かはたれの背中

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沈む体がどこにあるのか、ここにあるのかもしくは違う彼方にあるのか、三井は分からないまま目を開けた。開けて何度瞬きをしても、目の前は薄暗いままで、脳は勿論体も心許なかった。頭と体が切り離されたような、違和感や怠さや、動かすと多少痛みを含んでいることだけは分かった。だけれど、俯せになっていた体の上は温かかった。そのせいでまた、三井は目を閉じそうになった。ああそうだ布団、三井はそう思った。そこでようやく、昨夜の惨状にも似た行為を思い出した。今自分は、水戸の部屋のマットの上に俯せで眠っている。首を反対側に動かすと、誰も居なかった。そこで三井はようやく覚醒した。急に体を動かすと、軋んだように急激な痛みが全身を襲って声にならない声を上げる。目を凝らすと、散らばった衣類が見えた。拾い上げて履いて行き、のそりと緩慢な動きで立ち上がる。ゆっくりと体を伸ばして柔軟すると、くぐもった声が出る。息をゆっくりと吸い込み、音を出すように吐き出した。リビングを見渡すとそこは、閑散としていた。整った炬燵に、物が少ない部屋。点いていないテレビに、灯りの点いていない古びた照明器具。昨夜の出来事が嘘だったように静寂に包まれたそこは、酷く無愛想に見えた。もっと室内にはそれなりに温度があったのではなかったか。それとも部屋が薄暗いからか。痛んで覚束ない体とは裏腹に、思考は酷くクリアだった。というよりも、あっさりとシンプルに、全てが削ぎ落とされたようでもあった。
室内には誰も居なくて、三井はベランダを見た。レースカーテンからぼんやりと、人影が見える。水戸だ、それを知った三井は、躊躇することなくリビングから窓を開けた。引くと砂が噛んでいるかのように重く、錆びているのか元々が古いのか、どちらかは定かではなかった。ただ重くて、違和感があった。ここはあの、以前二人で過ごしていたマンションではない。それを改めて知った気がした。足を踏み入れるとそこは酷く冷えていて、凍えるほど寒い。ソックスを履いてくれば良かったと後悔した。三月初めの気温は低いのだ。今は夜更けなのか夜明け前なのか、それすら分からなかった。街灯だけが灯る外は仄暗くて寒くて、三井は身震いをした。水戸はきっと三井に気付いている。それでも変わらず、煙草を口に咥えていた。
「起きたの」
「うん」
そうは言ったものの、水戸は未だに三井を見なかった。水戸はベランダに肘を掛け、そこから臨む海を眺めている。もっとも、三井にはそう見えるだけでそれが正解かどうかなど分からないのだけれど。
「海、見に行くか」
「え?」
「約束したろ」
そう言うとようやく、水戸は三井を見た。自分を見上げる水戸の真意を測りたいのに、三井にはほんの微かでも覗くことは出来なかった。
「あんたが言ったんじゃなかったっけ。あっちに居た時」
「覚えてたんだ」
「一応ね」
こうして見詰め合った瞬間にようやく、背を向けて来た筈の波の音が聞こえた気がした。ここに居れば聞こえる筈の無いそれが、耳の先を通過したように感じた。その姿さえも今は闇夜に紛れて見えないのに。





時間は午前五時二十分だった。どうりでまだ暗い筈だと三井は思った。財布と携帯と鍵持って、出がけに水戸にそう言われ、三井は何故だか慌ててそれらをコートのポケットに突っ込んだ。今ポケットに突っ込んだ掌にそれらが当たっている。無機質な冷たさが、妙に指先を伝った。海までは歩いて凡そ五分程度で、歩道から道路を渡る際も車は然程走っていなかった。暗がりに慣れた目と街灯だけを頼りに歩きながら、二人は無言だった。ただ、歩調はゆっくりとしていた。しばらくの間防波堤の横を歩きながら、浜へ降りられる場所を探した。最初に見付けた階段を降りると、一層潮風が強くなる。三井は自然と肩を竦めた。水戸は前を歩いていて、その姿からはとても寒さを感じている様子は伺えなかった。しばらくの間浜辺を歩き、三井は水戸の背中と、時々左側にある波を見る。暗闇と見分けが付かないその色は、普段の姿より幾らも圧倒的な存在感を持って見えた。水戸はいつも通りポケットに手を突っ込み、少しだけ猫背だ。三井から見える後頭部には多少寝癖がついている。