幸福の咎

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「三井コーチ」
体育館で練習をしていた時だった。入口の辺りから声がして振り返るとそこには、サンダースのスポンサーである某銀行の島崎頭取が立っていた。彼は時々、サンダースの練習を見に来る。昔からバスケが好きだったそうだ。熱心な人だと思う。スポンサーの、しかも頭取クラスの人がわざわざ練習を見に来るなんてほぼ無いからだ。年若く見えるけれど、もう七十歳を越えているらしい。以前話した時に、そんな雑談をした。彼は軽く会釈して、オレを見ている。コートの中に立っていたけれど、そこから踵を返して彼に近付いた。頭を下げて挨拶をすると、頑張ってるね、とゆったりとした口調で言う。
「見に来てくださったんですか?」
「近くまで来たからね」
「ありがとうございます」
「最近、調子良さそうだね」
いえ、とまたオレは軽く会釈した。彼はまた、ゆったりと笑っている。
「最初にサンダースのスポンサーになると決めた時、周りからは大反対されてね」
「感謝しています。本当に」
「頭取の道楽に付き合うほど銀行は暇じゃないってね、でも今は君のお陰で活躍してくれてるから、私も鼻が高いよ」
「僕一人の力じゃとても。チームの連中はもちろん、周りが助けてくれるからです」
「そうだね」
普段とはまるで違う話をするから、内心戸惑っていた。オレと会話をする時は大概、昔のバスケの話と今のバスケの話で盛り上がるからだ。君の山王戦のビデオは何度も見たよ、とか、この間の試合は素晴らしかった、とかそういった類のことで、今のような話を聞くのは初めてだった。頭取は練習風景を眺めている。しばらくの間口を閉ざしていた。ボールとバッシュの甲高い音と声が体育館には響いていて、それが嫌に耳に響く。妙な空気が間を抜ける。
まさかスポンサーを降りるとかそういう話?ちょっと待ったまじで勘弁して。
「と、頭取?」
「三井コーチ、実は君にお願いがあってね」
「お願い、ですか?」




