幸福の咎

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マンションを飛び出して来たものの、特に行く場所を決めていた訳ではなかった。一度外に出て風に当たれば、そこそこ頭は冷える。どうすっかなあ、と考えてみたものの、戻るという選択肢はハナから除外だ。あいつはオレを好きじゃない、売り言葉に買い言葉というのは正にこれか。もっとも水戸は、売り言葉というほど喧嘩腰な口調でもなかったけれど。水戸は常に冷静だった。静かに淡々と、ただ喋っているようだった。それが余計に苛ついた。お前はオレを好きじゃない、それを本気で言ったのかどうなのか、今はもう分からない。けれど、今自分が何をどうしたいのかが掴めない。それ以前に、掴むものが見付からない。このままじゃあ帰れない。帰宅したとしても、水戸の顔が見れないんじゃないか、あの目を真正面から見ることが出来ない気がした。オレが考えている普通という括りに感じている罪悪感を、あの目に見透かされている気がした。過去、生活、両親、その先、全部除外してくだらない話しかいつもしなかった。過去なんてどうでも良くて、オレには今しか要らなかったからだ。そのツケが今ようやく、回って来た。好きなだけじゃあ足りないから。
時間を見ようにも、腕時計を水戸に投げ付けて来たからなかった。癖で左手首を見た時に気付いた。舌打ちを一つして携帯を取り出した。午後十一時を回っていた。スーツだけで出て来たから、夜の一月の気温は酷く冷たかった。さむ、と小さく独りごちて、また携帯を眺めた。連絡はなかった。当然だと思った。例え今連絡があったとしても、話す言葉が見付からない。これは相当厄介だ。とにかく、今のこの状況はどう考えてもまずい。どこかへ入るかビジネスホテルに今日は泊まるか。頭の中が上手くまとまらない。バスケなら簡単に攻略法が見付かるのに、と短絡的なことばかり考える自分自身にいい加減笑えて来た。その時だった。携帯が鳴った。心臓が跳ねた。水戸?恐る恐るディスプレイを見ると、着信の相手は友人の菅田だった。一度深く息を吐いた。期待させんなよ、と焦燥した。が、それはすぐに消えた。逆に幸運だと思った。
「もしもし」
『おう、オレオレ。元気か?今週末サンダースとゲームじゃん。そしたら急にさあ、お前何やってんだろって思って』
遅くにわりーな、電話口の菅田は特に悪びれた様子もなくいつものようにおざなりな口調で、何故だかそれが今は酷く安堵した。
「その適当な全然謝ってるのが伝わんねえのも今日は許す」
『出たよ三井様。何、どしたの。いいことあった?』
「逆だ逆。今日泊めろ。黙って泊めろ」
『え、やだ。まじでやだ』
「いいから黙って泊めろ!ついでに迎えに来い!」
『オレは!お前の!そういうとこが!』
嫌いなんだよ!と電話口から聞こえていたけれど、耳から離して勝手に通話を切った。ちょうど駅の側を歩いていたので、そのまま駅構内に入る。財布はスーツのポケットに入っていた。良かった、安堵の息を吐いた。金が無ければお話にもならないからだ。東京方面の電車に乗ると、電車内は空いていた。時間も時間だからだ。ぽつりぽつりと座っているのは頭をもたげたサラリーマンや、携帯を弄っているOLと思わしき女性。オレもまた同じように、空いている座席に座った。一定に進む電車の気軽さが、妙に体に沁みる。携帯を取り出し、菅田にメールを打った。「東京駅でよろしく」と。考えてみれば、オレは菅田が今住んでいる場所は知らなかった。学生時代は実家に住んでいて、そこからアパートに引っ越したことは聞いていた。また遊びに行く、とは言ったものの、それから一度も彼の住む場所に行ったことはなかった。どんな生活をしているかも知らない。連絡は取り合っているけれど会うのは専ら外で、向こうが出向く方だからだ。たまにはいいんじゃねえ?と誰に言い訳する必要もないのに、そんなことを考えた。電車の窓に頭を預けながら、水戸のことを考えては止めて、考えては消した。その方が気が楽だった。あいつが今何をしていて、どう考えて眠っているのかなんて考えていたら気が滅入る。電車のように一定の速度で進めるような関係なら、何かが違ったのだろうか。足りないものは何だ?もう分かっているのに、それを全部放り投げて目を瞑って見ない振りをしていたのはオレ自身だ。今何やってんの?オレからの連絡を待ってる?それとも待ってない?もうどっちでもいいや。増えていく傷を舐めることもしないで抉って捲ることしか、今は出来ないから。
乗り換えも含めて一時間程度電車に乗り、東京駅に着いた。ポケットから携帯を取り出すと菅田からメールが届いている。「着いたら連絡寄越せ」そう書いてあった。あいつは何だかんだ言いながら面倒見がいいんだよなあ。そのまま着信履歴を出して、電話を掛ける。何コールか鳴ると、愛想のない声が聞こえた。