ただ、今は風に揺れていてそれも感じなかった。黒髪と周囲の色が混同していて、水戸の姿はぼんやりとしている。三井は彼の背中を眺めながら、それさえも景色と同居でもしてしまったのでは、という見分けの付かない自分の見解が厄介で、何度か瞬きをした。喋っていないせいだ、と思った。かと言って、何を話せばいいのかも分からなかった。だから的外れにも、寒くねえ?などとどうでもいいことを問うた。彼の返答は、別に、だった。あっそ、と返した三井に水戸は、何も言わなかった。目の前には砂浜と海と、その茫漠な景色と波音だけが広がっている。暗くてだだっ広い終わりの見えない世界に、ぽつりと三井だけが一人で居るようだった。二人で立っている筈なのに、暗闇の中にいるからか三井は、酷く孤独を感じた。そういえば、孤独を得るには誰かが必要だったことを思い出した。元々一人なら強くそれを突き詰めることはないだろう。水戸がそこに居るはずなのに、三井には言い様のない物寂しさを感じた。夜明け前だからか、広がる真っ黒の海を眺めながら、そう思った。
水戸は立ち止まり、海原を眺めていた。三井もその隣に立った。横顔をちらりと盗み見るも、やはり水戸の真意を図ることは難しかった。オレは水戸の何を知っていたのだろう、三井はそう考えて愕然とした。広過ぎる海を眺め、変わらなく続く単調でそれでいて大きな波音を聞いて、彼を推し量ることが全く出来ない自分に目を背けたくなった。
「なあ」
「ん?」
先に声を出したのは水戸だった。三井は少しだけ驚いていた。が、それを露わにする素振りは見せなかったと思う。
「卒業式の朝もそういや、この時期だったね」
「え?あ、そうだな」
「懐かしいな」
その言葉を聞いた時、三井はただ、あ、と思った。何に対してか、それは分からなかった。ただ、あ、とだけ思ったのだ。ぶら下がったままの掌を思わず、握っては開いた。そして口を噤んだ。けれども何故か、今喋らないと、と直感的に感じた。何でもいいから何かを、と思ったのだ。
「水戸!」
「ん?」
「あー、あの、あれだ」
「どれだ」
「お前あれだ、何であそこにまた住んでんの?」
そうだった。これは素朴な疑問だった。すると彼は、ああ、と何かを思い出したように静かに声を出した。
「俺の母親がね、今付き合ってる奴に付いて神戸行くっつってたんだけど」
「は?」
「まあ結局行かねえんだよ。でもとりあえずは別の部屋に住むみたいでさ、そんで俺がこっちに来てる。あの人ずっと、あの市営アパート借りてたんだって。俺は知らなかったけど」
「えーっと彼氏?何で付いて行かねえの?」
「寂しいのも悪くない、んだそうで」
「どういう意味?」
三井が聞いても、水戸は目を伏せて笑うだけだった。ああどうしよう、そう思った。こんなにも自然と聞けるのに、と思ったのだった。卒業式のあの日の早朝、同じような時間に同じ海で、三井は水戸から「聞いていいよ、答えるから」と言われたことを思い出した。あの頃は例えそう言われたとしても、口に出すことを憚られた。それから時間が経ち、年数が経った。聞けることも話せる内容も増え、三井は彼に踏み込むことを覚えた。それが許されているのだと。今だってそうだ。三井は躊躇しなかった。けれども何故だか、何か解くことが酷く難解な分厚い糸の束が、三井の前にあった。あの頃より今の方が、距離も意識も近いのに。その筈なのに何故か。それは海を見据えた時に感じた孤独と、酷似しているように思った。寂しいのはオレだ、三井は歯を食い縛った。
「三井さん」
嫌だ黙れ、三井はそう思った。喋るなお前は喋るな、そう言いたいのに言葉が出なくて、また三井は掌を握った。あの時感じた「あ」の正体が分かり、足元が重くなる。砂浜にスニーカーが食い込んで、食って離さない。耳にはずっと波音が規則正しく聞こえている。夜が明けないのだ、未だに。
「あの人が神戸行くっつった時、正直俺、凄えムカついたんだよね。つまんねえ言い方して、我ながらガキみてえだった。でも結局こっちに残るって言われて、凄え安心してんの。笑えるよ、ほんと」
だから何?と思った。的外れな話だと、三井は自分の頭の中で理性的に解釈をした。水戸はただ、世間話をしているだけなのだと。そう信じていたかった。
「なあ、水戸」