電車に揺られながら、今日の飯は何だろうと考えた。昼のメールには、普通に帰れると書いてあったけれど、この時間だと水戸が帰宅しているかは不明だ。午後七時、もしかしたらまだ帰っていないかもしれない。なんか疲れたなあ、電車の窓に頭を預けながら、時計を見てもう一度時間を確認する。何度見ても七時は七時だった。この時計は仕事用にと、就職して初めてのボーナスで買った時計だった。進んで行く秒針をぼんやりと眺めながら、数ヶ月前この時計の針が止まったことを思い出した。あれはまだ、去年の九月の初め、残暑の厳しい時期のことだった。ルミネ横浜で買った物だったから、そこで修理しようと水戸と出掛けた。車出せ、と言うと、酷く面倒そうに一瞥された記憶がある。新しく買うの?と聞かれたので、修理に出す、と返した。上手く使えば一生もんだぜ?と続けると彼は、へえ、と目を開いていた。驚いていたのかもしれない、あの男もああいう顔をするんだ、と思ったのだった。
帰宅する時の水戸は、妙に機嫌が良さそうに見えた。オレの買い物に付き合った時は大概無表情なのに、あの日は確か違ったように思う。何でかな、それは聞いていないから知らない。
帰宅しても、やはり水戸は居なかった。飯どうするんだろう、エアコンのスイッチを入れながら、未だに電車の揺れが体に残っているような違和感を感じて同じことを考えている。疲れが溜まっているのかもしれない。バスケから一歩離れると、特に最近は頭に全く力が入らなくて、思考回路がめちゃくちゃだ。だから大概、水戸の飯のことを考える。水戸の飯が食いたい今日の飯は何だろう朝メシは何だろう、そんなことを考えている。ダダ漏れだ、そう思った。疲れてるからだ、と。休みもなくてその上、妙なお願いをスポンサーの頭取から頼まれる。どうすっかなあ、頭を掻いて考えても、答えはイエスしかなのだけれど。
その時だった。玄関が開いて、その後足音が聞こえた。洗面所から水音が聞こえ、止まると少ししてリビングのドアが開く。
「ただいま」
「おかえり」
「あんたも今帰ったの?」
「うん、さっき」
「お疲れさん」
水戸は一度、オレの頭の上に掌を置いた。自分が触れられるのは嫌がるくせに、すぐに触る。頭を撫でる。喉が詰まるのを放って、オレは平常心を装う。水戸がベランダに行くのを見送ってから、寝室に行って部屋着に着替えた。またリビングに戻ってしばらくすると、水戸もベランダから帰って来る。
「水戸」
「ん?」
オレさあ、と言いそうになった。口から見知らぬ何かが飛び出そうになった所で、上手く飲み込む。
「あ、今日何食う?」
「そうだな、炒飯でも作るか。冷凍餃子もあったし」
そう言うと水戸は、まずは冷蔵庫を開けてビールを二本取り出した。先に一本をオレに手渡してから、自分のそれもプルタブを開ける。飲み込む様を見詰めていると、自分のものは爪で引っ掻くばかりでなかなか開けられない。こつ、こつ、と軽い金属音を聞きながら、喉仏が好き、エラが好き、そんな的外れなことを並べている。その癖その反対側で、練習中にスポンサーに言われた言葉が頭の中でずっと反芻している。
「どうした?何見てんの」
「あ、いや」
「何、疲れて開けらんねえ?」
「ばっか、ちげえよ」
「はは、だよね」
水戸はカウンターにビールを置いて、食材や冷凍庫からは餃子を取り出した。水戸が作る炒飯は簡単だ。簡単だけれど抜群に美味い。卵とネギと人参と、使う食材はその時々ある物を適当に入れる。胡麻油の分量なのか、はたまた最後に入れる醤油の分量なのか、それは結局オレには分からなかったけれど、唯一分かっているのは、オレが作る炒飯は未だにべちゃべちゃで、それなのに水戸は文句を言わないことだった。かといって美味いとも言わないのだけれど。けれども彼は、オレが稀に作る料理に対して、何一つ不満を述べない。
水戸は今、まな板で食材を切っている。その間に餃子を焼いている。段々と餃子のいい香りが漂う。蓋をして蒸している間に、別のフライパンで炒飯を作り始めている。手際いいな、といつもの様子を眺めながら、オレはキャビネットに凭れて後ろから水戸の姿を盗み見る。
水戸よ、オレは今日、スポンサーのしかも頭取に、女の子を紹介されました。しかも自分の孫だよ孫。十九だってよどうするよおい。明日飯食えってさ。予約してあるからってさ。そういう重たいのじゃなくて気軽にご飯食べてくれるだけでいいんだって言われたんだけど、どう思う?
頭取の話はまとめるとこうだった。もっとも、水戸に言った所で何の変化も無ければそれが無くなるわけでもないから言わないけれど。要は諦めだ。オレは諦めていた。だから言わなかった。万が一水戸が「行くな」と言ったとしてもオレは行かなければならないし、「へえ、そうなんだ」と言われて苛ついたとしても当然行かなければならない。何故なら仕事だからだ。究極の二者択一でも何でもなくて、ノーは無い。あるとすれば、行くなと言われて喜ぶオレか、そうなんだと素っ気なく言われて喧嘩上等になるオレか。これこそ究極の二者択一。もっとも、答えは聞かなくとも分かるけれど。後者だ。間違いなく。
「水戸ー」
「何?」
水戸は振り返らない。炒飯を作っているからだ。
「明日遅くなる。飯も要らない」
「了解」
ほら、こんなもん。また頭取に言われた言葉が頭をなぞる。ビールを飲み込んでも、それは無くならない。「うちの孫がね、三井コーチを格好いいって言っていてね。一度で構わないから食事して貰えないかな。まだ十九で世間知らずでわがままだけど、孫だからやっぱり可愛くてね。重苦しく考えないでいいんだよ。それこそじじいの道楽に付き合うくらいの気軽に構えてくれて構わないし、先のことなんて勿論考えなくていいから、単純に食事して欲しいんだ。どうかな?」どうかなって言われても、大切なスポンサーから頼まれたら答えはイエスだろどう考えても。だから仕事。仕事仕事。
その日の夕食は、無駄に喋った。見えない何かを掻き消すみたいに。

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