長編

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「消すか?」
どうして?その質問に対して、何の違和感もなく疑問を抱いた。子供のように純粋に、何で消すの?と。何の気なしにクッションの効いた柔らかいスツールに座り直すと、ぎし、と軋んだ音がする。その音がしても、目の前の図体のデカい赤頭の医者は何も思わないのか、オレの顎の辺りを見ている。口を一文字にして、真っ直ぐな目で見る。この目を前にすると、なぜか嘘を吐けない気がした。ふっと笑うと、赤頭は「何がおかしい」と怪訝そうに見る。大体、今日は風邪の引き始めでここに来たというのに、なぜ傷痕の話になったのだろうか。赤頭曰く、「営業なら印象悪くならないか?」とのことだった。同じ病院の皮膚科医に信頼出来る先輩が居るらしい。オレがその気になれば、いつでも紹介状を書くと言った。他にも理由はあるのかもしれない。でもそれは言って来ない。営業云々、確かにそれはあるかもしれない。だからこうして、少しでも風邪の気配を感じようものなら受診しているのだ。
ここは会社の近くにある市民病院の内科で、一度風邪を引いて来てから、何かある度に世話になっている。医者のくせに赤頭、しかも坊主、その上単純で、更には不遜な態度、しかし病気にはとことん真摯で真面目、その見かけとは正反対の効果が相俟ってか、子供達にもその親にも人気だとよく聞く。オレもこの男の、医者とはいえ何故か話しやすいその性格に惹かれ、違う高校とはいえ同じ部活をしていたということもあり、こうして掛かりつけにしている。暇な時間が合えば昼飯を一緒に食ったり茶を飲んだりする仲にもなった。
赤頭は未だにオレを見ている。じっと目を離さず、何かを見透かそうとしているようだった。
「消さねーよ。もう決めてる。ずっと前から」
「そうか」
今頃宇宙船は、どこへ向かっているんだろう。この近くだと良い。天井を仰いで、見えぬそれを想像しながら、思った。




