幸福の咎

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日曜日、アルバルク東京とのゲーム終了後、ミーティングを終えてそのまま帰宅した。途中で菅田から着信があり、少しだけ話した。ゲームの話をした後で、切々と言われる。「今度家出する時は頼むからビジネスホテル泊まれ。な?お前まじで我儘だし、せめて一泊にして。もう痴話喧嘩に巻き込むなよ?」と。最後は溜息混じりで呆れたように言われ、頼まれたって行かねーよ!と返した。菅田は笑っていたものの、何となくオレが釈然としなくて舌打ちをしてから、じゃあな、と言って携帯を切った。そして、痴話喧嘩、という言葉を頭の中で呟いて、ばつが悪くなる。痴話喧嘩、あれが他人からは痴話喧嘩に見えるのか、と思ったからだった。二人以外の人間からしたらその程度のものなのかもしれない。本当のことなど当人しか分からないからだ。過ごして来た時間も何もかも。オレは左手首を見た。今日はいつも仕事で使用する黒の革バンドの腕時計だ。水戸から貰ったものはプライベートの時しかしないことに決めていた。もっとも、最近はプライベートもくそも全くないのが現状なのだけれど。
今日のゲームは東京ということもあって、現地集合現地解散にした。近くの駅から神奈川方面の電車に乗り、空いている席に座った。最寄駅まで乗り換え合わせて二時間弱だ。何と言うか、酷く夢現な感覚だった。現実味があったのはゲームの最中だけだった。今もどこか覚束ない。電車の揺れと相俟って、体全体が所在なかった。水戸のせいだ、そう思った。それから、今日のメシは何だろう、とも思った。どこからともなく、マンションに帰宅した時に香る、水戸が作る食事の匂いがした気がした。窓に頭を預け、腕時計を見る。電車に揺られてからまだ十分しか経っていなかった。早く進め。ふわふわした足元とは逆に、颯爽とした速度を求めていた。早く帰りてえなあ、寝過ごさないように、オレは目を閉じた。
あの日の夜、水戸の言葉を一字一句聞き逃さないようにしていた。変わらないと思っていたあの男が、あの男が努力すると言ったからだ。嫉妬もしない束縛もしない男が。好きという言葉以外で示そうとした。幸せだと思った。この上ない幸せだと、その時そう思ったのだった。水戸が欲しいと思った。水戸の全てが知りたくてそのものが欲しいと思った。一つになれないのならいっそ、せめて知りたいと思った。聞きたいことは両手に有り余るほどあったのだけれど、その日の夜は何となく憚られた。それ以前に、オレはようやく、「水戸から見られているオレ自身」を知った気がして、気恥ずかしくて仕方なかった。数え切れないほど触れられ舐められ齧られて、抱かれて来た筈なのに。追い掛けてばかりで、立ち止まることを知らなかったからだと思うと、一層対応に困惑した。まあどうせ、振り切れてしまえば後はいつも通りなのだけれど。それでもオレはあの日の夜、立ち止まることは不正解じゃないことを知った。立ち止まっても平気だと知った。息切れするほど走り続けなくても良いのだと、ようやく走ることを止めても水戸は消えないと知った。振り返るとそこには、水戸が立っていたからだ。場所は勿論吊り橋なんかじゃなくて、獣道でもなかった。水戸とオレの道だった。その目も体も存在全てが、オレを見ているということを、あの日初めて知った。
水戸が今まで歩いて来た道は何だろう。全てに於いてそつなく器用にこなす水戸が、探り探り絞るように喋っただなんて、正直未だに信じ難くて、無性に聞きたくなった。今まで知らなかった過去も全て、自分の口から聞いて本人の言葉で知りたいと初めて思った。あの日の翌日、その日はアルバルク東京とのゲームに勝ったからか酷く気分も良くて、帰宅すると唐揚げで、更に気分が高揚したからその勢いで聞いた。昔の話をして、と。水戸は驚いていた。そして、前しなかったっけ?と言ったのだった。そうじゃなくて、と頭を掻くと、じゃあ知りたいことから聞いて、と薄く笑った。その言葉に今度はオレが驚いて、何となく詰まった。探した。えーっと、と考えていると、カウントダウンが始まる。五、四、三、二、間延びした調子で言われたけれど、残り二秒を残して、ちょっと待った!と焦った。待たない、と珍しく楽しそうに水戸が笑ったから見惚れた。可愛かったからだ。でも奴は、可愛いと言われることを酷く嫌う。分からんでもない。小柄でも奴は完全に雄だからだ。雄の獣だ。まあそれは今どうでもいい、と結果慌てた結果、口から出ていた言葉は単純なものだった。