『はい』
「着いたんだけど」
『山手線四番』
了解、そう言って手短に返し、通話を終える。言われた通り四番乗り場に行くと、時間帯も時間帯だからか、人通りは疎らだ。菅田の姿はすぐに分かった。デニムにミリタリージャケットを羽織っていた。右手を軽く挙げて近寄ると、菅田が軽く驚いたような表情を見せた。
「三井コーチどうしたんすか、その格好」
菅田の目線が上から下まで動き、揶揄するように言われて気付いた。スーツだからだ。
「スポンサーと会食だったんだよ」
「出たー会食!さすがサンダースのヘッドコーチ」
小馬鹿にしたその言葉に思わず舌打ちすると、菅田は、はは、と笑った。ちょうど電車が来て、彼は歩き出した。何も言わずにそれに続くと、乗った電車もやはり人は疎らだった。終電間近の箱の中は、酷く物寂しい。座り放題の電車の座席に二人で並んで座った。学生以来だ、そう思った。電車の中で、菅田は何も言わなかった。喋らなかった。珍しい、とも思ったけれど、こいつが何も言わないならいいや、とオレも黙っていた。池袋に着いた時に菅田が立ち上がったので、オレも立った。電車を降りて、また歩き出す。コンビニ寄る?と聞かれたので、おう、と短く返した。菅田は未だに、何も聞かなかった。コンビニに寄ると、菅田はアルコールのコーナーに行った。オレはというと思い付く生活用品をかごに入れ、それからつまみ類も入れ、会計を済ませた。菅田も終わったようで、また連れ立って外に出る。
「お前何買ったの?クラッツ忘れてねえだろうな」
そう言って奴は、コンビニの外でビニール袋を覗き込んだ。店内の蛍光灯が外まで届いていて、目を凝らさなくても良く見える。それを覗いて数秒、菅田は顔を上げて眉を顰めた。そしてその後また数秒、変な間が空く。
「ま、まさかとは思うけど何日か泊まるつもり?」
「日曜には帰るって。ちょうどいいだろ、土日アルバルクとゲームだし」
「え、ちょ、何がちょうどいいのかオレ全っ然分かんないんだけど」
「その辺上手く流しとけって」
すると菅田はぼそぼそと、今日は水曜だから水木金土、と指折り数えながら計算していた。数えなくても四日だよ、そうは思ったけれど言わない。臍を曲げられても困るからだ。
「何でお前と四日も共同生活しなきゃなんねえの?女の子ならまだしも何でこんなでかい男と!」
「あーあーもう悪かったな、ほら行くぞ」
「だから何でお前が仕切ってんだよ!」
くそ、と菅田は最後舌打ちをして、歩道を歩いた。まだぶつぶつと、文句に似た何かを呟いてはいたけれど、そこはしっかりと聞かない振りをする。十分程度歩き、菅田が住んでいるというアパートに着いた。アパートというには不相応な外観に見える。菅田に付いて後ろを歩いていると、一つのドアの前で立ち止まり、鍵を取り出した。
「いいとこ住んでんのな」
「まあ、会社から半分出して貰ってるしね。つーかお前んとこの方がよっぽどいいとこだろ」
鍵穴に鍵を入れて捻ると、がちゃりと音がする。振り返った菅田を見て、オレは何故だかばつが悪くなった。その、よっぽどいいとこを出て、オレは今ここに居る。その現実が、酷く肩にのし掛かった。
「不本意だけどどうぞ」
「一言余計なんだよ!」
スニーカーを脱いで室内に入る菅田に続いて、オレも革靴を脱いだ。スーツが窮屈で仕方ないと、今更ようやく感じたことが不思議だった。この部屋は、玄関を上がるとすぐに階段がある。そこを上がり、LDKに繋がっている仕組みだった。へえ、と小さく言って室内を見渡すと、外観によく見合ったフローリングの部屋にキッチンに、更にはロフトがある。
「適当に座って。何飲む?ビール?」
「ああ、うん」
飲む物は正直どうでも良かった。菅田は昔から綺麗好きだった。学生時代、集まる場所は専らオレの部屋で、しばらく掃除をしていなかったりすると、きったねえなあ、と舌打ちした上に、掃除しろよ!と小言も言われていた。無視していたら、オレがその辺に散らかしたゴミをゴミ箱に捨てていたことが時々あったのだ。
適当に、と言われたのでローテーブルの前に座った。はあ、と一息吐いてからネクタイを緩めて外す。適当に後ろに放り投げて、もう一度息を吐いて辺りを見渡した。そこには当然灰皿はなかった。もっともあの部屋も、ローテーブルに灰皿はないけれど。でもそれでも、煙草もライターも灰皿も、この部屋にはない。その上、置いてある雑誌は車関係ではなくバスケ雑誌やスポーツ誌、一冊だけファッション誌があった。ここは違う。あそことは違う。鼻を吸った。それ以前に、まず匂いが違うと知る。ということは家主が違う。そう、全部違う。要は、ここに水戸は居ない。そういうことだ。
「おい、どうした」
「え、ああ。別に何でも」
