その他CP-2
□【迷惑メール】
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スピアーズ先輩とパートナーを組んで十年経った。先輩は人事課からこの辞令がくだった時、喜びもしなければ嫌がりもしなかった。いつものポーカーフェイスだ。
でも、俺は知っている。初めの内、俺と対峙する時の先輩は、いつもより多めに眼鏡を押し上げていた事を。
『めんど臭い』ってトコかな…。観察眼にかけては自信のある俺は、そう思った。
あれから十年。今では、先輩の仕事とペースを合わせる事も覚え、会話も淡々と坦々とこなすようになった。スピアーズ先輩は、これが通常運転なんだ。よく冷徹とか陰口を耳にしていたけれど、部下の不始末の責任を取って、したくない残業をするのは先輩だ。みんな、分かってない。
「スピアーズ先輩、また残業っスか?」
定時まで十分を残してまだ書類の束に囲まれている先輩に、俺は声をかけた。
「ええ。グレル・サトクリフの始末書と不備の報告書のお陰です」
残業続きで疲れているのか、珍しく苛立ったような声音を出して、先輩は眼鏡を押し上げる。
まただ…今日は、『早く帰りたい』って所かな。先輩の仕草は、雄弁に語る。他に気付いてる死神はいないだろうけど。
俺はそんなスピアーズ先輩が不憫で、ふと聞いてしまった。
「手伝いましょうか?」
言ってから、しまったと思う。仕事に関して妥協しない先輩が、俺になんか管理課の書類を任せる筈がない、と。だけど返ってきたのは意外な答えだった。
「合コンではないのですか?」
「え。はい。今日はないっス」
先輩の口から『合コン』なんて言葉が出るのは何だか不思議で、ややギクシャクと目を見張る。するとスピアーズ先輩は、
「お願いします」
と、数枚の書類を手渡してきた。それは『上』にあげるタイプされた報告書だったが、あちこちの誤字脱字に赤字でチェックが入れてあり、タイピングし直さなければいけないだろう。案の定、それはサトクリフ先輩の報告書だった。
「書名捺印は私がしますので、それをよろしくお願いします。私は、始末書の確認をしますので」
「あ、はい。分かりました」
十年目にして、初めて責任ある仕事を任された。仕事に関して、及第点を貰えたって事か。俺は柄にもなく嬉しくなり、スピアーズ先輩の隣のデスクを借り、タイピングし始めた。しばらくは、小気味いいタイプライターの音だけが、閑散とし始めた管理課に響く。
先輩は、仕事中に私語をしない。分かっていたがつい浮かれ気分で、手は休めないまま、冗談を投げかけた。
「一杯奢ってくださいよ、先輩」
「…」
予想通り、答えは返ってこない。けれど、俺はへこたれなかった。これがスピアーズ先輩の通常運転だからだ。二人きりになってシンとした管理課で、俺は一人饒舌に語った。
「夜景の綺麗なバーとか良いっスねー。先輩、酒呑めます?」
「…」
「先輩みたいなタイプって、下戸かザルなんスよね、たいてい。先輩が呑んでるトコ見た事ないから、下戸かな」
「…」
「俺はザルなんスよ。でも今夜決める!って時には、ガチな銘柄のシャンパンって決めてるっス」
「…」
「あ、でもスピアーズ先輩と呑めるなら、やっぱシャンパンですかね」
「…」
「…」
「…」
俺は喋りながら器用にタイピングもこなし、サトクリフ先輩の尻拭いを終えた。思わずふうっと大きく息をつく。
「出来ました!スピアーズ先輩!」
「そうですか。では、確認しますのでこちらに」
事務的に言って、掌を差し出す。俺はそれに応えて報告書を手渡しながらも、つい唇を尖らせた。
「先輩、ホント仕事死神っスね。俺、先輩とならクリュッグのシャンパンでも開けちゃうのに」
「不必要な贅沢品にやたらと金を費やすのは、趣味じゃありません」
そう言って、早速俺の仕上げた報告書をチェックし始める。黄緑の瞳が、紙の上を左から右へと忙しなく移動した。
「…問題ありませんね。お疲れ様でした、ロナルド・ノックス。ありがとうございます」
「先輩は?まだ帰らないんですか?」
「ちょっと調べものがありますので」
ようやくスピアーズ先輩との距離が縮まったように思えたのに、また離れてしまったように感じられて、俺は若干肩を落として、帰り支度を始める。十年も口説き続けてるのに、振られっぱなしの気分だ。
「じゃ、帰ります。お疲れ様っしたー」
「お疲れ様でした」