ふたりの知らない朝

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「三井さん、きっとあなたは気づいていらっしゃるかと思うのですが、きょうはお願いに参りました」
 瀬戸は居住まいを正すように、椅子に座り直す。三井も手を止め、鼻からゆっくり息を吐き出した。
「T県は地方の田舎です。スポンサーもまだすくなく、弱い。経済力もチーム自体も、サンダースには劣ります。ですが、ドラゴンマジックはもっと強くなれる。あなたの知性と、アイデアがあれば」
 飾りっけのないストレートなもの言いに、三井は箸を置いた。
「来シーズンからのドラゴンマジックのヘッドコーチを、あなたにお願いしたい。どうしても」
 端的なのに、まっすぐ三井を見つめる熱量の深い瞳から、これが本気なのだとわかる。先日連絡を受けたときから、八割方予想はしていた。本来なら、すぐにイエスとうなずくべきだ。なにしろ自分は無職になるし、今後の見通しだって危うい。だけど。
 三井は深く、ゆっくりと息を吐いた。
「ご存知かと思いますが、オレはサンダースから契約解除されました」
 他人に自分から、はじめて口にした。けっこうあっさり言えるものなんだな、と思った。ただ一度声に出すと、より真実味が増して納得せざるを得ないものがあった。瀬戸は短く「はい」と答えた。やはりこういう噂は足が早い。
「契約解除って、かなり心象がよろしくないと思うんですよ。なのにオレなんですか?」
 瀬戸は腕を組んだ。うーん、と視線を持ち上げる。
「心象って、なんなんでしょうね」
 三井は首を傾ぐ。瀬戸はもう一度腕を組み直した。
「我々はもちろんのこと、ブースターも気まぐれですからね、勝ってしまえばそんな身勝手なものはあっという間にひっくり返るものなんですよ。心象が悪いって、逆に言えばおおきな武器になると思いませんか?」
 勝てば官軍負ければ賊軍、という諺を思い出した。
「今季のサンダースは選手の故障にやられましたよね。あれがなければ、と考えるのは浅はかですが、もったいないな、とは思いました」
「え?」
「あなたさえいれば、来シーズンはまた確実に勝てましたよあそこのチームは。惜しいことするなって。でもこっちはラッキーでした。こんなことでもなければ、お誘いできなかったので」
 かなりストレートできまりが悪くなり、三井は瀬戸から視線をずらす。
「運も実力のうちと言いますが、その実力はうちにあったようですね。三井さんも運がいい、また新しいチームをあなたが強くできるんですよ。わくわくしませんか?」
 その言葉を聞いた瞬間、背骨の内側がぞくりとした。自分の意思で触れることさえ及ばない場所が、感情だけで圧倒されてうずく。
「返事は早いほうが嬉しいですが、焦りません。三井さんご自身の事情もあるでしょうし」
 三井自身の事情、と言われ、たったひとりの人間が浮かぶ。しかしなぜかそれは、庭で水やりをする後ろ姿だった。
 黙っていると、瀬戸は箸を持った。食事を再開するようだった。三井も彼に倣い、箸を手に持つ。あの男のきれいな箸の持ちかたが脳裏をよぎり、真似するように三井は箸を持ち直した。
「どうか、前向きにご検討ください。待ってますので」
 三井は一度頭を下げ、残っていた地蛤を食べる。冷めていてもおいしくて、アルコールが進んだ。すこしの間、互いに口を開かず料理を食べ、三井は一拍置く。
「ドラゴンマジックとは何度も対戦していますが、サンダースより劣ってると思ったことは一度もありません。魅力的なチームです」
「ありがとうございます。俺もそう思っています」
 瀬戸ににっこりと笑われ、三井は肩の力が抜ける。自分まで、口もとが緩んだ。彼は、自チームが好きなんだ、単純に、ただそれだけでここまで来ている。
 食べましょう、と瀬戸が言う。牛ランプのローストにパエリアって書いてありますよ、こんなごちそう会食じゃないと食べられないから! と目をきらびやかせながら箸を動かす。おいしいですね、と彼は言い、三井はうなずいた。おいしいけれど、なんとなく味が濁って感じるのは気のせいじゃない。
 今ごろ水戸は、なにを食べているのだろう。
 帰宅すると、食欲をそそるにおいが立ち込めていた。ああいう、上品がすぎる食事をしたあとは、こういうジャンクなにおいがとくべつおいしそうに思えてならない。引き戸を開けると、もっと根強く濃いにおいが充満していた。
