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□ノスタルジィと彼女
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 それはそれは昔々のことで、彼女の記憶にはうっすらとしか残っていませんでした。うすぼんやりとした記憶はイメィヂとして残っていました。これは彼女が様々な記憶を重ねても容易に見付けられるので、だから彼女はそれを忘れてはいなかったのです。それは彼女の夢によく出てきたので擦り減って色が褪せていました。彼女はそれを思い出す度に胸が高鳴るのを感じました。乙女の甘い動悸はトクントクンと脈打ち、確かに息づいていたのです。柔らかな首の肉が指先の切り揃えられた爪に食い込み、頸動脈はビクビクと痙攣していました。赤く、濡れた唇がぱくぱくと酸素を求めて開閉し、目はかっと見開かれていました。その瞬間、彼女はこの命は生きているのだと明確に感じました。
いきなり、目玉が飛び出んばかりに、目が見開かれ、ビクン、と一回体が痙攣しました。そしてゆっくりとその体から力が抜けました。何かに身を委ねるようなその動作は、この体から命が抜けていく様を表しているようでした。
 その記憶は彼女の夢に何度も出てきました。彼女の脳はゆっくりとそれを反芻し、処理しました。
 「何それ」
アタシの甘美な記憶を「何それ」と嘲るような含みを持たせて言った彼女は、それを真実だとは思っていないようでした。いちいち説明してやるのは面倒で、アタシは何も言わずに紅茶を飲みました。一口飲むとダージリンのいい香りが口の中に広がって、アタシはケーキが食べたくなりました。果物のどっさり乗ったフルーツタルト。
「それって人を殺したってことでしょう」
少しばかり鼻白んだようなその言い草に、アタシは思わず噴きだしてしまい、彼女に睨まれました。この人はどこまでもまともで、異常という言葉に耐性がありませんでした。受け入れる容量などありはしない、頑固なまでの彼女の普通さを、アタシはとても好いていました。
「ええ、それが何?」
「何って、あなたそれを何とも思わないの?!呆れた!どこまで腐ったふりすれば気が済むのかしら!」
彼女はまだアタシの異常性癖とやらに気付いていないらしく、ただの遊びに付き合ってやっている気分でいるようでした。でもアタシはその異常性癖を彼女に話す気などは全くありませんでした。
「それ、本当だとしてもいつの話なのよ?」
誰を殺したの?どうやって?彼女は矢継ぎ早にアタシへ問掛けました。アタシはそれらの問いに対して一つ一つ丁寧に答えました。彼女は最後に、こう尋ねました。
「何故殺したの」
アタシは返答に詰まってしまいました。その問いに対する答えを、アタシは未だに用意できていませんでした。もしかすると、意図的に忘れようとしていたのかもしれません。
「それはよく覚えていないわ」
だってずっと昔のことなんですもの。
アタシはそう言いました。彼女は「そう」とだけ言いました。
「多分、人間に命があるというのを感じたかったのかもしれないわ」
アタシはぽつりと、憶測を言ってみました。不思議なほど、それは当たっているように思われました。
「何故?」
彼女はアタシの欲しい答えを言い、先を続けさせました。
「そんな風に思えなかったから」
ゆっくりとその記憶が蘇りました。アタシは、そう、人に本当に命があるのか不安でした。この指に食い込んだ首の肉がアタシにそれを思い出させてくれました。彼女は一口、紅茶を飲みました。
「今もそうなの?」
「今は違うわ」
笑えないわ、と彼女は吐き捨てました。そうでしょうね、と答えたアタシの声はやけに自嘲的に響きました。ねぇ、と彼女はアタシに呼び掛けました。
「私のことも殺すの?」
意外な言葉でした。でもアタシは正直に返事をしました。
「気が向いたら」
「そう。じゃあその時は言って」
彼女は意外なほど冷静に言って、席を立ちました。まだ冷めやらぬ紅茶の、いい香りがしていました。アタシはどうすればいいのか迷いました。彼女の意外な一面に一番驚いているアタシは、ただそこで呆然と紅茶の入ったカップの底を見つめていることしかできませんでした。屈折して見ることの出来なかった部分の闇を見てしまった気がしました。
「あら嫌だ・・・何も分かっていなかったのはアタシの方だったなんて」
小さく呟いた声は、アタシにもよく聞き取れませんでした。


   〜eNd。。〜
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