book2
□桜雪
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昼下がりの学校。
つららは屋上の手すりに肩肘をつき、所在無さげに階下を眺めていた。
視線の先は己の主のいる教室。
喧騒や危機感などとは程遠い、いつもどおりの穏やかな日常。
視線の先の彼も彼女と同じく机に肩肘をついて虚ろに黒板を眺めていた。
護衛という名目ではあるが、実質はただ屋上でぼーっとするだけの任だった。
実際、こうして主の護衛の任を受けてからただの一度だってこの緩慢な日常が揺らいだことなんて無い。
そして、彼女がこの売るほど持て余した暇の消費先はいつも一つだった。
「ふふっ・・」
うっとりと、にわかな笑みを含んでただ一点を凝視する。
たしかに彼女の任は”主の護衛・見張り”
一見、任務を真面目に全うしているようにも見える。
だがこの視線は、任である”護衛”とは大分かけ離れた色を持っていた。
数メートル先で壁に寄りかかりながら、今にも夢幻の世界へ旅立とうとしているもう一人の側近がその”色”に気がつくことは無い。
主の護衛の任を任されて、はや4年。
毎日これの繰り返しでは、熱烈な忠誠を誓う彼であってもこうなるだろう。彼の本領は腕っ節なのだから。
そんな怠惰な空間漂う中で、つららはただ教室の彼のことだけを考えてその時間を過ごしていた。
教室を見れば、授業が終わったらしい。
先程まで眠そうだった生徒達が活発に動き出す。
同時に、ふわっと欠伸をして教科書を片付ける主の元へ駆け寄る影に反射的に目を細める。
小学校からこうして見守っているが、その頃からちらつくその影。
聞く話ではずいぶん前からの幼馴染だとか。
つららは少しむっとした気持ちでそれを見守る。
少し前まではあの光景を見るたびに胸を締め付けられたものだ。
でも、分かった。そういうんじゃない。
彼は誰にでも優しいから―
彼は駆け寄るあの子に軽く笑いかけると、一言二言話す。
そしてすぐに手を振って走り去っていく。
それを見届けると、つららは鞄から凍結保存された弁当箱を取り出した。
そして屋上の入り口の方を向いていつもどおり構えた。
「あーやっと終わったぁ」
そして間もなく現れた主は伸びをしながらこちらへ歩いてくる。
自然と笑顔が零れた。
それがこの退屈極まりない学校での唯一の至福の時。
「お疲れ様ですっ、リクオ様!」
「おなかすいた・・今日の弁当は―」
「リクオ様の大好きなグラタンです!」
そう言って、凍りついた弁当の蓋をパキッと開ける。その拍子に無数の氷片が飛び散った。
それを聞いた彼はぱぁっと嬉しそうな顔をする。
その顔を見て胸に沸々と湧くこの上ない至上の幸福感。
先程までの退屈など、一瞬で吹き飛んだ。
暫くして、ふと箸の手が止まる。
何かおかしいことでも―
そんな不安が過ぎり彼の顔を見た。
「・・・?」
彼は不思議そうな顔をしている。
味が気に入らなかったのだろうか。
やっぱり冷めた弁当は嫌だったのだろうか。
「あの・・・・どうされました?」
すると彼は、つららの顔をしげしげ眺め回してくる。
自分の顔に何かついているのだろうか。
あまりにまじまじと見られるものだから、つららは仄かに頬を染めた。
「あ、あのぉ・・」
「つららって不思議だよね」
「へ?」
間の抜けた声を漏らす。
それを見て、彼はプッと噴出した。
「な、なんで笑うんですかぁ!」
わけが分からずに狼狽するつらら。
どうやらその自覚のなさが彼をおかしくさせているらしい。
勿論それを彼女が知るはずも無く。
「だって、僕の顔見てるだけなのにすごい幸せそうな顔してるんだもん」
クスクス、と笑いが止まらず箸が動かせないでいる彼。
ポッ、という擬音が出そうなくらい顔を染め上げるつらら。
「だって、幸せなんですもん」
笑われ続けてることに、少し顔を膨らす。
そんな表情さえもが彼のくすくすに拍車をかけているとは知らずに。
暫くやり続けた後、やっと収まった彼はさすがに申し訳なさそうにはにかんだ。
「ごめんごめん」
「じゃあどんな顔してればいいんですか?」
そう呟く彼女の声は少し拗ねたように篭る。
「いいよ、そのままで。つららの幸せそうな顔見てると僕も幸せだから」
そう言って優しく微笑む主。
それを見て、つららは胸の奥が跳ねるのを感じた。
”ドキッ”という音が聞こえそうな程に。
彼はまだ食べかけの弁当に箸を置き、つららの雪のような手に触れる。
今は春―
校庭に舞い散る桜の花びらを背にした雪女とは、相容れない互いでありながら溶け込むように美しい。
花鳥風月になぜ”雪”がないのか―
未だにそれが疑問だ。
そんなことを考えながら、リクオはつららの手を滑るように撫でる。
「・・・リクオ様、まだお弁当が・・・」
「桜、・・・と雪を同時に眺めながらこんな美味しいご飯が食べられるなんて、僕はとても幸せ者だね」
耳元へ口を近づけ、そんな殺し文句を吐いてくる。
勿論言うまでもなく彼女の頬はさらに熱を増していった。雪なのに―
「・・・・私も、幸せです。いつもリクオ様のお傍に居られて・・」
「傍に居るだけで、いいの?」
「はい」
「本当に?」
「・・・・はい・・」
リクオは徐々に語気が弱くなっていく彼女をそっと抱きしめて言った。
「正直に言って?本当に、傍に居る”だけ”でいいの?」
「いいえ・・・」
つららは暖かな体温を持つ胸元に顔を埋めてボソっと呟く。
ついには、彼女の頬は雪でありながら桜と共存しているかのように色を帯びた。
「・・・て、・・・です・・」
「何?聞こえないよ」
「見て、頂きたいです・・私だけを」
恥ずかしそうに、そして遠慮気味におずおずと呟いた。
「もしかして、またやきもち?」
見上げれば、彼の熱を帯びた視線が突き刺さった。
先程よぎった気持ちが、悟られていたと気づく。
「だって・・・」
「この前も言ったでしょ、僕は・・・お前さえいればいい」
熱っぽく、しかし愛しそうな
そんな視線に胸の奥がどろどろと音を立てて溶けていく。
やがて身体の全てを溶かしきってしまいそうな、そんな熱。
桜色に染まり仄かな熱を持った雪の肌へ、彼の唇が滑る。
その唇でさえも、つららにとっては灼熱の如く感じられた。
「―、好きだよ?つらら」
「・・・溶けて、しまいます」
もはや雪女のものとは思えない熱を帯びた頬に彼の手が触れた。
「熱いね」
「はい―、っ」
前触れも無く重ねられる唇。
それは軽く、ついばむように何度も与えられる。
熱い―
体中からものすごい勢いで氷が融解し、そして蒸発していく感覚。
ようやく小さな嵐が止むと、彼は―
夜のように、妖艶さを含んだ笑みを浮かべて言った。
「この波紋、鳴り止むまで・・・その炎は消えないよ?」
つららの真っ赤な顔を射抜かんばかりの視線の後、吐かれた台詞。
もはや収まりのつかなくなった熱が―
まさに明鏡止水・桜 ― のごとく、広がっていく。
「明鏡止水・雪―、なんて・・」
くすくすと笑う彼の顔は、またあどけない笑顔に戻っていた―