「あの人、俺の母親ね、未だに俺の父親に惚れてんの。つっても相手は別の人と結婚してっからさ、どうにもなんねえんだけど」
せめて夜が明けてくれないと、闇夜に慣れた目で水戸の顔が見えた所で、それはただのぼやけた輪郭でしかなかった。手を伸ばした所で結局、届きはしない。
「だからまあ何つーか俺も、寂しいのも悪くないって思うよ」
「なあって!」
水戸の目は、三井が何を言おうと正面だけを見据えている。
「三井さん、俺ね、凄え嬉しかった。昨日あんたが言ってくれたこと」
水戸、三井はそう言った。すると彼はようやく三井を見た。その表情は酷く晴れやかで、その逆、憂いているようにも見えた。どちらが彼の本意なのか、やはり三井には分からないのだ。どれが正解で不正解なのか。夜明け前で薄暗く、目の前に居る人が誰なのかも分からない。
彼は三井の手首を取った。そして掌を握り、ぐっと力を込める。
「俺はもう、あれだけで充分だ」
「どういう意味?」
「この手から、奪うしか出来なくてごめん」
「やっぱり終わらせる気かよ」
「元々終わってたろ」
そう言うと、水戸は三井の手を離した。元々終わっていた、そうだった。それを無理矢理三井が居場所を聞き出し、押し掛けた。
「じゃあどうすんの」
「どうするもこうするも、どうしようもねえだろ」
「またオレが押し掛けたらどうすんだよ」
「しょうがねえから茶でも出すよ」
「キーケースと指輪どうすんだよ」
「処分して。あっても困る」
ああもう本当に終わる、三井は動かない水戸の現実をこの目で確認したようだった。絶妙な距離の取り方に、三井は唾を飲み込むしか出来ない。
「ほら三井さん、見てみな」
水戸は言うと、それを顎で示した。三井は水戸の言うように、前を臨む。目の前の海からは、ゆっくりと朝陽が覗いていた。まだ小さなそれはじわりと海を照らしていて、昇る直前の微かな光が線のように見える。何かが始まる瞬間だった。まだ明るくはならず、一層ぼんやりと霞んだ。ずっと見ているのが堪らなくなり、三井は時々水戸の横顔を覗き見る。俺はもうあれだけで充分だ、今この横顔を見せる男は昨夜三井が「殺せ」と叫んだあれがあれば充分だと言った。それで満足出来る術など三井は持ち合わせてもいなくて、奪うしか出来ないと言われても言い返しようがなかった。実際その通りだ。彼と居ると三井は、この夜明けの海と同じように全て飲み込まれる。今この瞬間も未来も。リスクばかりが浮かび、それ以上に何より、水戸の存在は三井の全てを占領した。側に居れば居るほど、この夜明けの海のような男は底が無く、その寂しさを埋められない自分に苛立ち、それでも欲すると息が詰まった。体で繋ぐくらいしか方法が無くて、それしか見付からないからやることがない。昨夜もそうだった。それしか分からないから、ただひたすら行為に及んで喉が渇けば水を飲んだ。それでも乾いたら水戸を噛んだ。がぶりと噛んでも柔く噛んでも結局渇きは治らなくて、だからキスを繰り返した。舌を差し込んでも差し込まれても同じで、どっちがどの体なのかが分からなくなるほど抱き締めても埋まらない。埋まらないからまた繰り返した。それでも尚、呼吸も出来ないほど苦しくなる。
だからもう、これで終わりにした方が余程楽になれる。今日からまた、水戸が居ないあの部屋に戻り、日々仕事に邁進して、これが日常なんだと突っ走る。ゴミの日にはゴミを出し、休みの日は掃除機を掛ける。食事をして洗濯をして眠り、また起きる。日々は続く。そこに水戸が居なくとも。
「夜明けの太陽、好きなんだ」
水戸が言った。彼がこうして、目の前にある景色を前に何かを好きだと言ったのを、三井は初めて聞いた。
「凄えよな。敵わないって思うだろ?」
いつもは三井の方が喋る。今日は逆だった。そういえば彼は、終わりにすると決めた瞬間はよく喋る。夏の終わりの体育館で、三井を待っていたあの日と同じように。自分は砂なのだと、彼はそう言った。あの日も確か水戸は、奪うだけで何も返せない、そう言った。あの瞬間に三井は、何を言っても無駄だと理解したのだった。どうしようもないのだと。それを無理矢理、明日まで明後日まで、せめて蝉の声が無くなるまで、と続けた。
「じゃあね。さよなら」

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