出された缶ビールを受け取って、プルタブを人差し指で引っ掛けた。菅田はオレの斜め前に座り、一人プルタブを開けて、それを呷る。その後で、ビニール袋からつまみ系スナック菓子を取り出して開けた。彼は一人で食べて飲んでいた。少しの間沈黙が流れる。それを先に破ったのは菅田だった。
「聞くつもりなかったんだけど、まあ宿泊費の代わりってことで」
「何の話だよ」
平静を装っていたつもりだった。渡された缶ビールをようやく開けて、口を付けた。炭酸がやけに酷く染みた。
「お前洋平と喧嘩でもした?四日泊めるとかまじ勘弁して欲しいんだけど。つーか明日帰れよ」
答える代わりに舌打ちすると、今すぐ出てけ、と返される。また息を吐いた。やっぱりビジネスホテルでも泊まれば良かった、そう思った。
「まあ、厄介だよな」
「何?」
「恋愛感情が絡むと厄介だよねって話」
ぎょっとした。ビールを飲んでいなくて良かったと心底思った。それ以前に、驚きを飛び越えて声が出ない。吃驚、正にこれだ。
「お前自分の話しないしね、オレも聞いた所で主観でしか答えられないし」
「菅田……」
ようやく声が出たけれど、何を言ったものか分からない。水戸が喋ったか、とも考えたけれど、あいつこそ自分の話は喋らない。他人にオレとのことを言いふらすなんてしない。その分かり切った現実に、体がちくりと痛んだ気がして一瞬目を細めた。厄介だよな、オレもそう思うよ、それしか言えない。
「喧嘩の原因って何だよ」
「あ?あー、うーん、分かんねえ」
ふーん、菅田はそう言うと、ビールを傾けて飲んだ。奴が好きだというスナック菓子を食べる音が、無駄なくらい室内に響いた。
「ちょっと聞きたいんだけどさ、いつから?」
「は?」
「お前いつから洋平を好きなの?つーかお互い好きなの?」
「はあ?!何で言わなきゃなんねえんだよ!」
「いいじゃん、興味あんだよね。だってお前ホモじゃねえんだろ?それが何でって思うだろ普通に」
「お前はほんとデリカシーゼロだな!ぜっってえ言わねえ!」
「ケチだねー」
けらけらと笑う菅田を横目に、オレは深々と息を吐いた。いつからって十八の頃からずっとだ。溜息を吐いたのは、そう考えたら辟易したからだ。自分に対して呆れたからだ。オレはずっと、水戸が欲しくて足掻いて踠いて、それで今現在に至る。手に入れたと思っていたその人は蜃気楼か幻覚か、はたまた別の何かか。違うそうじゃない、水戸だった。捕まえ方も掴む場所も分からない水戸本人にオレは、ずっと恋をしてきた。体が何度も引き千切られそうになっても、あの捉えどころのないあの男が好きだった。あれだけが好きだった。その結果が「お前はオレを好きじゃない」に通ずるなら、今までオレがしてきたことは何だ。あれを未だに好きでいる自分まで否定したようなあの言葉は、なんて愚かで自意識過剰なのだろうか。
ビールを呷った。一気に呷った。おかわり、と言うと、自分で取りに行けよ、と菅田に言われた。ぎょっとした。自分にぞっとして引いた。考えてみれば水戸は、オレが「ビール」と言うと、「はいはい」と簡単に冷蔵庫に向かった。朝は朝食があったし、夜は夕飯もあった。洗濯物は干してあったし、掃除機はオレが遠征で居ない間に掛けてあった。掃除洗濯料理、自分ですべきことも水戸に任せていて、終いには呪いを掛けて縛り付けた。あいつの優しさに付け込んで、逃げ出さないように囲った。もしかしたらもう、本当に水戸は。
水戸はオレを好きじゃないんじゃないか。
小さく言ったようにも思えるし、言葉にもならなかったかもしれないその言葉は、辛うじて菅田に聞こえていたのかもしれない。言葉にしてしまうと酷く呆気ない。端的で端折る文字なんて一つもなかった。それが無性に虚しいと思った。その中には色んな理由があるのにも拘らず、発してしまえばほんの数秒で終わる。
「そう言われた?」
「いや」
はあ、と菅田は息を吐いた。かっこ悪い、自分自身をそう思う。
「オレはさあ、お前のこと強くてクレバーで、一流のバスケ職人だと思ってる訳よ。チームの勝利の為にっつーか、自分自身の為じゃなくて周りの為にっていうの?その時の最善の方法をね、勝ち取る為なら手段は選ばない奴だと思ってて」
「うん」
「まさかそいつが、こんな自分勝手なことを言い出すなんて思ってもみなくてさ、ちょっと驚いてる」
「自分勝手って何だよ」
「恋愛沙汰になると変わるんだなってこと」
真意が掴めなくて首を捻る。どういう意味?と聞くと、菅田はまた、息を一つ吐いた。
「どんな喧嘩して出て来たかは知らねえよ?でも言われてもないのに相手の気持ちを決めるのは自分勝手ってこと。そんな愛情、押し売りと一緒だろ?」
まあホモの気持ちは分からんけど。最後呟くように言ったので、苛ついて菅田の頭を叩いた。デリカシーゼロめ!と言うと、彼はまた声を上げて笑った。
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