「おまえー、いいもん食ってんな」
「だろ? ビールにカップラーメンなんて最高だよ」
 おかえり、と水戸はダイニングチェアに腰かけたまま三井を見た。
 ――三井さんご自身の事情もあるでしょうし。
 瀬戸の言葉を思い出し、その後ろめたさに心臓が跳ねた。あのときなぜ、水戸の表情じゃなく、背中を思い出したのだろう。「ただいま」と出した自分の声が上ずっていないか気がかりだったが、消し去るようにして水戸の前に腰かける。自分の定位置だった。
「カップラーメンまじでうまそう」
 これは本心だ。胃袋がすかすかになったみたいに、ぎゅうっと鳴る。
「あんた貧乏舌かよ、いいもん食ってきたんじゃねえの?」
「聞いて驚けこのやろう、地蛤の炭火焼きに牛ランプしかも特選だぞ。すげえだろ」
「要はいい感じの焼き肉ってことね」
「ちげえよ!」
「だってわかんねえもん、貝と肉焼いてんだろ?」
「そうだけど!」
 水戸は麺を冷ましたあと、ずるずると麺をすすりはじめた。飲んだあとにラーメンが食いたいってこういうことだと思う。
「で、なに、食いたいわけ? そんな高級食材とやらを食ってきたくせに」
「うん。飲んだ締めのラーメン的なやつ」
「あー、あんた酒くせえもんな」
「え、まじ? そんなに?」
「あれだよね、他人のちょっとしたにおいってさ、けっこうわかる」
 そうかもしれない。たしかに、ここに帰ってきたとき、においがちがった。いつもとちがう、とくべつ体に悪そうでおいしそうなにおいがただよっていた。水戸がつくるご飯とはまったくちがうせいか、とりわけ目立った。
「やべえ、まじで食いたくなってきた」
「あっち」
 あります、てきとうに漁ってお湯沸かしてください。水戸は親指で後ろのキャビネットを差した。食べたかったけれど、水戸がつくってくれる気配がなくて食欲が失せる。
「やめた」
「なんで」
「おまえがしてくんねえから」
 はあ、とため息をつかれた。
「自分でやんなさいよ、お湯沸かして注ぐだけでしょうが」
「やだ、しない」
 今度はもっと深く、はあああーとあきれはてたように息を吐かれる。
「あんたさ、そのやってもらって当たり前って感覚いい加減どうにかしなよ。俺がいないときどうすんの」
 三井はぎょっと肩を揺らした。椅子が、ぎしっと音を立てた。
「は? なに、なんだよ急に」
 バレた、と思った。けれどそんなはずがないと思い直した。だいたい、バレたってなんだ、なにがバレたら困る、そう、まだ決めかねているし水戸が言うのは単純に、「自分が仕事でいないとき」というだけで。
「いや、なんでも。でもラーメンはもういいや」
「あっそ、まあいいけど」
 水戸はふたたびラーメンをすすった。食べるときの勢いはいいけれど、ふーふー息を吹きかけるのは猫舌だからだと思う。三井は逆に、熱いのは平気だった。こういうちょっとした差を見つけた瞬間、ああ、と思う。
 地蛤、牛ランプ、ドラゴンマジック、水戸の背中、どれもこれもちがう名詞なのに、三井のなかで同じ場所をうろついていた。
 この世でどうしても手放したくないものはたったふたつしかないのに、どうしてふたつ同時には手に入らないのだろう、同じ場所で、今までこの手にあったのに。
「なあ水戸、きょうしたい。する」
「やだ」
「なんで!」
「あんた飲んでるときすげえやかましいし」
「あーー! ムカつく! すっげえムカつく殺す! 猫舌のくせに!」
「猫舌関係ねえだろ日本語不自由か」
 そう言って水戸は、また麺にふーふー息を吹きかけて残りの麺をすする。ごちそうさまでした、と手を合わせ、スープが残った容器をシンクに下げた。きっと今夜、この部屋はカップラーメンのおいしいにおいが消えないのだと思う。
 風呂入れよ、水戸は言った。彼は煙草とライターを持ち、ベランダではなく縁側に行く。三井は水戸の言葉に答えず、水戸の背中を見続けた。
 ――わくわくしませんか?
 うん、したよ。した。すごく。水戸を一瞬、いや、「三井さんご自身の事情」と言われるまで、忘れていたくらい。
 オレは自分をよく知っている。狡猾なことも、薄情なことも、バスケを最優先することも。
 だからあのとき、毎日庭に水やりをする水戸の後ろ姿が浮かび、後ろめたくなったことも。

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