book1


□蝕
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― 夕時

広間にて夕飯の団欒の最中のことだった。



「いてっ・・・」

「どうしました若?」


つららは突然顔を歪めるリクオに心配そうに問い聞いた。


「・・・痛い」

「えっ」


見れば彼は手で右頬を押さえている。


つららは箸を置くと、リクオの方へ向き直った。


「若、お口あーんってしてください」


彼は素直に口を大きく開け、側近へ見せる。

彼女は未だ苦痛に顔を歪め続ける彼を慰めるように撫でると、その口内を覗き込んだ。


「あら・・・困りましたね」

「え?何だよゆきおんな」


状況が理解できないリクオは、あまりの痛みに少し涙目になりながら側近を見つめた。


「・・・虫歯です」

「むしば?」


まだ齢5つになったばかりの彼は、初めて耳にするその単語に首を傾げた。


「そうです若。虫歯というのは歯の病気で、歯医者様に見てもらわねばならないのですよ」

「え?鴆くんじゃダメなの?」


普段、風邪だの怪我だのの類は無条件で鴆の治療を受けてきた。

それだけに、鴆以外の医者に見てもらわなければならないという理由が彼には分からなかった。


「歯医者様というのは、お医者様とはちょっと違うのです」

「・・・?」

「歯を犯している黴菌を削り取らなければならないので、お薬でどうこうできることではないのですよ、若」


次第に顔をしかめていくリクオ。


できるだけ恐怖を与えないように。

そう努めてつららは必死に説明する。


子供が歯医者を嫌がるのは定番だ。

それを知っているからこそ、慎重に諭す。



「それ・・・もしかして、痛いの?」

「っ・・」


いきなり触れられたくない核心へ触れられ、百面相つららは一瞬動揺してしまった。

そして、この幼子は決してそのわずかな変化を見逃さない。


「やっぱり・・・」


リクオの顔が見る見るうちに恐怖の色へと変わっていく。

まずい。


そう思った時にはもう遅かった。

ここ最近、以前にも増して拍車のかかってきた悪戯の腕前と足の速さ。

それは大人たちが見ても目を見張るものがあり、元来のんびりとしたつららにとってそれは―



「あっ―、待ってください若っ!」


あっという間にどこかへ姿を消す主。


「はぁ・・つらら、こうなるって分かってんだから、きちんと掴んでおきなさいよ・・まったく」


いつの間にか隣へ現れた毛倡妓のため息が聞こえる。


「うっ・・・すぐに見つけてくるわよ!」


そう言ってまだ食べ終わっていない膳を置いてすっと立ち上がる。


「気をつけなさいよ?」

「何よ、若様とはいえまだ子供なんだから、捕まえられないわけ・・」


そう反論しようとすると、毛倡妓は首を振った。


「違うわよ。そうじゃなくて・・・最近若、馬鹿どもに変な事吹き込まれてたから―」


毛倡妓はそう言って後方でふざけている小妖怪達を一瞥した。


「・・・何のこと?」

「まぁ気をつけることね。そんなことより、早くしないと本当に捕まらなくなるんじゃない?」


つららははっとした表情になると、ぱたぱたと部屋を駆け出した。








「若ー!若ー!どこですかぁー!」


屋敷の部屋という部屋を全て回り終えたが、未だ姿が見当たらない。

一体どこへ―


「あっ」


そういえばまだ一部屋だけ見てないところがある。

自分の部屋だ。


「私の部屋・・・にいるとは思えないけど・・・」


念のため見ておこうと、部屋の障子をがらりと放つ。

自室特有のひやりとした空気が流れ出てくる。



「― リクオ様?いらっしゃいますかぁ?」


元より期待はしてなかったので、それ程よく調べずに踵を返した。




その時だった。

後ろから袖を勢い良くひっぱられて盛大に尻餅をついてしまう。

そして間髪を入れずに視界が奪われた。

