長編

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「三井さん、今日コンパあるんすけど」
「あ、パス」
「何で?まさか出来た?」
「そのまさかだよ」
契約だけどな。しかも三ヵ月限定の。
「まじかよー……」
仕事がひと段落ついて会社に戻り、コーヒーでも飲もうと部署の休憩所で後輩の宮城に会った。事あるごとにコンパに誘ってくるのだけど、毎回オレはそれに惨敗していた。だから今回も誘ってきたのだった。惨敗の理由がようやく分かるなんて、自分でも情けないやら未練がましいやら、とにかく何かが嫌になったことは確かで、溜息を吐く。宮城はオレが、契約とは知らずに恋人が出来たことを嘆いている。コーヒーをテーブルに置き、項垂れている。一応先輩である自分に恋人が出来たのだから、嘘でも良いから喜べよ、そう思ったけれどこいつにそういうことを期待しても意味がないことは、最初から分かっていた。
今日は金曜だ。明日明後日は休みだった。本来ならもう少し仕事をして帰る予定だけれど、今日はもう帰ると決めた。コーヒーを飲みながら、未だにぶつぶつ文句を言っている宮城を見てから、今日は何が食わせて貰えるのだろうと、天井を眺める。そこは点々と染みが付いたいつものそれでしかなかった。飲み始めたばかりのコーヒーをぐびぐびと飲み干し、横に居る宮城に帰ることを告げた。「お疲れっしたー」と脱力したような間延びしたような、とにかく気合いの入っていない声を適当に流し、デスクに置いておいた鞄を手に取る。社内には数人しか残っていなくて、午後七時の営業課はどこか殺伐としていた。週末の金曜日、誰しも早く帰りたいだろう。オレもその一人だった。残っている社員に「お先に失礼します」と恒例の挨拶を残し、殺伐としたそこを去った。
会社を出て歩きながら、つい二日前のことを考えた。「恋人になって」発言。あれから二日経っている。オレのその言葉に、水戸は簡単に「いいよ」と言った。抱き締め返し、いいよ、と告げたのだった。それから何度もキスをして、生温い舌の感触を受けた。ぞくっとした。背筋から何かが這い上がるような、今まで感じたことがない快感を得た気がした。
「こういうのもアリ?」
「アリ」
一応聞かれて即答した。それが欲しかったからだ。
「触ってもいい?」
「いいよ」
また聞かれてそれにも即答した。水戸は少し驚いた顔をして、それから俯いてふっと笑う。何てお手軽で浅はか、水戸はそう思っているのかもしれない。自分でさえ思う。でも三ヵ月をどう使うか、それを考えれば時間は有効に使った方がいいだろ?無駄に駆け引きなんてしたって仕方ない。オレはこの男が好きなのだ。今までだって付き合った人は居た。もちろん女だった。でも長くは続かなかった。キスもした。セックスも当たり前に。でも何かが違って、その引っ掛かりがようやく分かったのだ。宮城が開くコンパで上手くいかないのも、仕事が億劫なのも、要はこいつが居なかったから。急に消えたからだ。でも今、引っ掛かりの原因は側に居る。なんて幸運なのだろう。
水戸はオレに触れた。耳を舐めて噛まれる。上擦った声が出て、何だこれ、と思った。水戸はそれを、可愛い、と言った。こんな大男を捕まえて可愛いなんてどうかしてる、そう思った。けれど、これがこいつの手なのかもしれない。考えると情けなくなるので、水戸に委ねた。勃ち上がったそこに触れられ、緩急をつけながら扱かれる。また変な声が出て、思わず唇を噛んだ。でも、もっと聞きたい、と言われたからどうにでもなれと声を出した。水戸はまた、可愛い、と言った。これが手だ、気持ちでは冷静でいながらも、頭ではそうはいかない。こいつが喜ぶならいいと、出て行かないならそれでいいと、頭の中はそればかりだった。
あ、あ、と声を出して、呆気なく果てた。上がった息を整えながら、ぼんやりする頭を水戸の肩に預ける。段々と冷静になってくる体と、未だに痺れる頭に浮かぶのは、馬鹿みたいだ、とそれだけだった。
「三井さん、続きしたい」
「続きって何だよ」
「したことある?」
「ねーよ、バカじゃねーの?」
はは、と笑う水戸を見て、とても続きを要求するほど切羽詰まったようには見えないと思った。
そうだなぁ、と間延びした声で水戸は言った。
「土日って仕事休み?」
「まあ一応」
「じゃあ金曜日ね」
「何の話だ」
「今強姦したら明日の仕事困るだろ」