「どうやって喧嘩が強くなった?」
くっだらねえ、そうは思ったけれど、それさえもどうでもいい気がした。だって水戸は今なら答えてくれるからだ。
「またすっげえどうでもいい質問するね」
「うるせえな、オレもそう思うよ」
唐揚げを口に入れ、咀嚼する間、水戸の言葉を待った。彼は缶ビールに口を付け、それを置く。ああ喋るんだな、何となくそう思った。
「小学生の頃、虐められててさ」
「は?!」
「いや、そんなびっくりしなくても。つーか盛大な感じじゃなくて、目が気に入らねえとか何とかいちゃもん付けられてね。相手も暇だったんだろうね、とりあえず生意気そうなガキ探してたんじゃねえの?そんでまあ、喧嘩ですよ。あんまり毎日殴られるからそろそろばあちゃんもキレそうでさ、こりゃまずいなって思って」
オレは唐揚げを飲み込んで、それから食べるのを止めた。水戸の目はどこかに馳せているように遠くを見ていて、オレと目は合わない。ばあちゃんがキレそう、それが嫌だったのかな、と頭の中で考えたけれど口には出さなかった。
「春休みに、うちの近所にある古本屋行ったんだよ。じいさんしか居なくていつも暇そうで昼寝してて、本読み放題。日が当たってあったかくて、あそこは好きだった」
今もあるのかな、水戸が小さくそう言ったから、今度行ってみてえな、と何気に思った。
「そこで医学書とボクシングの入門書読んで頭の中に入れた。人の急所とか体の使い方とか。そんで試したら上手くいったっつーか。大したことしてねえよ」
「それであれなわけ?凄くねえ?」
「あの頃はね、頭の中に読んだ本が写真みたいに出て来てさ、その通りにやってたらそのうち体が覚えてくんの。ガキって賢いよな、今はそうはいかねえよ」
はは、と笑った顔がどこか寂しそうで、水戸の中にある憂いた塊は、どこまで行っても平行線で、この先も共感することは出来ないのだと思った。知って隣に居ることは出来ても。
「高学年になってからも時々行ったよ。小遣いから買える本探して」
「え、何買ったの?」
「あんたに縁のない小説とか。面白かったな」
馬鹿にすんな、と言うと、だってそうだろ?と水戸は笑った。
「何にしろ、暴力はよろしくないよね」
「それお前が言うか?」
「いやまあそうなんだけど、好き好んで人を殴ってた訳じゃねえよ」
「暴力嫌いって言ってたもんな」
「うーん、何つーか俺自身の問題っつーか」
「そっか」
これはここでストップかな、そう思った。何となく、それ以上は聞くべきではないような気がした。意外とオレにも自制心ってあるんだな、と水戸に気付かれないように小さく笑った。その後は、初体験は?とか初恋は?とか色々聞いた。初体験は中一だったっけ?母親の店にバイトに来てた子と流れで何となく。水戸はそう言った。長々と説明染みた話はしなくて淡々と、静かに声を出していた。初恋は保健室の先生だそうだ。ベタだな、と言うと、優しかったんだよ、と水戸は目を伏せて笑った。オレは水戸の声を好きだと思った。静かで一定で、抑揚がない。頭の中で一度噛み砕いてから喋っているような気がした。心地いい声だと思った。不意に水戸が、探るようにオレに話した言葉を思い出した。居ないと困る、努力します、噛み砕かれていない言葉の羅列だった。頬杖を付いて水戸の声を聞きながら、あの日の言葉を思い出した。ずっと聞いていたくて、何度も話し掛けた。するとその内、煙草吸って来ていい?と聞かれたので一時中断する。その後も聞こうと思ったけれど、話し疲れたからまた今度、と宥めるように頭を撫でられたから絆されるように黙ってしまった。あんたの話は?バスケの話してよ、そう言われたので、ゲームの話を始めた。頭の中では、やっぱり水戸の心地いい声が反芻していた。

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