いきなりの事に仰天して何がなにやら分からないつらら。


「り、リクオ様っ・・・?」

「うーん、なんでいつもバレちゃうんだろう」


自分の目元を覆い隠す小さな手。

覆いきれずに指の間から細く光が漏れている。


― こんなことやるのは、一人しかいないですよ。

心の中でそう呟いた。



すぐ背後から、速攻でバレたことにつまらなそうにする幼い声が聞こえる。


「リクオ様?捕まえましたよ、もう逃がしませ―」


― 刹那

口に初めて感じる違和感を覚えた。

それは柔らかく、マシュマロを唇へ当てられたような。

そんな切ない感触。

さらには鼻先にかかる生ぬるい風。

最初、何をされているのか分からなかった。



― 覆い切れていないその指の隙間から見えたのは、主の幼い顔だった。



「―っ!?」

「あはは!」


その快活な声と共に視界がぱっと開ける。


「り・・リクオ様?今何を・・・」

「みんなが言ってたんだ!こうすると幸せになれるぞって・・・」


自分がとんでもないことをしたことに気がついていない。

そんな彼は無邪気に笑う。


「・・・っ」


一方つららは突然与えられた口付けに、頬を真っ赤に染め上げることしかできなかった。


リクオ様に口吸いされた・・


その事実だけがつららの頭の中で無限回廊の如くぐるんぐるんと回っている。



「・・・どうしたの?ゆきおんな」


突然顔を真っ赤にし始める側近に、彼は訝しげな顔を向けている。

自覚がないからこそ恐ろしい。



あっ―

つららは先程の毛倡妓が言っていたことを思い出した。

小妖怪達に吹き込まれた”変なこと”とは、まさしくこれに違いない。

そんな話を真に受ける純粋な心。



しかし、それとは対象に―

自分の中に、今確かに感じた未知の感情。



「ん〜・・幸せになれるって言ってたんだけどな」

「・・・幸せになりましたよ?」


ぁ・・・

思っていたことがつい口をついて出てしまい、咄嗟に手で押さえる。


一瞬ポカンとしていたリクオは徐々に笑顔になって言った。


「ゆきおんなは幸せになれたの?じゃあ僕も幸せだ!」


そう言って無邪気な笑顔を見せてくる。


「リクオ様・・・」


そう言って照れた顔を上げると

そろりそろり・・・ と部屋から出ようとするリクオと目が合った。



”げっ”

いかにもそんな声を発しそうな顔でピタリと止まる。


「・・・リクオ様」


つららはそう言うなり、今度こそ彼の腕をしっかり掴んだ。

つららは思った。

今の口吸いも、彼の逃げる策略なのでは― と


そう解釈すると、つららは般若のような顔になって詰め寄った。


「リクオ様!もしかして、今の・・・新手の作戦ですか!」

「ち、違うよゆきおんなぁ」


逃げ場を失ったリクオ。

その自分の手をしっかり掴んで離さない手から確かに感じる氷の温度。


少し、違うことを期待してしまった自分が恥ずかしくてつららは顔を膨らして吼える。


「うー・・・じゃあ、ゆきおんなが代わりに歯医者いってよぉ」

「私が行ってどうするんです・・・・―っ!?」


今度ははっきりと見える―

眼前に迫った彼の顔。

再びふさがれたその冷たい唇。


「―・・・はぁっ・・ちょっと・・若!?」


彼の策略だとわかっていても、頬の熱は引くことを知らない。


「ははっ、これでゆきおんなに虫歯移ったから・・・」

「へっ?」

「ゆきおんなが歯医者、行ってきて!」


そう言って彼は拘束の手が緩んだ隙を見計らい、脱兎の如く駆け出した。


つららは何が起こったのかわからず狼狽する。



「え?・・・ちょ・・え?ま、・・待ちなさい若ーっ!」





― 本当に

移ったかもしれない。

虫歯ではない、別の何かが。


なんだろう。

すごく切ない。

得体の知れない胸の痛みが私を蝕むんです。







 

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