呆気に取られるとは正にこのことだった。それから互いに風呂に入り、ベッドに入って寝る、その予定だった。オレの中では。が、問題はそこからだった。ダブルベッドだったから、水戸一人が増えた所で特に問題はなかった。それは別に良い。オレは先に風呂に入ったから、水戸が来るだろうことを予想して壁側に入る。水戸は風呂から上がるとリビングの電灯のスイッチを押し、電気を消してからこっちに来た。手前側に入ると、違う人間の気配がする。ぎし、とスプリングが揺れて、それと同時にオレの心臓が揺れた。ついさっきやられたことと、強姦がどうのこうの、それを思い出した。正直、物凄い快感だった。久し振りだったことも手伝ってか、水戸の手だと思うだけで、どうしようもなかった。そして、それほど会いたかったのだと思い知って嫌になった。
このベッドに、他人が寝るのは久々だった。背中に人の気配があって、訳もなく緊張する。どくどくと、心臓の音が聞こえた。
「三井さん、寝た?」
「まだ」
水戸の低い声が響く。その合間に、また時計の秒針の音が聞こえる。同じリズムで、耳の奥に残る。灯りが消えて暗いからか、耳に神経が集中していた。その時、肩に重みが掛かった。横を向いていた体が、簡単に上を向く。目の前に黒い影があることは分かった。段々と近付く影に、オレはまた期待する。
「やっぱりやらせて」
声が出なかった。耳元で言われてぞくりとして、上擦った声を飲み込んだ。
「最後まではしない」
じゃあどこまでだよ、そう言いたかったけれど、すぐにキスをされたから言えなかった。今度は中途半端ではなく全部脱がされた。水戸はオレの体に触れて、舐めて、噛んだ。あの乾いた指が、傷痕に触れた指が、今度は体中を撫でる。水戸の手だと思うだけで、頭の中が沸騰する。そして、時折当たる水戸の物を感じて、こいつも興奮しているのだと思うと、どこを触られても熱くなって痺れる。
でも確か、女のとこに上がり込んだりとか言っていたからこいつバイか?まあオレも似たようなもんか。何かもうどうでもいいや、これがあればもう何でもいい。
暗がりに目が慣れてきて、水戸の顔が少しだけど見えるようになる。目が合って、その目を見詰める。強いそこから目が離せなくて、自分から頭を抱き寄せてキスをした。舌を絡めた。生温くて柔らかいそれを堪能していると、中心に触れて欲しくて仕方なくなる。唇を離して、触って、と強請ると水戸はまた、可愛い、と言った。だから何でこんな大男に、そう思っていると、互いの物が擦り合わされる。酷い快感が襲う。水戸の腰が動いて、短く息を吐き出す。あ、興奮してる、そう思うだけで、水戸の息遣いを感じるだけで、繰り返される快感と相まって追い詰められる。
「ちょ、ちょ、まじでもうヤバい」
「三井さん早いよ」
「うっせバカ」
また変な声が上がる。それを見て水戸が笑う。どこにも行くな、そう思いながら果てた。
翌朝、怠い体を抱えて起き上がると、それはそれは見事な朝食が出来ていた。ここ近年、こんな朝食は食べたことがなかった。味噌汁、ご飯、卵焼き、サラダ、一気に目が覚めた。
「おはよ、起きた?」
「おい、何だこれは」
「あんたん家何もねえから朝っぱらからコンビニ行ったっつーの」
「こんなもん最近見たことねーよ」
「ねえ訳ねえだろ。変な日本語」
顔洗って来な、そう言われたので起き上がり、顔を洗った。背後から幸せの象徴のような香りが漂い、今日は会社休みます、と電話したくなる。洗った顔をタオルで拭きながら、少しだけ頭がしゃんとした。昨日のあれと今朝のこれ、要はこれが水戸の仕事なのだ。オレが雇って、あいつはその通りにしている。どうしようもない虚しさが襲ってきたけれど、それを望んだのも欲したのも間違いなくオレなのだ。一つ溜息を吐いた。両肩を一度持ち上げ、一気に落とす。しっかりしろ、頭の中で大きな声を出して、オレはリビングに戻った。
それから二日、朝ご飯晩ご飯は欠かさず作ってあり、部屋も掃除されていた。食費も渡した。渡した時、一瞬だけ水戸は変な顔をしたけれど、どうも、とだけ言って受け取る。昼間は何をしているかは知らない。それはオレが知ることではないと思っている。それでもオレは、毎朝仕事に行くことが億劫ではなくなっているし、見慣れた景色を見ながらつまんねー毎日だと思うこともなくなった。電車に揺られながら、早く帰りたいと思うようになる。たった二日なのに、驚くほど人生が変わった。
