」
「てめーもだろうが!」
桜木先生の言葉に、次はデブが声を荒げる。キンパツは声を上げて笑った。桜木先生も笑っていた。それから注文を聞かれ、オレはジャックダニエルのロックにする。宮城はまたビールを飲むらしい。結局オレ達は桜木先生の隣に座り、一緒に飲むことにした。キンパツ達も手を動かしながら、時々会話に加わっている。
「桜木先生、まじで赤点取ってたの?よく医学部行けたな」
「天才だからなオレは」
そこですかさずキンパツが突っ込む。
「よく言うぜ。洋平が毎日家庭教師したお陰だろ?」
え?と思い、キンパツを見た。いやでも、ヨウヘイなんて珍しい名前でも何でもないし、あの水戸洋平とは限らない。
「そういや洋平来るんだろ?おせーな」
桜木先生はキンパツの言葉に、黙って飲んだ。どこか神妙な顔をしていて、いつもとは違って見える。どうやら、件の「ヨウヘイ」と待ち合わせをしているらしい。
「お、来たぜ」
その言葉に、反射的にドアの方を見た。そこには、
「花道わりい、遅くなっ……」
近付いて来たのは、あの水戸洋平だった。隣の桜木先生ではなくオレを見てぎょっとした顔をして、そしてすぐに、今まで見たこともないような怪訝な顔をして睨むのだ。
「何であんたが居んの?」
「そう言われましてもね」
客だからだよ見りゃ分かんだろ、続けて吐き出すように言った。水戸は少しの間オレを見て、それからその目を逸らした。
「まあいいや。大楠、忠は?」
「まだ。お前のお陰で組対五課自体が忙しいんじゃねえ?」
「余計なこと言ってんじゃねえよ」
グラスを呷ると、氷が口の中に入る。それを噛んで崩した。がりがり、と口の中で音がする。暖かい店内で、口の中だけが酷く冷めていた。体も足元から何かが上がってくるように冷えていく。組対五課、ということは警察だろう。で、多分「チュウ」という人間が刑事だ。水戸の仕事の何かが関わっているのだと思った。何なら公園で電話をしていたのが「チュウ」なのかもしれない。水戸はすぐ、桜木先生と違う席に行った。ちらりと後ろを見ると、一番奥のテーブル席に移動していた。刑事と医者、それから何でも屋、そこに何故医者が関わるのだろう。純粋な疑問が湧き上がる。でもそれを聞いた所で、誰も答えないのは明白だ。
「あんた、洋平とも知り合いなんだな」
「まあ」
キンパツが聞いた。確か水戸が、「オオクス」と呼んでいた。オレは曖昧に返事をして、おかわり、と言う。すぐに置かれたそれを、ガキみたいにぐびぐびと飲んだ。隣に居た宮城に、大丈夫すか?と聞かれたけれど、それも無視して飲んだ。
今大きな声で、あそこの席に赤頭と座っている男前はオレとセックスしまくりで絶倫ですよ!と言ったらどうなるだろう。考えたらげんなりした。自己嫌悪とは正にこのことだと思った。仕事のことは別に良い。半分以上強がりだけど、まあ良い。それ以上に、それを余裕に超えたのはあれだ、さっきの顔だ。八年振りに公園で会ったあの時の顔なんて可愛いもんだ、そう思うくらいだった。とにかくオレがここに居ることが迷惑だと、そんな顔だった。と、考えてすぐに思い直すのだ。オレと水戸は、それこそ仕事上の関係で、あそこに居る水戸も仕事をしているだけだ。それ以上もそれ以下もない。
ただオレが好きなだけ。
とにかく飲んだ。くそみたいな考え方を払拭するように飲んだ。その内、またドアの開く音がする。誰かが入って来る。デブの方がオレの向こう側を見て合図をする。目線を動かすと、ちらりとだけれどヒゲの男が見えた。これが「チュウ」かな、と思った。でももうどうでも良いや、何を考えれば良いのかよく分からなくなってくる。ウィスキーのせいだ。アルコールは良い。くだらない感情なんて、その時だけでも呆気なく消してくれる。


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