広告代理店の営業は、毎日歩きっぱなしだ。普段の生活に支障はないとはいえ、一度故障した膝を酷使しているのではなかろうか。こんなんで大丈夫とか絶対嘘だ、半ば愚痴のように思いながら、会社までの道を歩いた。この辺りはサラリーマンが多い。すれ違う人達は皆、会社帰りらしいOLやネクタイを緩めたスーツの男達、そればかりだった。思い思いの会話を交わす人間や、一人で歩く人々、冬に差し掛かりかけている夜は寒くて、スーツだけでは心許なさそうにしていた。かといって、コートを着る気温ではない。中途半端、荒んでいる心は自然と舌打ちを打つ。これから会社に帰って今日の仕事をまとめて、オレはいつもこんな感じだった。
会社の警備員に社員証を見せて帰社する。二階にある営業課まで戻り、自分のデスクに座った。パソコンを起動させて、息を一つ吐く。立ち上がるまでに、ぐるりと一回肩を回した。いつもの流れでキーボードを叩く。慣れた作業過ぎて、溜息も出て来ない。
営業の仕事は、嫌いではなかった。かといって好きでもなかった。大学で就活した結果がこれだっただけという話だった。特に大手でもない中小企業に勤めて、もう六年になる。ここまでくると慣れもあり、取引先とも良好で、新規開拓もそこそこ。それでも、人におべっか使ったり押したり引いたり、そういう駆け引きは今も得意とは言い難かった。時々、無性に仕事を辞めたくなる。怪我で辞めてしまったバスケを、また追い掛けたくなる。大学二年の時、膝を痛めて生き甲斐のように追い掛けたボールを手放した。自暴自棄になったこともあった。その引き出しを開けると、必ず思い出すことがあった。左顎の下にあるの傷痕に、右手の人差し指で触れた。言われた通り残ったそれは、決して消えることはなかった。
帰ろ。適当な所に区切りを付けて、パソコンの電源を落とす。時計を見ると、八時半を回った所だった。今日はやけに疲れた。週の半ばだからだろうか。最近は休みの日も必要以上の外出もしないで、掃除も適当に終わらせ、暇を持て余してごろごろしている。大学時代から続けている一人暮らしも段々と年季が入り、手の抜き所を覚えてくるものだ。もう二十八歳、彼女も居ないし生き甲斐と呼べる物もない。つまんねー毎日だ。怠惰に流れて生きている気がする。
会社を出て歩きながら、夕飯どうすっかな、と考える。コンビニ飯も惣菜も飽きて、どこかで飲んで適当に食べて帰ろうか、と。この辺りは定食屋も多いし、まだ開いているだろう。そうと決まれば、とすぐ近くに暖簾がぶら下がっている店が見え、そこに入った。ビールと今日は魚の気分だったので、焼きサバ定食に決める。運ばれたそれに手を付け、ものの二十分程度で店を出た。とりあえず満足した胃袋に、一つ息を吐く。これでアパートに帰って風呂に入って風呂上がりにビールを飲んで適当にテレビを見て寝る。決めた、そう思った。
アパートまでは電車で二駅ほどで、駅からは徒歩で十分。大学在学中からアパートは変えていない。ずっと同じ場所に住んでいる。同じ電車に乗り、同じ道で会社へ行き、同じ道を歩いて帰る。変わらないその日常は、酷く退屈だった。バスケを失ったオレは、いつも焦燥している気がする。何かあれくらい夢中になれる物があれば、と何かにつけて考えている。電車に揺られながら同じ景色を見て、それが流れるスピードと夢中になれていたあの日々は重なるように早かった。
電車を降りてまた歩いた。段々と人通りの少ない道になっていく。野外灯のある公園が目に付いた。そこにはバスケットゴールがあったからだ。ここでよく、大学生の頃一人で練習していた。ぼんやり眺めながら歩いていると、人影が見える。何気なく数えていると六人、いや、一人の男を五人で囲んでいた。嫌な場面に遭遇してしまった。多分喧嘩だ。囲まれている男は、明らかに他の五人より体格が小柄なのだ。ヤバい、間違いなくヤバい。警察に電話するか、でも面倒なことになりそうだ。いや人としてどうよそれ。色んな葛藤が脳内を駆け巡る最中、一人の男が小柄なそいつに殴り掛かる。反射的に目を閉じた。人を殴る鈍い音が小さく聞こえる。やっぱり警察に電話、そう思ってポケットに手を入れた。目を開けて顔を上げると、思い描いていた状況と全く違うことになっている。小柄の方が、相手を殴っていた。殴られた側は横たわり、鼻を押さえてのたうち回っている。すかさず次の男にも鳩尾に一発、脇腹に蹴り、顎にカウンター、時々喰らっているけれど倒れることなく、とにかく殴るわ蹴るわの応酬でオレは持った携帯を耳に当てる前の状態から動けないまま、それを見ているだけだった。ぽかんと口を開けながら、この光景に似たものを昔見たことがあったのを思い出した。二十歳の時、バスケを失ったあの時、オレは同じような景色を見ている。
ものの十分かそこらだと思う。五人の男達は崩れ落ちて気を失っているのか何なのか、動く気配すらなかった。暗闇の中、野外灯に照らされる小柄な男は、それを少しの間眺めている。その後ろ姿を眺めながら、オレは一歩も動けずにいた。もしかして、そう思ったからだった。だってこんなに強い奴、そうそう居ない。その時、誰かの気配に気付いたのか、男が振り返る。普通怖い筈だ。普通なら逃げる筈だ。でもその時のオレは、そいつの顔を確認しなければ気が済まなかった。
目が合った。あ、と思った。髪型も違う。あの時みたいなリーゼントじゃない。格好も違う。あの時みたいな学ランじゃない。当たり前だ。あれからもう、八年も経っている。でもあの目と表情、あれを見間違う筈がなかった。急に居なくなったあの男をオレは、間違うことの方が考えられない。男は目を逸らした。歩き出して水飲み場の方へ向かう。多分手を洗うのだと思った。その時のオレはただ、追い掛けることしか考えられなかった。
「水戸!」
男が振り向いた。怪訝そうな顔でオレを見る。そしてまた背中を向けて、水飲み場へ行き、水を出した。
「水戸だろ?」
男は黙ったまま手を洗い、顔を洗い、口に水を含んでうがいをした。吐き出した水からは血が滲んでいた。
「なあ、お前水戸洋平じゃねーのかよ」
「あんた誰?」
「三井寿だよ。覚えてない?」
「忘れた」
水戸は着ていたシャツで乱暴に顔を擦り、水気を取っている。忘れた、そう言われても無理はない。何しろ八年も前の話だし、奴は急に消えたから当たり前なのかもしれない。でも、忘れたっていうのも変だな、と思った。覚えてない、ならまだしも、忘れたって。
「オレ、八年前に助けてもらったんだけど。お前急に消えたからさ、どうしてんのかなってずっと気になってて」
「ごめんね」
「え?」
「急に消えて」
「覚えてんの?」
「どうかな」
水戸はオレを見て笑う。髪は下ろしていてリーゼントじゃない。服装も学ランじゃなくてシャツにデニム、でもやっぱり目と表情だけは、全然変わっていない。



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