ただ、金曜日が来てしまったのだ。オレは男性同士のセックスを調べた。何となくは分かっていたけれど、一応調べてみた。結論から言うと、無理じゃね?という話だ。いや、分かる。分かるんだけど、これ結構きついと思う。慣れれば良いらしい、それはそれは物凄いらしい。でも慣れるまでどうすんのって話だ。それでも家路を急ぐオレは、完全に受け容れる気でいるんだと他人事のように考えた。とりあえず腹が減った。早く帰ろうと決めた。
アパートの玄関を開ける。ただいま、と言うと、おかえり、と帰ってくる。つい三日前はそれがないのが当たり前で、あるべきものではなかった。それが今は、あって当たり前になっている。たった二日、それなのに。
靴を脱いで上がると、水戸はリビングで煙草を吸いながらテレビを見ている。台所には作った料理が置いてあり、まだ湯気が立っていた。水戸も食べていないようで、二人分置いてある。
「早かったね」
「あー、何かめんどくさくて」
リビングに入ってネクタイを思い切り緩め、首をぐるりと回す。
「もう飯食うだろ?」
「今日何?」
「生姜焼き」
「お前は胃袋を掴む天才だな」
好物だ。思い切り好物だ。
「三井さんは掴まれる天才だね」
ネクタイを外してスーツを脱いで、スラックスを脱いで着替える。その横でローテーブルに肘を付いて座っていた水戸は、こんなもんで掴まれるのあんたぐらいだ、と言って笑っていた。手には煙草とビールで、どう見ても我が家のように寛いでいる。オレも冷蔵庫にビールを取りに向かうと、水戸も後ろに居た。作った物をリビングに運ぶようだった。一度皿を運んでから、今度は茶碗に飯をよそっている。それも運んで、次は味噌汁も入れて運んだ。
いただきます、と言って食べ、合間にビールを飲んだ。十五分程度で食べ終え、皿を纏めてシンクに運ぶ。洗い物も水戸がする。これも毎日だ。その代わりオレは、食後のコーヒーを淹れることにしている。初日、不平不満も言わずそうする水戸に対し家政婦感を覚えたオレは何か違うと感じ、手伝おうとした。するとオレに向かって、じゃあコーヒー淹れて、と言ったのだ。それくらい出来るだろ?と。それからというもの、朝と夜、食後のコーヒーが日課になった。
水戸が使っているマグカップにコーヒーを淹れ、ローテーブルに置いた。先に座って飲んでいると、しばらくして水戸も座った。どうやら終わったらしい。カップに口を付け、コーヒーを飲む。それから煙草に火を点けた。
「覚悟決まった?」
「は?何の?」
何のことかさっぱり分からなかった。
「今日金曜なんですけどー」
「あー、はいはい、あれね、はいはい」
「ぶはっ!何その嫌そうな言い方!」
水戸は笑った。あまりにオレが嫌そうに返事をしたからかもしれない。
「あのさー、無理に入れなくても良くね?今のままで良いじゃん。こないだみたいな。それともお前、男とやったことあんの?それがすっげー良かったとか?」
「ねえよ、勘弁しろよ」
今度は水戸が心底嫌そうに顔を顰め、煙草を吸う。
「じゃあ何で」
「あんたは特別」
え、そう言った。よく分からなかった。何を言われたのか、急に有り得ない言葉が舞い込んできて、頭が働かなくなる。水戸が煙草を吸った。室内に煙が舞う。この部屋は水戸が住むようになってから、煙草の匂いするようになった。他人の匂いがするようになった。
「今何て?」
「あんたが言ったんだろ?恋人になれって」
「いや、そうなんだけど」
その匂いに、最初は違和感を感じていた。誰か違う人間が居る、と。違う匂いがする、と。でも今は違う。
「恋人は特別。そうじゃねえの?」
今は違う。この匂いがないと、たった二日なのにこの匂いがないと、もう駄目だと思うオレが居る。
これが手だ、何回そう思っただろう。他の奴にもこう言って、こういう風に優しくして、これで普通に住み着いて時々危ない仕事をするんだよこいつは。時々なんかじゃなくて毎日かもしれない。昼間なんか何してるか知らないし知ろうとも思っていない。嘘ばかりが部屋に渦巻いて、真実なんかどこにあるのか分かりもしない。むしろないのかもしれない。この匂いも言葉も、多分全部が嘘に塗れている。それなのにオレは、目の前にある違和感のなくなった匂いと声に、呆気なく堕ちる。こんな危険な男に、今更好きだなんてとても言えない。
恋人になって、あんなこと言うんじゃなかった。本当は、ただ好きになって欲しかっただけだ。




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